Ⅲ トラブルの予感



 その講義が終わり、学生たちが流れるように教室を出ていく。お昼前の講義だからか、その足取りは速い。


「ちょっと先生に聞きたいことあるから質問してくるね」

「熱心ですね、久留木さん」

「この機会逃したら質問できないじゃない。私、この大学の生徒じゃないんだもん」

「入学しますか?」

「無茶言わないで。待っててくれる?」

「もちろん。ここに座ってます」


 しかし私は学生たちの流れに乗るのはやめて、講師に声をかけた。講師は私のいくつかの質問に丁寧に答えてくれた。


「……なるほど、ありがとうございます。よくわかりました。ごめんなさい、お時間とってしまって」

「いえ、むしろ質問してきてくださってありがとうございました。聞いていただけてるとわかってうれしいです」

「普段からこの大学で?」

「いえ、普段は劇団員をしています」

「へえー! そうなんですね!」


 講道理で声が通ると私が褒めると、ありがとうございますと彼は笑った。彼はそれからちらり、と松下くんの方を見た。


「あのー……松下さんはなんておっしゃってました?」

「松下くん? 呼ぶ?」

「い、いえ……恐れ多いです」

「恐れ多い?」


 一番後ろの席に座ったまま私を待っている松下くんは私の視線に気が付くと、ひらりと手を振ってきた。アイドルのような仕草だが彼がやると嫌味がない。

 私もひらりと手を振り返しておいた。


「彼、あんな風にとても気安いと思うけど……」

「いや、俺にとっては命の恩人なので……」

「え? そう?」

「ええ、俺は元々……」


 彼の話によると、彼は難病を患っているらしい(とてもそうは見えないけれど、それもこの病気の辛いところらしい)。

 その病気はどこも悪くないのに全身を激しい痛みが襲う病気だそうだ。脳のどこかが誤作動を起こしているせいらしい。大変な病気なのに、これまでは麻薬を使った対処療法しかなかったそうだ。

 あまりの痛みにまともに生活ができなくなるというのに、根本的な治療法がない。患者の大半が自死を選ぶ、そんな病気。

 それが松下くんの開発した薬で今のように動けるようになり、なんとか生活できるようになったそうだ。


「この……三年でようやく人並みになれました。この仕事はうちの劇団の座長が受けているものなんですけど、今日は松下さんが来られるということで『代わってくれ』と座長に頼み込みました」

「……彼も楽しんでいるみたいだったよ」

「あ! そうですか⁉ それはよかった!」


 彼は嬉しそうに笑った。

 実際、松下くんは講義中ずっと楽しそうだった。講義内容が楽しかったのか私をからかうのが楽しかったのかは判別できなかったけれど……嘘ではない。


「演劇、これからも頑張ってね」

「ありがとうございます。あ、今度舞台をやるのでよかったら……」

「あ、じゃあ松下くんを誘ってみるよ?」

「本当ですか⁉」


 社交辞令だったのだけど彼が本気で受け取ったので、私は愛想笑いを浮かべておいた。

 彼の教えてくれた劇団のSNSをフォローし、彼の今度の舞台の話を聞き(要するにちょっとした雑談)、それから松下くんの元に戻ると、彼はニコニコ笑顔だった。

 こういう顔の猫がアリスに出てきていたような気がする。


「『コミュニケーションは相手が理解してこそ』……だっけ?」

「そうですね」

「……松下くんがすごい人ってことはよーく分かりました」

「ふふ、ありがとうございます。彼が講師でよかった」


 やっぱりそのために彼を講師にしたのか、と松下くんの頬をつねる。


「なんですか、久留木さん。かわいいことして」

「まるで神様みたいなことを言うんだもん、あの先生。もしかしたら松下くんって触れなくて、通り抜けちゃうかなーって」

「さっきあれだけ俺の手に触ったじゃないですか」

「私から触ったわけじゃありません」

「……これで安心してくれたでしょう? 女性は他人から評判を確認する方が自己申告よりも安心すると聞きました」

「そうね。きみは抜け目ない」


 彼はどこまで先を読み、どこまで計算して、そうして、私をどうするつもりなのだろう。

 未だに『ヤバい』予感はある。いや、むしろどんどん強くなっていく。

 でもその予感に従うべきなのか、それよりも彼の作る動きに乗るべきなのか。普通に考えたら予感に従うべきだ。だって私の予感は当たるのだ。

 でも一方で、彼の笑顔は爽やかだ。その爽やかさや紳士的な優しさは嫌ではない。例え上っ面のものだったとしても、……嫌ではない。むしろ、……しかし、それが困る。

 だって彼と関わるとダイナミック入店、意識不明、強盗、ひっきりなしにトラブルに巻き込まれる。今日はまだないけど、……多分この調子で彼と過ごしているとなにかに巻き込まれる。そんな予感がする。


「そろそろお昼ですよ。学食に行きませんか?」

「あ、それすごい大学生っぽい」

「ふふ、そうですね。……大学生活、楽しんでくれていますか?」


 松下くんは、彼の頬をつつく私の手をとらえて優しく笑った。予感を無視してもいいと思うぐらい優しい笑みだ。


「うん、楽しいよ。……こういう道を選んでいたら、きみみたいなのに目を付けられなかったんだろうなあ」

「まさか。俺はあなたがどこにいても絶対に見つけますよ」

「なんでよ。怖いこと言わないで」

「運命だから」

「怖いよ、それ」


 松下くんは私の手を握り締めて「本当ですよ」と言った。そうだといいと思ってしまうぐらいには、私はもう彼に絆されていた。

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