Ⅵ 妬みと癇癪


「おい」


 治療してもらった足で出口に向かって歩いていると急に腕を掴まれた。

 その煙草臭い手を払いのけてその人物を睨みつけると噂の『ナギ』さんだった。彼は私に振り払われた事に苛立ったのか顔を歪めて、私を睨みつけてきた。だがそんなのは雀荘にくるお客様たちに比べたら子犬のようなものだ。

 私はヒールで地面を蹴りつけてから彼を睨みあげた。


「用件があるなら口で言いなさい。触る理由ないでしょ。上からくれば優位に立てるとでも思った? 調子に乗るな若造が。箱ごと吹っ飛ばされたいの?」

「は? 箱ごとって……どういう意味だよ、それ」

「雀荘に来なさい。半荘で分からせてやるから」

「半荘……?」

「いいから謝りなさい!」


 私の脅しに彼は虚を突かれたのか睨むのをやめて頭を下げて「すいません」と謝ってくれた。なので私も「いいよ」と許す。


「それで、きみは誰?」

「俺は凪幸作、……ちょっと来てほしい」

「うん、わかった」


 彼は私を彼の研究室に案内した。

 彼の研究室は松下くんの研究室と違って妙な機械はなく大量の書類と数台のパソコンだけがあった。換気扇のゴオオという音がうるさい小さな部屋だ。

 彼は私にティーバッグのハーブティーを出してくれた後、気まずそうに口を開いた。


「あんた、……松下の知り合いだろ……」

「そういうきみは松下くんの知り合いじゃないの?」

「知り合いというか……あいつは俺の事なんて分からないと思う」

「……どうしたの?」


 凪くんの顔色は悪く泣きそうに見えた。

 今日は雀荘に行くのは諦め、聞き役に回ることを決めた。


「俺は松下とはその……同期ってことになるのかな」

「え、同い年なの?」

「いや全然違う。でも俺は去年からここで働いていて、あいつもそうで……」

「ここって学生さんが研究するところじゃないの?」

「全然違う。あいつだけが例外! おかしいんだよ。医学免許も持ってないやつがいられる場所じゃないのに……学部生なのに予算会議とかまで出てくるし、研究棟改築とかさせるし、ここの研究員全員あいつの治験に付き合わされるし……あいつ優遇され過ぎてて、おかしい」

「要するに凪くんは松下くんが嫌いなの?」

「え? 嫌い、とか……そういうことじゃなくて……」


 私が首をかしげると、凪くんは腕を組んでバリバリとその肘を掻いた。あまりにも分かりやすい動揺だ。感情を少しも隠せていない、まるで子どもだ。

 私はため息を吐いてからハーブティーを飲んだ。


「そういうのやめた方がいいよ」

「そういうのって……なんだよ」

「妬み僻み逆恨み。そういうの、自分の目を曇らせるだけだよ」


 こんなことを言ったら怒るかと思ったけれど、凪くんは泣きそうな顔で俯いてしまった。大きな背中を丸めている姿が可哀想でその手を握ると、凪くんは「俺、彼女いるから」と私の手を払った。


「なにそれ、失礼な子だね」

「どっちが」

「たしかに」


 凪くんはそこでやっと、少しだけ笑った。


「嫌いなわけじゃないんだ。あいつ別に嫌な奴じゃないし……でも松下を見ていると、……吐きそうになる。上手く息ができなくなるんだ。多分、ヒステリー球ってやつ……精神的なことなんだと思うけど……」

「息苦しいのは煙草のせいじゃない?」

「……禁煙はできてないけど減らしてはいる……どいつもこいつも……俺はちゃんと分煙している! マナーは守っている喫煙者だ!」


 じろりと睨まれたので私は両手を軽く上げる。


「はい、もう余計なこと言いません。ごめんなさい。ちゃんと聞きます」


 凪くんは咳払いをした後「昨日の晩のことなんだけど」と本題を切り出した。


「ここの研究員が呼吸困難起こして意識不明になったんだ。明け方だったからみんな仮眠とってて……松下が見つけてくれなかったらヤバかった」

「でも掴みかかったんでしょ? なんで?」

「誰から聞いたんだよ、それ」

「時任くん」

「……あいつ部外者にもぺらぺらと……」


 凪くんは両手を組んで眉間に深い皺を作った。


「……あいつ、笑ってた」

「はい?」

「松下。苦しんでいるミヤを見て楽しそうに笑ってたんだ……だから、カッとなって……お前がやったんだろうって……でもそんなつもりじゃなくて、あいつ、本当に警察に連れて行かれたのか? なあ、あいつ捕まったりしないよな?」


 凪くんは今にも泣きそうだった。どうやら彼が私に聞きたかったことはそれだけだったようだ。しかしそれは私にも分からないことだ。

 捕まるとしたら松下くんはどんな罪でつかまるというのだろう。殺人しそう罪? さすがにそれはこの日本でありえない。しかし凪くんは怯えていた。


「あの刑事さん、『今度こそ絶対捕まえてやる』って言ってた……俺、そんなつもりじゃなかったんだ。あいつ、……あいつが捕まったら……日本の医療は十年は遅れる……」

「……落ち着いて。ゆっくり話してくれる?」


 凪くんの背中を撫でながら話を聞くと、どうやら昨日の松下くんの行動は外から見ると色々と不自然だったらしい。

 この研究棟には昼夜問わずに様々な人間が出入りをするが、その出入りはカードリーダーによって管理をされ、全員に共有されている。

 研究員(宮本くんというらしい。凪くんは仲良しだそうだ)が呼吸困難を起こしたと推測されるのは深夜三時頃で、病院は稼働しているがさすがに研究棟はほとんど動いていない時間だそうだ。だから研究棟を出入りする人はほとんどいないらしい。

 しかし昨日は、凪くんと宮本くんは細胞の反応待ちだとかで残っていたらしく、なんとかレポートが終わる頃には終電はとうになく、泊まることにしたらしい。宮本くんは「夜食食ってから寝る」と言って出掛けたそうだ。その時間は深夜2時と記録が残っている。凪くんは宮本くんが全然帰ってこないなとは思ったらしいが、眠いから先に寝てしまったそうだ。

 そうして騒ぎに目を覚ましてかけつけると、にこにこしている松下くんと苦しそうにしている宮本くんがいたらしく、咄嗟に掴みかかってしまった、という経緯だったそうだ。


「日頃から僻みをちゃんと消化しておかないからそういうことになるのよ。咄嗟の時に人間は本性が出るんだよ」


 そう。

 だから私は松下くんを信じられないのだ。――だって彼はあのとき舌打ちをしたのだから。

 まるで計算が狂ったかのように、私に向かって舌打ちをした。だからきっと、彼はあのとき【なにか】していたのだ。……そんな考えが脳裏をよぎる。

 だが、その考えはひとまず脇におき、落ち込んでいる凪くんの背中を小突く。


「だから反省しなさいね。いい年して他人を巻き込む癇癪起こさないように」

「…………ううう……でも、松下は十時頃に帰ったはずなのに、わざわざ三時にここに戻ってきてたんだ。そんなの……おかしいし……疑われるような行動とったあいつの方が……」

「とりあえず凪くん、松下くんに謝ったら?」

「謝る?」


 凪くんはきょとんとした顔で私を見てきた。


「え、謝ったことないの?」

「いや……うーん……そうかもしれない。謝れって言われたのは今日が初めてだ」

「……へえ」


 エリートってみんな頭がおかしいんだろうな、と理解した。

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