Ⅳ スパイスの選択
◇
「ここです」
蔵前駅前の駐車場に車を置いて、五分ほど歩いたらその店に着いた。
入った瞬間に様々なスパイスの匂いに包まれる。
店内にいたお客さんは『現地の人』ばかり。彼らは迷うことなくスパイスを選んでいく。私たちのように悩んでいるのは、私たちの後に続いて入ってきた中年男性ぐらいしかいなかった。
店員さんはどことなくおどおどしているその男性の相手をし始めてしまったので、私たちはその接客が終わるのを待つことにした。
よくわからないスパイスを眺めながら「松下くんはここ来たことあるの?」と聞くと「ないですよ。ネットで調べて来ました」と彼は笑った。
「そうなんだ。ありがとうね」
「どういたしまして。それでどんなカレーにしましょうか」
松下くんは棚のスパイスをつつきながら「鶏肉? 豚肉?」と首をかしげる。
「豚バラカレーかな」
「ああ、いいですね。豚バラは外れがないです」
「あんまり辛くないのがいい」
「辛口は苦手ですか?」
「だって辛いの痛いじゃん」
「痛いのは苦手ですか?」
「苦手だよそんなの。当たり前でしょ?」
松下くんは「そうですね、当たり前です」と言った。
含みがある言い方だなと思ったがそれを追求する前に、スパイスを買わなかったおじさんを見送り、手が空いた店員さんが見えたので「すいませーん」と声をかけて、店員さんにスパイスの相談をすることにした。
「豚バラカレーならこの辺がお勧め」
「あんまり辛くないと嬉しいんだけど」
「辛さはこの辺の足さないと入らないから。嫌いなら入れなきゃいいよ」
「ああ、なるほど、チリかー……松下くん、パクチーは好き?」
「好きでも嫌いでもないですね」
「コリアンダーは?」
「久留木さん、パクチーとコリアンダーは同じものですよ」
「えっ」
「え? ……
「なにそれ知らない」
そんな調子でスパイスを選び、その配合を自分たちでやろうか悩んだけれど「美味しいのがいいよね」と店員さんにお任せすることにした。
「次は自分たちで選んで混ぜてみたらいいよ。面白いから」
そう笑う店員さんに松下くんは「次があればいいんですけど。俺の片思いなんですよ」なんて言った。「そういう自信ありげなところ嫌だな」と私がつつくと「ほらね」と彼は笑った。その背中を叩いても彼はクスクス笑うだけで、それだけだった。
◇
スーパーで米、豚バラブロック、たまねぎ、トマトなどを買ってきた辺りまでは平和だった。
しかしその後、松下くんが見つけたレンタルキッチンとして連れてこられたところは高級マンションだった。
彼は鍵と暗証番号を使ってするするとそのマンションの地下駐車場に入っていった挙げ句「このマンションの共有スペースのキッチンの設備がいいんですよ」と笑った。様子がおかしいと思いつつ「そんなところ住人以外が入っていいの?」と聞けば「俺はここの住人ですから」という、とんでもない回答。
「松下くん……」
「俺の家には連れ込みませんよ?」
「そういうことじゃないでしょ! そういうのよくない!」
「ここのキッチン設備、他のレンタルキッチンよりもずっとよかったので……」
松下くんの耳たぶを思い切り引っ張る。
「なんで耳?」
「謝りなさい!」
「ごめんなさい!」
素直に松下くんが頭を下げたのでその耳を離す。
「……軽い女と思われてんの、私?」
「ちがいますよ!」
松下くんは目を丸くした。それから「ごめんなさい」とおろおろとした様子でもう一度言った。
「本当にそんなつもりはなくて……設備がいいんですよ。他のところと比較しても圧倒的によくて……だってここピザ窯もついているんですよ?」
「え、それならナンも焼きたかった」
「じゃあ次はそうしましょうね」
「……松下くん」
「ごめんなさい」
松下くんが深々と頭を下げるので「罰として食材は全部松下くんが運びなさい」と私が折れるしかなかった。高級車ばかりが並ぶ駐車場を歩きながら、こんなところを運転するの絶対嫌だなと思った。
そのキッチンは高級マンションの一階にあった。
対面式のキッチンにふたつの大きな食卓と二十席ほど椅子が並んでいる。大きな窓に面しているそのスペースは、そのままパーティーができそうなお洒落な空間だ。
「ここ、ふたりで借りていいの?」
「駄目なんですか?」
「もっと大人数で使うものじゃないのかな……」
「気にしすぎですよ」
松下くんは買ってきた食材を作業台に並べてくれた。キッチンも広く十人ぐらい並んで料理ができそうだ。備え付けられた棚を開くとキッチンセットもカトラリーセットも充実している。冷蔵庫を開くとビールまで冷えている。
「そこの飲み物も自由にどうぞ」
「どんなマンションなの……ここ……」
「どんなと言われましても……普通にマンションですよ?」
松下くんの普通は絶対に普通ではない、と思いつつコートを脱いだ。
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