Ⅳ カレーと再会



 東大前駅の改札を出て人の流れを避け柱の前に立ち、ポケットから携帯を取り出そうとした瞬間――ぞっと寒気が走った。

『捕食される』

 昨日ぶりのその恐怖に咄嗟に構えをとる。


「やっと会えましたね」


 目の前に『彼』が立っていた。

 一目見ればどうして忘れられたのだろうというぐらい、ハンサムな男性だった。年は私よりも少し下だろう。昨日と同じ黒のモッズコートにミリタリーブーツだ。


「昨日ぶりです、久留木さん」

「……そうね」


 彼に名前を知られたことはとんでもない失態だったような気がする。

 こみあげてきた生唾を飲み下し、彼の目を真っ直ぐに見る。目を逸らすのは負けだ。だから全力で睨みつける。彼は面白がるように赤みがかった茶色の瞳を細めて「そんなに見られるとドキドキしちゃいます」とふざけるだけで、雀士の本気の威嚇をいなしてしまった。

 その反応に、私は拍子抜けした。

 少なくとも今、彼は私に危害を加えるつもりはなさそうだ。私は構えをとき、睨むのを止めた。


「……昨日はありがとう。それでお金返していいかな?」

「ここじゃなんですから喫茶店にでも」

「え、なんで?」

「あはは」

「笑い事じゃないんだけど……」


 しかし彼は話を聞く気はないのか歩き出してしまった。お礼も言えていないしお金も返せていない私はついていくしかできない。渋々その隣を歩きながら「なんなの?」と聞くと、彼は私を見て「なにがです?」と笑った。


「きみ、別に女に困ってないでしょう? こんな年増に声かけなくていいんじゃない?」

「二十九歳は年増じゃないですよ」

「は? なんで知ってんの……?」

「俺は二十一です。医学部三年生。それからバスタルドの社長をやっています」

「は? 聞いてないんだけど」

「彼女はいません」

「だから聞いてないんだよね、きみの個人情報は……」


 彼はくすくすと笑う。品の良い笑い方だった。

 それから内容のない会話をしながら少し歩いた。彼は私よりも頭一つ分大きいが、車道側をゆっくりと歩いてくれ、人がぶつかりそうになれば私の肩を引き寄せてくれた。とても紳士的だ。

 なのに私は彼に対して少しも警戒を解くことはできなかった。


「ここでいいですか?」

「なんでもいいよ」


 そこは歴史を感じられるレトロな喫茶店だ。

 その煙草臭さや傷だらけのビニール椅子、銀色の灰皿などは雀荘を彷彿とさせる。私には落ち着くデザインだが若い子には人気がないのか店内は年配の客が多い。店の二階席につながる階段下のスペースの席に向かい合って座ると、彼は私に灰皿を差し出した。


「私は吸わない」


 彼は意外そうに目を丸くした。


「なに?」

「いえ、……麻雀を打たれる方は吸われるものかと……」

「調べたの?」

「珍しい苗字ですから」


 やはり彼に名前を知られた時点で面倒だった。私は財布から名刺を一枚取り出す。


「……改めて、久留木舞です」

「頂戴します」


 彼は私の名刺を受け取ってから「雀士ってどんなお仕事されるんですか」と聞いてきた。


「興味ないこと聞いて楽しい?」

「どうしてそんなに警戒してらっしゃいます?」

「女は急に声をかけてきた男を警戒するもんなの」

「押し倒してきたのは久留木さんじゃないですか?」

「語弊がある言い方はやめてくれる⁉」


 何言ってんだこの小僧、とは口にできなかった。


「すいません……こういうこと言うの、恥ずかしいですね……」


 何故なら彼は自分の軽口に耳まで赤くしていたのだ。

 その表情は純粋な少年のもので、私は咄嗟に「すいませんカレーライス2つください!」と叫んだ。


「久留木さん、カレーライス好きなんですか?」

「うるさいっ! なんなの、きみ! そんなキャラじゃないでしょ!」

「そんなキャラと言われましても……俺をなんだと思っていますか?」

「なんだとって……そりゃ、……」


 なんだろう。

 目の前の彼は好青年に見える。でも、私の中の誰かが『信じるな』と言っている。『信じたら殺されるぞ』と言っている。だから私は彼を睨むことしかできない。彼はそんな私を見て、困ったように笑った。


「久留木さん、俺を嫌いでもいいのでひとつお願いがあります」

「……なに?」

「俺の会社に行ってください。足をちゃんと診てもらって下さい」

「……あなたの会社ってどこにあるの?」


 彼はクスリと笑って、この国で最も有名な大学附属病院の名前を挙げた。


「受付で俺の名刺を出してもらえれば話は通りますので」


 彼は立ち上がり「怖がらせてごめんなさい。二度と連絡しませんから」と寂しそうな顔をした。その言い方が気に食わなかった。だから私も立ち上がり、彼の胸を人差し指でさした。


「別に連絡しないでなんて言ってないでしょ。なんなのその言い方」

「え、いやでも……」


 ごにゃごにゃと聞き取れない小さな声で呟く。それにもムカついて一歩距離を詰めると、彼は私から目を逸らして顔を赤くした。


「松下くん、きみはなんなの? なにを隠してんの?」

「あ、俺の名前覚えてくれているんですね。ありがとうございます」

「いや……だからそんなピュアな反応しないでくれる? 医学部生なんて女食い放題でしょ?」

「ちょっと、近いですよ……」

「私が痴漢しているみたいな言い方やめて!」

「いや本当に近いですってば、久留木さん……とにかく俺の会社に……俺は迎えが来てしまったので案内できませんが、俺のところはこの日本で最も技術に安心がおけるところですから」

「迎え?」


 喫茶店の入口の方から「白翔!」と彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返りそちらを見るとスーツを着た中年の男性がこちらに向かって歩いてくるところだった。


「なんでしょうか、中島さん」

「分かっているだろう? 『事情聴取』だ、署まで来てもらうぞ」

「また俺が悪いと決めてかかっている時の顔をしていますよ。そんな風に決めつけて、中島さん、今まで俺が悪かったことがありましたか?」

「今度の悪さは『殺人未遂』だ。お前がいくら言い逃れしようが来てもらう」

「仕方ない人だな……」


 松下くんはその中島という警察官から目をそらすと私の肩に軽く触れた。冷たい手だった。


「……久留木さん、お願いですからね。ちゃんと行ってください」

「え、ちょっと……」

「絶対ですよ。お願いします」

「……わかった」

「よかった。では、……失礼します」


 彼は私に反論を許さず、警察官と共に店から去っていった。その背中を見送ってから首をかしげる。


「……なんなの、あの子……『殺人未遂』? 昨日の事故、『やっぱり』松下くんのせいなの? ……っていうかお金!」


 残された私はお金を返していなかった事実とカレーライス2つを前に途方に暮れるしかなかった。


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