Ⅵ 強盗と冷静
飛び込んできたのは黒いパーカー、黒い帽子を目深にかぶった中年の男性だ。その顔がどこかで見たような気はしたが思い出せない。とにかくその見覚えがあるようなないようなおじさんがキッチンに駆け込んできた。
「あ、開いちゃった……うっ、うう……」
彼は何故か狼狽えた様子だが、しかし覚悟を決めたように私たちの前に立った。
「ひっ、あ……、う……」
私たちに言いたいことがあるのは間違いないが、覚えがない。私が「知り合い?」と松下くんに聞くと「いや、俺は知らないですよ」と彼もまた私を見ていた。どうやらお互いにお互いの知り合いと考えていたらしい。しかし、どちらの知り合いでもない。
「このマンションの住人?」
「……いや、それはないでしょう」
松下くんが私の耳元で「スニーカー」と呟いた。そう言われてみるとたしかにその男性のスニーカーは薄汚れていて、ボロボロだ。特に高級なスニーカーブランドでもない。
「このマンションはセキュリティー厳しいはずなんですが、……便乗では入ってこられますしね」
「車の方だと無理そうだったけど」
「そうですね。高級車ばかりなのであそこからは厳しいでしょう」
「でも普通の入り口なら共有部までは入ってこられちゃうのね……」
松下くんは「久留木さんはここから動かないでくださいね」と私の耳に囁いてから「……あの、申し訳ありませんが、どちら様でしょうか?」と言いながらその男性に向かって歩き出した。が、その男性はその質問には答えずにパーカーのポケットから小さいナイフを取り出した。
「ちっ、近づくな!」
「あ、はい」
「戻っておいで、松下くん」
「そうですね……」
大人しく私の隣に戻ってきた松下くんは「困りましたね、不審者のようです」と淡々と私に囁く。あまりにも彼が落ち着いているので私もそれほど動揺していない。
そもそも向けられたのはとても小さいナイフだ。大型のカッターナイフの方がよく切れそうなぐらいのそのナイフをかざして、男性はぶるぶると震えている。
この男性、どうやらナイフの使い方わかってなさそうだ。要求を持ってここに来たようだけど暴力に慣れてなさすぎる。……そんな人がわざわざこんなところまで来るのは不自然だ。一体、なんの用件だろう。
松下くんがさりげなく熱々のカレーが入った鍋を持とうとしたので「武器として使ったら怒るよ」と囁く。松下くんはちらりと私を見て「仕方ないですね」と手を引っ込めた。
「松下くん、本当に知り合いじゃない?」
「どこかで見たような気はしますが……」
「本当? 私もどっかで見たような気はして……」
私たちはカウンターキッチン越しに彼を眺める。しかし、どうしても思い出せない。松下くんがまたアイスピッグに手をかけるので、その手を止めて「あのー」と本人に聞くことにした。
「なんのご用件ですか?」
「うっ、うっ……っか、っかねをだせ!」
松下くんと目を合わせる。
「「あ、普通に強盗ですか?」」
そして私たちは強盗に言ってはいけないであろう言葉を、同時に口にした。強盗は泣きそうな顔をした。
「松下くん、強盗遭ったことある?」
「ないですね……カツアゲすらないです……強盗の相場っていくらでしょう?」
「高級マンションの住人狙いならそこそこなんじゃない?」
こそこそとそんな話をしながら強盗被害初心者の私たちは強盗に対峙した。
その強盗は小さなナイフを両手で持ち、その両腕を伸ばせるだけ伸ばしてこちらに向けている。へっぴり腰もいいところだ。
松下くんは私を背にかばってくれているが『ヤバい』という予感はしないし、この強盗の様子からして怯える必要すらなさそうだ。
「か、ねっ! 出せ! そ、そしたらっ見逃してやるっ!」
なにから見逃してもらえるのだろうと思いつつ私はカレーをかき混ぜる。焦げたら困るからだ。
「……あー、金ですか……」
松下くんは右手をこめかみに当てた。
「俺、現金持ち歩かないんですよね」
「そうなの?」
「現金って汚いじゃないですか……困ったな。久留木さん、今いくら持ってます?」
「二万ぐらいはあると思うけど……あ。ごめん、私、鞄を車に置いてきちゃった」
「……確かに手ぶらでしたね。それはちょっと……久留木さん、不用心ですよ?」
松下くんの咎めるような視線に罰が悪くなり、口を尖らせる。
「でもボルボでしょ、あの車? 窓割られたりすることある?」
「ないとは思いますけど……携帯すら持ってきてないんですか?」
「うん……全部置いてきちゃった、……」
「信用してもらえるのはありがたいですが車の中に荷物置いてきちゃ駄目ですよ。俺も気が付かなくて申し訳ないですけど、そこは警戒心を持ってくれないと……今日日携帯盗られたらいくらでも利用されてしまいますよ?」
松下くんが私に説教をし始めたときに「いちゃいちゃするな!」と強盗に怒られた。私は「いちゃいちゃしてない!」と抗議し、松下くんは「いちゃいちゃしているように見えますか?」と嬉しそうに笑う。
結果的に強盗は床をダンダンと踏んで「ふざけんな!」とさらに怒ってしまった。とはいえ私たちに一定の距離を保ったままで、それ以上近寄ってくる気配がない。
要するにこの強盗には殺気がないのだ。
「どうしよう、松下くん」
「どうしましょうかね……」
泣き出しそうな強盗を目の前に私たちは途方にくれた。
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