Ⅳ 食堂と被害者
◇
食堂は混んでいた。
明らかに学生ではない、親子連れや旅行客のような姿も見える。
「ここは外部にも公開されているスペースですので、いつでも来てくださいね。俺に会いたくなったときに待ち合わせで使いましょう」
「なあに、それ……へこたれない人」
「長所でしょう?」
機嫌の良さそうな松下くんと食券売場の列に並ぶ。メニューがたくさんあるようで、ひとりひとり悩む時間が長い。
「お勧めのメニューってある?」
「さあ? 俺も利用するの初めてなんですよ。あ、ランキングがありますよ」
「あ、本当だ」
松下くんが指差したところに貼り出されていたランキング表を眺める。
どうやら大学の名前を冠するラーメンが一番人気のようだったが、個人的にラーメンは深夜に酔っぱらっているときにひとりで食べるものであって、素面の、それも真昼間から人前で食べるものではない。
私は構えを少し悩んでから第三人気の親子丼にすることにした。松下くんは私が選んだものを聞くと「同じものにします」と微笑んだ。
「なんで? 食べたいものを食べたらいいのに……」
「食べたいものは久留木さんの手料理です」
「なにそれ。ないものを言われても困るよ」
「あのカレーですっかり胃袋掴まれました」
「たった一回で勝手に掴まれないでよ……」
順番が来たので食券を買い、トレーをもってまた列に並び、順番通り親子丼を受け取ってから空いている席に探す。
食堂には十人ずつ座れる長机がたくさん並んでいるが、2つ並んで空いている席がない。しばらくお盆を持ったまま「あそこ……あっ取られちゃった」「負けちゃいましたね」と、うろうろとさまよい「あ、あそこ」「ああ、よかった」「うん、よかった」と、なんとか二席空いている机を見つけ、座った。
「大人気なのね、ここ」
「そうみたいですね、まあ値段も安いので」
松下くんは「ちょっと待っていてください」と言いおくと、自販機でお茶をふたつ買ってきてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
私たちは目を合わせて手を合わせて同時に「「では、いただきます」」と言った。声がきれいに合わさって、少し面白かった。
親子丼は思ったよりも卵もご飯も美味しくて、「こんなに安くてこの美味しさはずるいなあ」と呟くと、松下くんは「この親子丼も美味しいですが、この間のカレーとは比べ物にならないですよ」と拗ねたように言った。その口を尖らせた顔も愛らしくて、これはまずいなあ、と思った。
「本当においしかったですよ。今までの人生で一番、おいしかったです」
「分かったってば……」
「久留木さん、自信を持ってください。あなたは料理人になれます」
「なれなくていいからっ」
「小料理屋だってできますよ」
「できないよっ! もうやだ! うるさいよ!」
「ふふ、可愛い顔している」
笑い事じゃない。
『ヤバい』と分かっている相手に絆されるなんて、絶対にろくなことにならない。そう分かっているのに、顔がにやけてしまう。
――いいじゃないか。もう、認めてしまえば。
こんな感情、久しぶりでどうしたらいいか分からない。それで『ヤバい』なんて勘違いしてるんだ。そういうことにしてしまえばいい。
彼みたいな優しいハンサムが自分に好意を示してくれている。だから、それを受け止めて、認めて、……それでいいんじゃないか? 『予感』なんてなかったことにして、……彼と恋愛して、なにがいけないというのか。
「なんでこんなところにいるんだ」
不意に聞き覚えのある声がした。
振り返ると、ものすごく嫌そうな顔をした凪くんだった。
「あ! 久しぶりね、凪くん」
「ああ、久しぶりだな……あんた、なんで大学に来てるんだ。学生じゃないのに……」
「宮本くんは元気になった?」
私の質問に凪くんはぶつくさ言うのをやめて、くしゃりと笑った。
「ああ、もう元気だ。心配してくれてありがとう」
「ちゃんと禁煙させてる?」
「徹底させてる。今日はあいつ休みだけど……親御さんに見てもらっているから」
「本当に徹底させてるね。いいねー、大事だよそういう姿勢!」
ぺし、と凪くんの腰のあたりを叩くと「いてえよ」と凪くんが笑った。
――『ヤバい』。
突然の強烈な寒気。
それは私だけでなく凪くんも感じたらしく「ひっ」と彼は短く声を上げた。
「凪さん」
松下くんが、はっきりと悪意が分かる低い声で凪くんを呼んだ。凪くんの腰がひける。
「久留木さんと親し気なご様子で……彼女さんはどうされていますか?」
「松下、違う、俺は全然……」
「全然? なんですか? 全然……なんですか?」
松下くんが椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。
松下くんは凪くんの側に立ち、真上から凪くんを見下ろす。凪くんは「ひぇ」と言葉にならない声を上げた。その長身を最大限に活かした脅しスタイルには、冗談という空気がなく、むしろ『ヤバい』気配が満ちている。
凪くんが視線を泳がせ、生唾を飲む。
「俺は彼女が好きだから! だからお前の彼女に手を出そうなんて全く考えていない……!」
「久留木さんはまだ俺の彼女ではありません。そんなことより、全然、なんですか? 久留木さんが、全然、なんだというのです? ねえ?」
「ひえっ……ちがう、そういうつもりじゃなくてっ……」
蛇に睨まれた蛙よりも可哀想だ。『松下に睨まれた凪』、新しい慣用句として覚えておこう。
そんな現実逃避をしていたら服の袖を指先で引っ張られた。凪くんが、うるんだ目で私に助けを求めている。さすがにこれをされては無視できない。
「……松下くん、ハウス」
「はい」
松下くんは大人しく私の隣に座り、凪くんは安心したようにひゅうと息を吐いた。
「凪くん、ごめんね。ごめんねって言うか私が謝る話ではないんだけど……」
「あんたは俺に話しかけるな! ……松下、そんなに心配なら、今この人を大学に呼ぶべきじゃなかったんじゃないか?」
「問題はもう解決しましたから」
「いや、まだ解決していないだろ、だって……」
凪くんと松下くんが意味ありげな会話をし始めたので、私は右手を伸ばし凪くんの白衣の裾を掴んだ。
凪くんは不審そうに私を見た。
「なんだよ?」
「その話、詳しく教えてくれる?」
「松下から聞けばいいだろ、当事者なんだから……ひっ」
凪くんが私から松下くんに目を移し、また『松下に睨まれた凪』になった。
「凪さん、あなた、研究が忙しいんじゃァありませんか?」
「そ、そうだな、……俺は忙しいから……」
「駄目よ、凪くん」
私は白衣を両手でつかみ、「隣の席に座って」と頼む。凪くんは「空いていないだろっ!」と叫んだが、その言葉が終わる前に私の隣にいた人が席を立ってくれたので、彼はそこに座るしかなくなった。震えながら座った凪くんが頭を抱える。
「おかしい、俺は無罪だ、どうしてこんな目に……」
「それを決めるのはあなたではない。なぜ座ったんですか、凪さん?」
「松下くん、やめなさい」
松下くんの二の腕を軽く叩いてから「説明して」と凪くんに尋ねる。凪くんは不安そうに視線をあげた。
「だから、松下に聞いた方が……」
「松下くん隠し事するから駄目」
「……でも……」
不安そうにしている凪くんに「お願い」と頼むと、コツン、と松下くんが指先で机を叩いた。
「久留木さん、凪さんから聞いてどうなります? 俺に聞いた方がいいでしょう?」
「凪さんの説明が終わるまで喋ったら嫌いになるからね、松下くん」
松下くんは笑顔のまま黙り、凪くんは「ひえ……」と言った。
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