エンドウアキラ

 その日、遠藤明は接待を終えて帰宅途中に、もう一杯飲んで行こうと思った。


 彼は酒が好きだった。

 種類は問わないし、量はかなり飲める。


 なんなら毎日三食にお酒をつけてもいいのだが、残念なことにそれができるのは休日だけだ。だから週に二日だけの楽しみだった。


 今日のように仕事がある場合、しかも接待があれば夜に会社のお金で飲むことができる。

 だが最近はそれにも上限が設けられたのが残念だった。


 酒に貴賤はないというのが彼のスタンスだ。


 ワインは安いものから高級なものまで。赤も白もロゼもいい。

 ウィスキーは水割りもストレートもロックも好きだ。

 日本酒だって珍しい銘柄があれば必ず頼んでいる。

 焼酎は芋でも麦でも米でもコーヒーでも緑茶でも栗でも紫蘇でもなんでもこい。

 泡盛も古酒もどぶろくもウェルカム。

 その他、ラム、果実酒、テキーラ、ジン、ウォッカ。

 苦手なものはひとつもない。

 アルコールであればメチルでもエチルでもいいとは言わないが、美味しくいただけるお酒であればなんでも好きだった。


 その中で、彼が一番愛していたのは冷えたビールだ。


 春に花見をしながら飲むビールは最高だ。

 夏の暑い夜、居酒屋に入った第一声は「とりあえずビール」に決まっている。

 秋はお風呂上りにキンキンに冷えたビールをぐいっとやるのがいい。

 冬は鍋をつつきながらビールを飲むのが好きだ。


 とにかく、遠藤明はお酒が大好きだった。


 そして、その日。

 彼は気が付いたら薄暗い空間にいた。


 目の前には誰も座っていない簡素な椅子が一つあるだけ。

 上を見たが天井は見えないぐらい高い。

 周囲には自分が座っている椅子と目の前にある空席以外に何もなかった。

 広い空間だ。

 寒いとも暑いとも感じないが、人気がないせいか孤独感がひしひしと圧し掛かってくるようだった。


「僕はなんでこんなところに……」


 呟いてみるが記憶にはない。

 たしか接待でお酒を飲んで相手をベロベロに酔わせてしまい、でも契約は任せておけと言質を取ったから問題ないとタクシーに放り込んで帰らせた後にもう一杯飲んで行こうと思った……はずだ。

 そこまではいつものことだから間違いない。


 実は彼の営業成績は悪くない。

 酒が好きな相手であればほぼ確実に仕事を取ってこられる自信もあった。

 実際、数値も残しているのだから間違いではないだろう。

 その実績があるからこそ、ある程度の接待代については目をつむってもらっているわけなのだが。


 いくら深酒をしても記憶を失ったことはないのだが、果たして昨夜はどうしたのだろうか。


「……駄目だ、思い出せない」


 こんなことはついぞなかった。

 もしかしたらお酒に弱くなったのだろうか?

 しかし数日前にはもっとたくさんのお酒を飲んでいるわけだから、急に酒量が落ちたということは考えにくい。


 もちろん、その日の体調によって飲める飲めないはある。

 だが昨日の体調はいつも通りで、お酒が入りさえすれば絶好調。いつものペースで瓶ビールを10本は空けた。

 そこからは焼酎、ウィスキー、カクテル、日本酒、梅酒とメニューを順番に制覇していったはずだが、それぐらいで飲み過ぎたということはないはずだ。


 もちろん酔いはする。アルコールを摂取しているのだから当然だ。

 しかしどこかで眠りこけてしまったりという経験は今までになかったことなので困惑していた。


 ここはどこなのだろうか。

 人の気配がないというのが気になる。

 まさか拉致でもされたのだろうか?

 こんなおっさんを誘拐したってろくに身代金など払えないというのに。


「そうだ、携帯」


 上着の胸ポケットに入っている携帯電話を取り出す。

 仕事で支給されているのはいまだにガラケーだ。電話がメインなのでむしろスマホよりは使い勝手がよい。


「……駄目だ。電波が入ってない」


 電池はまだ残っているのだが、アンテナが立っていなかった。これでは電話をかけることもできない。


 椅子から立ち上がろうとしたときだった。


 コツコツコツと靴音が後ろから近づいてくる。

 音がする方に顔を向けた瞬間、まるで大吟醸のあまやかな香りをかいだ気がした。

 目の前を通過した何者かは、正面の椅子に深く腰掛ける。


「お待たせいたしました」


 そう言ってにっこりと微笑むのは、まさに女神と称して恥ずかしくない美女だった。


「あ、あの……」


「遠藤明さんですよね。ようこそ、死後の世界へ」


「……は?」


「あなたは先ほど亡くなったのです。何が起きたかわからず混乱しているかと思います。ですが、あなたは死んだのです」


 死んだという言葉が頭の中でぐるぐると回っている。

 どういうことだろうか。

 この美人は突拍子もないことを言っている。

 もしかしたら、テレビ番組のドッキリ企画とかそういうやつだろうか。素人の反応を見て楽しむ的な。だとしたらここは期待通りのリアクションを取るべき? いや、断固抗議をするというのもありかもしれない。個人情報保護法とかを盾にとって文句を言えばなんとか……。


「わたしは死者を次の世界へ誘うことを生業としている女神です」


「女神……本当に?」


「はい、もちろんです」


 言われてみれば、こんなに美しい人は芸能人でも見たことがない。

 よくよく見れば後光が差しているのではないだろうか。

 なんかこう、彼女の背後に光源があってキラキラと輝いてる気もする。


「僕は……本当に死んだんですか?」


「はい、残念なことですが」


「……死因を聞いても?」


 女神が憂いの表情をする。そんなにひどい死にざまだったのだろうか。

 しかし今の体は痛いところなどなかった。

 もっとも、ここが死後の世界というのならば肉体と魂が切り離されて、今ここにいる自分は魂だけだから肉体の損傷など関係がないのかもしれないが。


「横から飛び出してきたトラックが――」


 ああ、やはりと思った。

 やはりこういうのはトラックが原因なのだと。


「お酒の自動販売機に突っ込んで、散乱した缶ビールを踏んでバランスを崩して頭を打って亡くなったんです」


「そりゃひどいオチだな、おい」


 我がことながらなんとも情けない最期だった。


「今回の死についてなのですが、あなたに非はありませんでした。ですから次の人生では少しだけサービスを差し上げたいと思っています」


「サービス、ですか?」


 心の中で警戒をする。

 契約時のサービスという言葉ほど信用してはならないことをよく知っていたからだ。

 相手の心が動きそうなときの最後の一押しとして利用する場合、その前の契約内容によく注意しておく必要がある。


「はい、そうです。あなたの信仰では輪廻転生というシステムがあるようですが、これはつまり死んでしまった魂が何度も人生を繰り返すことですね。あなたの生きていた世界へ新しい生命として生まれ変わるのは可能です。そしてもう一つ、まったく別の世界へ、今のあなたのまま。つまり知識や経験、人格や肉体を持って人生を始めることもできます」


「ちょっといいですか。それってあまりメリットを感じないんですけど」


 そろそろ人生の半分近くを生きている。このまま人生を再スタートしたとして遠くない未来にはまた死が待っているわけだ。

 どうせやり直すのであれば、若返りをするなり、赤ん坊の状態で始められた方がいいのではないかと言いたかった。


「もちろん、赤ん坊から始めることも可能です」


 隠されていたカードがひとつめくられたわけだ。相手の手札をしっかり確認をして交渉ごとは進めなければならない。


「ですが、その状態からですと、飲酒が可能になるまでにかなりの時間が必要になってしまうのですけれど――」


「そうですね。赤ん坊からやり直すというのはプランから外しましょう」


 今の人格を持ち越すということは、酒が大好きな状態でいるということだ。飲酒が可能になるまでに何年かかる? 15年? 20年? そんなにも禁酒生活を続けられるとは到底思えない。

 ならば、今の状態のままで人生を始める方がいい。それならすぐにだってお酒を飲むことができる。


「それからもう一つサービスがあります。それは技能や能力を授けることです。新しい世界は今までとは全く違う世界となります。生き残るために生存系や戦闘系、魔法などの技能がありますが、あなたは何を希望されますか?」


 しばらく考える。

 貨幣経済が浸透した世界なら金は必須になるはずだ。

 生き残るためという不穏な言葉からも戦う技能は必要かもしれない。だがケンカなどろくしたことがない自分にできるだろうか。

 それならば思い切って自分が欲しいものを要求するのがいいだろうか。

 欲しいものといったら――


「決めました。僕が欲しい能力は――」


        ※        ※        ※


「そして僕はこの能力を手に入れたんです」


 コポコポコポと軽快な音をさせながら、黄金色の泡が立つ飲み物をグラスに注いでいた。


「はい、どうぞ、カレタカさん」


「すまんな」


 氷室で冷やされていたグラスには金色と白色の比率が7対3で入れられている。


「ごくっ、ごくごくごくごく……ぷはー! うまい! やはりアキラのいれてくれるビールは最高だな」


 口の周りに白いひげをつけたままカレタカは唸った。

 冒険者ギルドは世界で唯一、冷えたビールを出す場所だった。


「これこそ僕が女神から授けられた能力〈無限の酒精(ただし麦酒に限る)〉ですから。いつでもどこでも冷えたビールを出せる。ビールが大好きな僕にとっては最高の能力ですよ」


 アキラは右手を伸ばし何かを握るような形にすると、手首をゆっくりと傾ける。すると何もない空間からビールが流れだしてジョッキに注がれる。


「はい、生中ふたつ」


「ありがとうございます」


 ウェイトレスをしているスタッフが両手に持って、キッチンからホールへ出て行った。


「きっと僕一人ではこの世界で生きていくのは無理だったでしょうね。カレタカさんが声をかけてくれて、こうして仕事を紹介してくれたから今の僕があるんです」


 再び何もない空間からビールを自分のカップに注ぐ。

 そして喉を鳴らしながら飲み干す。


「ふぅ、美味い。やっぱり冷えたビールは最高ですね」

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