Ⅱ 黒と朱

 

 大学の校門にはたくさんの人がいた。

 大体がこの大学の生徒なのだろう、若々しい肌の人ばかりだ。そんな中で膝を出している年増、なんと場違いだろう。しかし好きな格好だからやめられない。

 ため息にひとつ、辺りを見渡す。


「人、多いなあ……」


 この中から松下くんを見つけるのも、松下くんが私を見つけるのも無理だろうと思ったけれど、「久留木さん、こちらです」と遠くから響く声がした。

 そちらを見ると、遠くから手を振って歩いてくる姿。今日も今日とて真っ黒だ。

 私も手を振り返し、彼に駆け寄る。


「おはよう松下くん、今日も真っ黒だね」

「そうですね。持っている色を一色にしておくと選ぶ手間が省けるので」


 松下くんは全身黒というイケメンでなければ似合わない格好をしていた。

 金持ち狙いの女の子か、病んでいる女の子にはすごくモテそうな恰好ではあるけれど、私はそのどちらでもない。


「もう少し明るい色の方が似合うと思うけど」


 嫌味たらしくそう言ってみる。

 さすがの松下くんも気分を悪くするかと思ったのに、彼はにこにこ笑顔で「じゃあ今度選んでください。楽しみです」なんて少しもへこたれない。


「久留木さんは赤いマフラーがお似合いです。可愛いですね」


 ため息が出てしまった。


「なんですか、そのため息」

「ねえ、よく見て……まわりと私のギャップ」

「まわり?」

「みんな若いから、私はすごく老けて見えるでしょ?」


 言外に『いやになったんじゃない?』という意味を込めたのだが、松下くんはクスクスと笑った。


「久留木さんは誰よりもかわいいです」

「かわいいとかじゃなくて、ここの人たちは若くて私は年増なの。分かる?」

「ふふ」

「笑い事じゃないんだけど……」

「ところで久留木さん、この一週間は変わりありませんでしたか?」


 松下くんが急に話題を変えた。


「え? 特になにもなかったよ。普通だった」

「へえ、そうですか……」


 妙に含みのある言い方となにか言いたげな視線だった。


「なあに?」

「いえ……俺はちょっと色々あったので……久留木さんに影響がなかったならよかったなあ、と……」

「ちょっと待って。なんのこと?」

「まあ、とにかく講義室に行きましょう」

「は? いや、ちょっと待ってよ!」


 にやにやしながら先を歩く松下くんの後を慌てて追いかけた。


「ねえ! ちょっと待ってよ、足が長い!」

「俺、股下一メートルあるんで」

「うっそ! やばくない? 人なの?」

「嘘ですよ。そんなの計ったことありません」

「なんなの! もう! 止まってよ!」


 松下くんは振り返ると、その右手を私に差し出した。


「……なに?」

「手をつなぎましょうよ」


 黒い手袋がはめられたその手を見る。


「俺の手、いやですか? そんなに、どうしようもなくいやですか?」


 私は――、その手を取った。


「もう走らないでよ。私、走るの嫌いなんだからね!」


 彼は私の手をじっと見た後、にんまりと笑った。


「ええ、ゆっくり歩きましょう。もったいない」

「……っていうか、さっきの話はなんなの?」

「ふふ、あとでお話しします。今はとても気分がいいから思い出したくありません」

「なにを⁉ ねえなにがあったの、怖いよ!」


 しかし松下くんは話してくれず(手も離すこともなく)私を大きな講義棟の大きな講義室案内してくれた。私は聴講生と言うこともあり「後ろの方がいいな」と言うと「そうですね」と彼は一番後ろの席に私を案内してくれた。


「広いねえ、百人ぐらい入れそう」

「そうですね。人気のある講義は広い講義室を使いますから」

「ふうん……人気あるんだ、この擬音語の授業……でもこんなふざけたテーマの授業をこんなエライ大学でやって意味あるの?」

「面白くてキャッチーな講義を数本入れることで生徒のモチベーションを保っているのかもしれませんね。こういった面白講義の受講は抽選があるんですが、教授の許可さえあればこそっと入れてもらえるんですよ」

「へえ……そうなんだぁ……わざわざ許可とってくれたんだぁ……ありがとうねえ……」

「ふふ、どういたしまして。久留木さんは言外を読み取ってくれていい子ですね」


 私の皮肉は華麗にスルーされた。ため息を吐く。


「松下くん、それでこの一週間きみになにかあったの?」

「そろそろ講義が始まりますよ。お静かに」

「こんにゃろ」


 松下くんの足を軽く蹴ると、彼はクスクスと笑った。しかし実際講師がやってきて、チャイムが鳴ったので、私は渋々押し黙った。


「それじゃあ始めますよー」


 そんな挨拶から始まった『擬音語のみで会話する』講義は、そのふざけたテーマの割にはふざけた内容ではなかった。

 様々なコミュニケーション方法を体系立てて分類し考察していく真面目な内容。講師のよく通る声は耳に心地が良いけれど、その内容は想像より面白くない。

 配られたレジュメをぺらぺらとめくって、口を尖らせていると、松下くんがクスクスと笑った。


「飽きちゃいました? 麻雀の講義もありますよ」

「こんな風に麻雀の説明をしちゃうの?」

「こんな風かどうかは分かりませんが……そっちも受けてみます?」

「説明なんてされて、自分の麻雀が打てなくなったら困る……」

「そんなことありますか?」


 そんなことをポツポツと話しつつ、講師の話していることをレジュメに書き込む。

 効果的なオノマトペの使い方など今まで考えたことがなかったけれど、言われてみればたしかにそうだと思うことばかりだ。同じように効果的な体の使い方というのは考えたことがなかった。

 効果的な体での表現、擬音語での表現を組み合わせれば、言語の壁を越えて最大限意思を伝えることができる……。


「久留木さん」

「ちょっとうるさい」

「ふふ、そうですね、ごめんなさい」


 松下くんは黙る代わりに私の左手をぎゅうと握りしめた。

 彼は左手で筆記を続け、私を見ながら講義を聴講している。じろりと横目で睨んでも握る手の力が強くなるだけだ。


「……きみ、この授業受ける意味あった?」

「ありますよ。コミュニケーションは相手が理解してこそです」

「私に受けさせることに意味があったってこと?」

「今度俺と一局対戦してください。俺は麻雀のルールは知りませんけど、あなたのことが知れるならけちょんけちょんにされたいです」


 プロの雀士にそんなこと言って、と怒ってあげてもよかったのだけど、私を見る松下くんの目が言葉よりも雄弁で、なにも言えなかった。

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