Ⅰ 母の思い出
◇
事の発端は例の『強盗デート』の後に松下くんからかかってきた電話だった。
『お約束できてませんでしたけれど次のデートも木曜日でいいですか? 来週はお時間ありますか?』
「木曜日は大学あるでしょ? ちゃんと大学生活を楽しんだ方がいいじゃない? あ、でも私、土日は仕事だから、松下くんとはなかなか予定は合わないかもね」
私はこのとき遠回しに『私たちは休みが合わないようです。だからデートしなくてもいいのではないでしょうか。あなたは大学の中で良い人を見つけたらいかがでしょう? 私はあなたからの告白を先送りに、可能なら無期限延長したいです』と伝えたつもりだった。
しかし、そこはさすがの松下くんである。
『久留木さんは大学に通われたことはないんでしたっけ?』
と、すんなりと話をかわしてきた。
「うん、そうだよ。高卒だからね。松下くんとは関わりになることがないほどの低学歴のクソ女なんだよね、だから……」
『でしたら聴講してみますか?』
「はい?」
『聴講です。歌舞伎体験とかどうです?』
「いや、いいよ。体験なんてすごい疲れそうだし……」
『でしたら、ひたすら擬音語で会話してみますか?』
「へ? なにそれ?」
『分からないなら一緒に受けましょうよ』
「いや、なんでそうなるの? 普通に大学の子と受けたら……」
『今度の木曜に大学に来てください。一緒にスクールライフしましょう。久留木さんがお気遣いくださるなら、そうですね、次のデートは日曜にしましょうね?』
「え? いや、なんでそう……」
『木曜はスクールライフ。日曜はデートです』
「はあ……?」
意味の分からない理論だったが、畳み込まれるように『ね?』と聞かれて、「はい」と
返してしまうぐらいには私は流され上手だ。
そのまま押し切られ、木曜日……つまり明日(といってもさっき日付越えたからもう今日だけど)『大学』にまで行かなくてはいけなくなり、その後の日曜日には『デート』の約束までさせられてしまったわけだ。
しかもその『デート』ではなにかしらの『告白』を受けなくてはいけない。考えるだけで……嫌というわけではないけれど、ストレスであることは間違いない。
おかげで今日も今日とて眠気が来ないまま日付が変わってしまった。
いや、今日だけじゃない。
この一週間に意識が途切れていない。眠りたくて仕方がないのに眠気は少しもない。体の端っこから少しずつ動かなくなっている。このままでは、近いうちに対局に勝つどころか席についていることすら難しくなるだろう。
危機感はある。
その危機感がまた眠気を遠ざける。
そんな悪循環で眠れない。
「はあ……疲れた……」
反芻を切り上げて、あたためておいた天板の上に敷いたクッキングシートにシュー生地をしぼる。
直径四センチぐらいに丸く等間隔に生地をしぼったら、霧吹きで表面を濡らし、一九〇度に予熱しておいたオーブンで二十分。
「上手く膨らむといいんだけど……」
シュークリームは温度との勝負だ。
少しでも生地の温度が下がるとあっという間に失敗する。そして失敗したシューを見ると心もしぼむので、作るリスクが高いお菓子だ(正直こんな夜中に作り出すべきものではない。でも作り出してしまったものはしょうがない)。
シューが焼けるのを待つ間に中身のカスタードクリームも作ることにした。
ノートを開きお母さん直伝のレシピを確認する(お菓子作りはさすがにレシピで分量を確認しなからじゃないと失敗してしまう)。
「卵黄三個と砂糖七〇グラム……」
丁寧に混ぜること、というメモの通りに丁寧に混ぜる。
小さい鍋に牛乳を二カップ入れて火にかけた。弱火で沸騰させない程度にあたためておきながら、卵液に薄力粉を三〇グラムさくっと混ぜる。それからあたためた牛乳は何回かに分けて混ぜていく。
「バニラエッセンス……ああ、あった……」
棚の奥から取り出したバニラエッセンスを数滴加えてから鍋に移し、中火にかける。木ベラで混ぜながらさらさらとしたクリームがとろとろになり、もったりするまでかきまぜた。
「……寝たい、……本当に、寝たい……」
できたクリームはバッドに広げ、氷の上に置き冷やしておく。
――リンとオーブンが鳴った。
オーブンを開けずに中を確認するとちゃんと膨らんでいるようだったので、温度を一七〇度に下げてあと一五分焼く。
全部お母さん直伝のレシピ通りだ。これさえ守っていれば間違えることはない。
「……お母さんのホットケーキ食べたいな……」
母が作ってくれたホットケーキは、それはそれは美味しかった。平べったくて薄いホットケーキ。
日曜日の朝からそれをたくさん作って、生ハムと蜂蜜をかけて食べたり、ナッツとメープルシロップを合わせたり、野菜をたくさん乗せてサラダにしたり……。そういえばお父さんが野菜入りのホットケーキを焼いてくれたこともあった。
ホットケーキの中からみじん切りのニンジンが出てきたときはだまし討ちにあったような気持ちになったものだ。
それでも全部間違いなく美味しかった。
あの頃はなにも間違えていなかった。
――リン、とオーブンが鳴る。
シュー生地が焼きあがった。
「ああ、よかった……綺麗に膨らんだ」
膨らんだシュークリームを見ると少し気持ちが明るくなった。気分が明るいと体も軽くなった気がした。あくまで気分の問題だけど。
シュー生地にクリームを詰めながら深夜テレビを流し聞く。
今日あったことを振り返るニュース番組らしい。そこ明るい言葉なかった。今日もこの世界は死人が多いらしい。
「こんな世界じゃ寝られないぐらい、大したことじゃないんだろうな」
みんな不幸だ。だから誰も不幸自慢などできはしない。でも、自分が不幸であることは変わらない。
眠れないことで思考はどんどん暗くなっていく。そしてまた眠気が遠のいていく。悪循環だ。
――でも、なにもかも正しくない今の私には、それをどうやって断ち切ればいいのか分からない。
「……せめて体を横にしよう」
眠れないと分かっていても布団にもぐる。どく、どく、と動き続ける自分の鼓動がうるさかった。
◇
「朝だよ、舞ちゃん」
優しく揺さぶり起こされて目を開く。眠りのない体には疲労している。
「朝ごはん作ったから食べよう」
それでも母が私を起こすから、起き上がる。
「朝ごはん、なに?」
「ごはんと味噌汁よ。じゃがいもの味噌汁」
「……そっか」
「嫌だった?」
「ううん、……大好き」
パンケーキを食べたいと少し思い、でもそんなの朝から食べられるほど若くはなかった。だから母と母が作ってくれた朝食をとる。それはそれなりに美味しかった。母に「冷蔵庫にシュークリームあるから食べてね」と伝えて家を出た。
風が強い。
春が近づいてきているのが分かる生ぬるい風だった。
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