XI 計算と誤解


「いてて……」

「申し訳ない、久留木さん、俺がついていながら……」

「ううん、大丈夫……」


 私がその痛みに気が付いたのは『犯人が連行されたあと』、救急車に乗せられたときだった。そして、その痛みが引いたのは病院の附属病棟で痛み止めの点滴を打たれた時だった。

 怪我は少しも治っていないのに、痛いがなくなるだけで随分と楽になった。まあ、顔はどんどん腫れていったけれど。


「痛み止めが効いてくると眠くなるかもしれません。そしたら少し眠って休んでください」


 という先生の声が遠くに聞こえる。


「……はい」


 返事をした自分の声も、瞼の裏で聞いた。

 それは久しぶりの、眠りだった。

 思考もなにもなく、とん、とん、とん、と眠りに落ち、真っ暗なところで意識を切った。



「なにを、やって、……」



 ……遠く、その声がした。



「中島さん、どうしてっ! ……あなたがついていて、っ……」



 意識が浮上する。




「何故久留木さんが怪我をしているんですか!」




 見知らぬ人に殴られ、馬乗りになられ、タコ殴りにされていた私を助けてくれたのは翼くんだった。そんな彼の胸倉をつかんで白翔くんが怒っている。

 翼くんはあれやこれやと言い訳をせずに「すまん」と謝り、白翔くんは肩で息をしながら「あなたには失望しました」と言った。


「あなたは少なくとも警官としての使命を全うしてくれると思っていました」

「すまん」

「……もういい、……もういいですよ」


 白翔くんは疲れたようにそう言ってから、私に視線をうつした。それから私が起きていることに気が付くと、優しく微笑んだ。


「久留木さん、……痛みはありますか?」

「……うん、ちょっとあるかな」

「痛み止めを追加してもらいましょう。今日は大事を取って、入院を……」


 白翔くんに右手を差し出すと、彼は震える両手で私の手を取った。


「ごめんなさい」

「……どうして謝るの?」

「こんなことになるなんて思わなかったんです。ごめんなさい。痛かったでしょう。怖かったでしょう?」


 彼は私の手に額をつけて「ごめんなさい」とまた謝った。


「どうせならお礼が聞きたいな。もう、……あのサイトきっと復活しないよ。……そうでしょう?」


 私の言葉に彼は顔を上げて「そうですね」と呟いた。


「でもお礼なんて言えません。あなたがこんなことをするなんて思わなかった」

「どうして? 私は自分の身の潔白ぐらい証明するよ」

「……身の潔白? なんの話ですか?」

「さあ。……なんの話だろうね。私の考えすぎだったのかな、結局……」


 体を起こすと、殴られた頬が痛んだ。


「帰る」

「いや今日は大事を取って……」

「帰る。送って、『白翔くん』」


 彼の赤茶色の目を見てそう言うと、彼は「分かりました」と頷いた。翼くんもなにか言いたそうだったけれど、でも「分かった」と私たちを見送ってくれた。


「……白翔くん、今日、車?」

「ええ、車です」

「じゃあそれで送ってね」

「分かりました」


 そんなことを話しながら、ふたり並んで病院の駐車場まで歩く。

 眠っている間にすっかり夜になってしまったらしい。窓の外は真っ暗だ。久しぶりに眠れたおかげで、痛みはあるけれど体は軽い。

 廊下を歩くとかつかつとヒールの音が鳴る。その自分の足音も朝よりは元気に聞こえた。


「久留木さん、ごめんなさい……」

「それはどの件について?」

「怪我をさせてしまったことです」

「私の独断専行で、きみには一切関係がないでしょう?」

「俺のために、でしょう。全部、俺のために……」


 彼が私の手に触れようとしたから、その前にその手をはじいた。


「私のため、だよ。私はきみに誤解されたくないからやった。でも、……そうね、結果的には、『きみのせい』だった」


 白翔くんは私の手を見て、それから私の目を見た。それは、いたずらがばれて怒られることを覚悟している子どものような、そんな顔だった。

 だから私は息を吐いた。


「車で話そう。人前で話すことでもないでしょ」

「……分かりました」


 ◇


 真っ黒なボルボに乗り込み息を吐く。


「痛み止めの薬が処方されています。飲みますか?」

「うん、ひとつ頂戴」


 差し出された薬を差し出された水で飲む。ぴりぴりと頬の中が痛む。


「ヒビは入っていませんでしたよ」

「そっか、よかった」

「でもこれから腫れると思います」

「これ以上? しばらく雀荘はお休みかな……」


 シートに凭れてエンジンの音を聞く。車の中は暖房ですぐあたたかくなった。


「……聞かせてください、久留木さん」

「私の考えを?」

「ええ。それから、あなたの気持ちを」


 目を閉じて、口だけ開く。


「ファンサイトができたのは一週間前。一番最初の投稿は白翔くんの今までの経歴とか、そういう普通の情報。ウィキペディアみたいなものだった」

「……ええ、始まりはウィキペディアからのコピーでした」

「でもそれに白翔くんの写真がついてた。……きみの顔って思っているよりもゴキブリホイホイだからね、有象無象が寄ってくる……」


 痛む頬に手を当てる。少し楽になるような気がする。


「サイトを作った人も思ってなかったぐらい多くの人が来た。そして好き勝手自分の持っている情報を書くようになった。最初の内は噂話程度だったかもしれないけど、そこに粘着する人が出てきた。……さっき、私を殴った人とかね……」

「……ええ、あの人はあのファンサイト書き込みの常習者だったそうです。本人が自白した、と……」

「でもあの人はサイトの運営者ではない」

「……そうでしょうか……」

「そうだよ。運営者はきみだもの」


 返答は沈黙だった。

 それは『そうだ』と言っているようなものだ。


「あの程度じゃストーカーとして処理できない。ましてや、きみが被害届を出さないんだ。警察も動きようがない」

「……何故そう思ったんですか?」

「私以外できみのことをそんなに知っている人が何人いるだろうと思ったの。ほとんどいないでしょ」

「……そうですね」

「だから最初はきみは私を疑っていると思った。だからなんとかしようと、……でも、……きみは、普通だった。ストーカーに少しも怯える気配がなかった。とにかく普通の大学生だった。まるで安全が保証されてるみたいに」

「違和感があったと……?」

「きみなら不安ぐらい隠せるのかもしれないとも思ったよ、でもなんかおかしい……それからファンサイトの記事を読みこんで、これはきみだなってわかった」

「どうしてですか?」

「……きみの記事は読みやすい。感情がない分、言いたいことがはっきりしている。……きみが新聞記者になればいいのに。余計な感情だとか応援する政党とかない分、きみの記事は分かりやすいだろうな」


 私が笑っても、彼のいつものクスクス笑いが聞こえない。私はゆっくりと瞼を開けた。


「きみがこの自作自演をすることのメリットを考えたの」

「……なにかありましたか?」

「『あなたと付き合えるのは俺ぐらいのものだと思いませんか?』」


 彼は「そうです」と言った。

 私はため息を吐く。


「本当にそれだけの理由?」

「ええ、それだけです。こんな、……大変なことになるはずじゃなかった」

「……想定していない事が起きたから? どここら想定外?」

「あんなストーカーが生まれるのも想定外でしたし、あんな、ことで……こんな大事になるはずがなかった」


 そうだ。

 たしかに私を殴るほどの激情を持ってしまう人を生まれるなんて誰も想定できないだろう。もしそうなら、彼はほんのちょっと私の同情を引いて、ほんのちょっと私の罪悪感を刺激して、『大変だったんですよ』なんて笑い話にして、サイトを消すつもりだったのだろう。

 しかし、どんな思いであれスタートを切ったのは彼だ。

 坂の上から雪だるまを転がしだしたのは彼自身なのだ。


「自宅に盗聴器が仕込まれていたのも想定外でした。あれは、……少しゾッとしましたね……」

「きみは……あのキッチン使ってなかったの?」

「あなたがいないのに使う理由がありませんから」

「……そっか。なら犯人さんの無駄骨だったね」

「ええ、……でもあなたを俺の自宅に行く理由にはなった。あなたが、……俺に疑われていると思うなんて、……そこから想定外ですよ……俺の行いがあなたを、犯人に会わせるきっかけになった。……俺があんな記事をあげたから、……あなたが盗聴器を疑って……、……あなたが、俺の家まで来てくれるなんて……想定外でした。あなたは、……本当に……」


 彼の左手が持ち上がる。


「白翔くん、前にも行ったけどさ、思った通りに他人が動くわけないでしょう? 私だって、……きみが心配で、そのぐらいのことするって、……少しも思わなかった?」


 彼の左手は私の喉に触れた。


「あなた以外は俺の想定の範疇でしか動きません。あなたが関わると、すべてがずれる。俺も、……俺自身、なんでこんなことをしているのか……。でも、……あなたを捕まえられるなら……どんな卑怯な手段でもいい」


 彼の温かい掌が触れているところから、とく、とく、と自分の鼓動を聞こえる。


「初めて会った、あのコンビニの前に止まっていたタクシーの運転手は無呼吸症候群を患っていました。エンジンは止めていませんでしたし、ストッパーの高さも大したものではなかった。……あのタクシーは毎日、あの時間はあそこで仮眠を取っていました。事故を起こす要素はいくらでもあった……」


 彼は私の肩に凭れて「死ねるはずだったんだ。事故で、あの日、……死ねるはずだった」と言った。吐くような声だった。


「俺の薬を誰よりも長く、重く、服用しているのは俺だ。たしかに痛みも苦しみもない生活を送っている。……この薬がないと生きていけない人は俺以外にも大勢いる。だから、俺は自殺だけは選べない。俺が自殺なんてしたら、……この薬は潰される。……俺の自殺は、後追い自殺を生むだけだ。だけど、……もういやだった。ずっと、……なのに俺はいつも死に損ねる……」

「……死にたかったの? そんなに……」


 彼はそれには答えない。だからこそ、そうだと言ったようなものだ。


「……あなたは、最初から俺の想定とは違った。……それが、面白いと思った。面白がっていた……。でも、あなたはいつも、簡単に俺の想像を超えるから、……負けたみたいで、それが苦しくて、痛くて、……なのにまた会いたくて仕方なくて……」


 とく、とく、とく、と鼓動が聞こえる。


「これが恋ならいい。この感情は俺に痛みを思い出させてくれる。この、……息がつまるような苦しさも、……嬉しい。だから、あなたがいい。……あなたがいいんだ」


 彼の手に触れる。温かい手だ。


「……要するに白翔くんって、ちょっと面倒な人なんだね」


 私の言葉に彼は「はい」と言った。

 それから「だからどうか逃げないで」と私を脅す。

 どうしようもない人だなと思いながら、でもそれほど嫌ではなかった。


「……どうしようかな」

「つれないこと言わないで。あなたを監禁したくない」

「多分、私逃げられるよ?」

「そんなところも好きです」

「そっか。変な人だね、きみは」


 そんな話をしながら、しばらく彼の頭を撫でていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る