Ⅴ 犬の治療



 とにかくお金を返さない事にはと病院の受付で名刺を見せると、病棟ではなく『研究棟』という建物に案内された(病棟とはちがい病人はおらず、様々な病気の研究を行っている施設らしい)。

 松下くんはここの一室を借りているそうだ。

 建物の入り口近くの街路樹には吸い殻がたくさん落ちている。こんな汚いところで何を研究できるのだろうと思いつつ、渡されたセキュリティカードをかざしその建物にはいったところで「こっちです!」とひとりの青年が手を振ってきた。


「待ってましたよ久留木さん!」

「えーっと、……誰?」

「時任です! 松下さんの部下です!」


 時任くんは松下くんよりは年上で私よりは年下の小太りの青年で、どことなく犬っぽかった。


「時任くん、そうか、あの松下くんに緒かね返したいんだけど」

「あ、受け取れません!」

「え!」

「とにかく来てください!」

「は?」


 彼はニコニコと笑いながら「松下さんはヤバいんですよ。まじでヤバいんです。だから松下さんが絶対治せって言うから絶対治します。だから来てください」と私を彼らの研究室に引っ張っていった。私はもう反抗も面倒になり、流されるままについていった。

 廊下にはたくさんの貼り紙がしてあり、誤飲注意やら改装工事についてやら、忘れ物についてまで情報が出ていた。外部の人間が読んではいけない気がしてならないが、手持ち無沙汰で軽く目を通した。


「改装してるの?」

「はい! 西側に広い研究室を作る予定なんです。松下さんの要望で!」

「へえ、すごいのね」

「はい! あ、こっちです!」

「……はぁい」


 彼の勢いに押されてその建物の奥へと進む。その間もぺらぺらと時任くんが話すことによるとこの研究棟は日本を代表するすごいところらしい。そんな大層なところで擦り傷を診てもらうアラサー……色々と厳しいものは感じる。


「松下くんは私に嫌がらせしたいだけでしょう、これ」

「まさか! 着ずにばい菌はいっちゃったら怖いんですよ?」

「はいはい……そうかもね……」

「ここが僕らの城です!」

「……失礼します」


 時任くんに連れてこられた部屋を眺める。今まで見たことない様々な機械が置かれている近未来SFみたいな部屋だ。壁際の棚には様々な賞状やトロフィーが並んでいる。時任君は私の視線に気が付くと「これは松下さんがとったものですよ」と彼の功績を説明してくれた。

 難しいところは分からなかったが、松下くんは医学部生でありながら『とある病気』に有効な治療法の先駆者だそうだ。そして「この治療法を実践するには起業するのが一番速い」と会社を創立したそうだ。要するに、『エライ』人ということだろう。


「へえ。若いのにすごいね。漫画みたい」

「そうそう! 松下さんはチートなんですよ!」


 皮肉で言ったことが褒め言葉で通ってしまった。うさんくさいこと極まりない。


「……そんなチートの松下くんには彼女いないの?」

「そういう話、今まで全然聞かなかったんですよ。めちゃくちゃモテるんですけどね! でも中途半端なことはしない人で、……だから『久留木さんに傷を残すな』って言われて、ついにそういう感じなんだなあって!」

「そういう感じ? どういう意味?」

「うちの人間みんなもう大盛り上がりですよ!」

「勝手に盛り上げられても困るんだけど……」


 苦笑しながら時任くんから目を逸らすと、扉のガラス越しに中を覗いている人がいることに気が付いた。大きな鼻のその男性は親の仇でも見るかのようなすごい顔をしていたが、私の視線に気が付くとあっさりと去っていった。


「……なんだろう?」

「え? なんですか?」

「今ね、鼻の大きな人が中を覗いていたのよ。家政婦みたいだった」

「あー……多分、ナギさんですね」

「ナギさん?」

「別の研究チームの人で優秀なんですけど僻みっぽいっていうか、松下さんのことを目の敵にしてんですよ。若いのに優秀なのがムカつくみたいな……それに最近は喫煙所が外になったのが面倒くさいとかで苛ついていてー、もう一瞬即発みたいな?」

「それって睨んでいい理由にならなくない?」

「ですよねー、でもよく来るんですよ」

「睨みに? 暇なの?」

「あはは、そうかもしれません、……あ。今日はまじでナギさん暇かもしれませんね。ナギさんの研究チームの人が死にかけているんで……」

「なにそれ、大変じゃん」


 それは多分部外者の私に言っちゃいけない話だとは思ったが、面白そうだったので聞き役に回ることにした。


「実は……」


 と時任くんが話すことによると、明け方にこの研究棟の入り口近くで原因不明の呼吸困難を起こした研究者がいたそうだ。

 発見されたときには意識不明の重体、そしてその発見者が松下くん。松下くんが的確な応急処置をしてから隣の病院に運び、なんとか一命は取り留めたが未だに意識が戻っていないらしい。

 明け方というなら昨日のコンビニの後、ということだろうか。

 あんな体験のあと職場に戻っていたのか。どういう神経をしているのか分からないが、――ぞく――とあの寒気を思い出した。


「……それ、松下くんが【なにか】したんじゃないの?」

「【なにか】ってなんですか?」

「……松下くんって目を合わせたら人殺せそうじゃない?」

「あははっ久留木さん面白いこと言いますね!」


 時任君はけらけらと笑った。


「……でも松下くんって『ヤバい』んでしょう?」


 少し声色をかえてそう聞いてみると時任くんは笑顔のまま「ありえないですよー」と言った。その顔からはほんのすこしの疑いも見えず、拍子抜けしてしまった。


「倒れた人も元から気管支が弱いそうなので、アレルギーとかじゃないですか? 松下さんも間が悪いというか運が悪いというか……」

「それじゃなんで松下くん警察に連れて行かれたの?」

「あ、やっぱり捕まっちゃいましたか?」

「捕まる? 逃げてたの?」

「松下さん言ってたんですよ、『第一発見者といっても事件でもないのに……今日逃げ切れば無駄な時間を過ごさなくて済むかなあ……』って……あの刑事さんは松下さんのこと構いたがるから捕まると面倒なんですよ」

「構いたがる?」

「親戚らしいです。自称保護者みたいな? 面倒くさいですよね、そういうの」

「……学生の内はそうかもね」


 私は女子高生のときに麻雀大会で優勝し、大学進学を辞めて麻雀の道を選んだ。それは道なのかという獣道だった。それをなんとか走り抜けた今となっては、実家の安心感、保護者がいる安心感はなににもかえがたいものだったとわかるが、このようなところにいるエリートにその気持ちは分からないだろう。

 不思議そうにしている時任くんに私は軽く肩を竦める。


「でもひどいね。ただ人助けしただけなんでしょ?」

「ですよねー。ナギさんが『お前がやったんだろう!』って松下さんに掴みかかったりしなかったらそれでおしまいだったのに」

「へ? なにそれ? 松下くん変なことでもしたの?」

「人命救助してただけですよ。単なる言いがかりですよ、言いがかり。そもそも松下さんが人殺すなんて非効率的なことするわけないのに」

「……非効率ってどういう意味?」

「え? そのままの意味ですよ? 殺人は非効率ですよ。やるなら他にもっと方法あるじゃないですか?」


 時任くんはにこりと笑って首をかしげた。昨日感じたような化物に睨まれているような恐怖を覚えたが、私も笑顔で首をかしげておいた。

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