第拾呉幕 あさきゆめみし〈五〉
*****
うだるほどに暑い夏の日の記憶の中で、うるさいほどにセミが鳴いている。人々が倒れた廊下をアシヤはフラフラと歩いていた。
「……浅葱の女御」
そう呼ばれた女性が振り向いた。彼女は、アシヤの母親だった。最も三つの時にはもう既に母と呼ぶことを許されなくなったのだが。
「若君様。驚かせましたか。ですが、どうやら今日がその日のようです」
アシヤは小さく頷く。
アシヤの家は代々、呪いを受け継いできた。これは端的に言うと『生き残った』という罪への罰だ。本来であればアシヤの家はかつての祖先が大罪を犯した時に一族郎党皆殺しにされるはずだった。だがそれを祖先は許せなかった。彼は苦渋の決断の末、隠居していた呪術師の家系である『獄幻家』の門を叩いたのだ。
彼らはアシヤの家を保護することを約束した。そしてその代わりに、身を蝕むおぞましい『呪詛』を呑むことを条件として出した。
この呪いはアシヤの家の切り札であり、そして数年に一度、この呪いを的にして一族郎党皆殺しにする術を送ってこられる厄介な代物でもある。
だが呪いをとけば家族どころか遠い親戚さえも生きる術を失う。数年に一度呪い返しをしてくる土御門よりも、この呪詛をしかけたものの方が余程おぞましく冷酷だ。故に、アシヤの家の後継者は生き延びる恥辱を堪え、幼いうちに家族との縁を断ち切られ育てられるのだ。
そして、これはその日の記憶だ。
「……お勤めご苦労様でした。浅葱の女御。後は小生がつつがなく納めますゆえ、どうごご安心くださいまし」
「やはり貴方はアシヤに相応しい。よくぞ立派になられました、御館様」
「有難く」
母親との会話では無いことはよく分かってる。だがこの歪な関係こそが最も強く確かな愛の証明であると分かっていた。本能で理解していた。だから例えこれが今生の別れになるとしてもアシヤには躊躇いはなかった。あるのは虚しさと寂しさだけだ。だがそれもいずれ氷雪のように溶けてなくなる。
「……御館様」
「はい」
思考が、ぶれていた。慌てて顔を上げると彼女は見たことも無く優しい笑みを浮かべていた。
「私とて鬼ではないのです。ですからどうか、最後に慈悲を賜れないでしょうか」
彼女の柔らかで、それでいて窶れている、魂も精神も肉体も汚染され消耗された手が差し伸べられる。
「最後にどうか、私の名を読んでくださいませぬか?」
動揺したのは言うまでもない。
母はそれを己への慈悲と称したが、違うのだ。あの瞬間は母は……一人生き残り業を背負うことになる己に選択肢を与えてくれたのだ。一瞬、故に逡巡した。母と、母様と、呼びかけてしまいそうになった己をぐっとかみ殺す。
アシヤ アオイがいつかの日に浅葱の女御となり息子を喪ったように――アシヤ ■■■■■もあの日死んだのだ。
故にまっすぐと臆することなく顔を上げる。
「はい。浅葱の女御様」
彼女はふっと満足をしたように頷くと頭を優しく撫でてくれた。もう力の入ってない弱々しい手だったが、その感覚を生涯忘れないだろう。
「それでこそ、貴方はアシヤなのです」
……だから。
夕日の差し込む縁側で、ありふれた親子のように母の膝の上で微睡む己を呪うようにアシヤは告げる。その手の感覚はあの日の感覚と全く同じだ。
「……こんなことは有り得ないのです」
夢は砕ける。
後に残るのは果てのない虚構だけだ。
*****
「名前、オシエテ、結婚、シヨう、シヨ」
化け物の声を前に、虚ろな意識の最中、ふと思った。
なんで自分ばかりが、と。
普通の人々が普通に暮らしているのに、自分はそれさえできないのかと。こんな訳の分からないものに魅入られて、追い詰められて、挙げ句結婚? 訳が分からない。
どろりと、心が解けていく。
なんでこんな目に。どうしてこんな目に。
私がこんなんだから彼はこんな目にあうのか?
自分だけが悪いのか?
それとも、生まれてきたことが罪とでも言うのか?
こっちは遠慮して、抵触しないように生きてるのに、こいつらと言ったらなにも考えてない。相手を巻き込んだって何も悪いとさえ思ってない。巻き込まれたこちらが悪いとでも言いたげに。ああ、それって、そんなのって理不尽だ。酷い。不条理だ。
「……でもそれならさ」
足を持ち上げられ、着物をはだけられながら、現実逃避の譫言のように澪は小さく呟く。くすくすと笑いながら、彼女は両手で顔を覆った。
「私もそうすればいいんじゃないかな」
水の音がする。船が静かに港を離れる音がする。イケナイコトだと分かってるのに、何故か興奮と歓喜が抑えられない。だって仕方がない。生まれた時から、ずっと、我慢来てきたのだ。そうしてみたかったのだ。
澪は障壁に手を伸ばす。その表情はぐちゃぐちゃに歓喜に濡れて歪んでいた。甘く蕩けるような表情のまま、邪魔障壁を破壊するための「魔法の言葉」を思い出す。
『これは貴女から逃げていた私への罰なのです。きっと。ですから私の魂を、あげます。私の名前は――蘆屋 秀水です。きちんと、覚えてくださいね』
今、その言葉が鮮明に甦った。澪は妖艶に微笑みながら静かに、悪夢の汚泥に落ちたアシヤを見つめる。そして。
「〈おいで〉、〈蘆屋 秀水〉」
魂そのものである真名を喚ばれて、体内の呪が沸き立つのがわかった。沸騰したような熱が昂り、止まることは無かった。獰猛な獣のそれと変した手足で固くて壊すことのできなかった障壁を破り捨て、澪を征服せんとする神を引っぺがして壁に叩き付ける。そのままその内蔵を食いちぎる。
魂を明け渡すのに躊躇いも逡巡もなかった。だって遠の昔に準備できていたのだ。ユキに尋ねられた時に僅かに考えて決断を下した。重く苦しい決断ではあった。だが時間がかかるような決断ではなかった。
なにせもう分かってるのだから。
「返していただきましょうか」
澪の代わりなんて天地のどこにもいない。彼女のためならばこれまで犠牲にしてきた全てを覆す事が出来る。これまで下してきた決断の全てを狂わせることが出来る。狂気にも等しいそれを、愛と獣が呼ぶのは烏滸がましいだろうか。
「彼女は、私の大切な光だ。貴様ごときの手が触れていいような星じゃあない」
澪の体を抱きしめるのと同時にユキが己をピックアップするのを理解した。だが耐えられない。我慢できなかった。普段であれば絶対しないであろうことをするために、獰猛な獣のあぎとを日の下に晒す。
血飛沫が床に飛び散る。
夢から完全に醒める前に、アシヤは神の心臓を食いちぎった。
*****
重い、瞼を持ち上げる。腕の中で澪もまた、数度瞬きをくり返す。それからふわあ、と欠伸をした。動いたことに驚いたアシヤは完全にフリーズしてからはっと我に返った。
「お嬢さん!」
「な、なに?」
「お怪我は!?」
「ない、けど……」
握った手は寝る前と起きたあととさほど変わらずにアシヤにはない命の熱を持っていた。どうやらこの身体では差が分からないらしい。仕方ない。嫌だがユキに確認をしてもらおう。
不意に、くすくすと澪が笑いだした。
「……なんです?」
「ううん。そう言えば名前、聞けたなって。秀水って言うんだね。字は?」
「……秀でているに水です」
「ウケる。アシヤも水関連の名前じゃん」
「仕方がないでしょう……呪詛が定着しやすいのは水にまつわる名前なんですから」
そういう意味では澪の波乱にちょっとばかしアシヤの責任がない訳でもないのかもしれない。いや、無いって事で通そう。
「でもさあ」
澪の瞳はいつもよりもずっと魅力的だった。
まるで生まれてまもない無垢な呪詛のように真っ黒で、磨いた黒曜石のようだ。
「アシヤ シュウスイってなんか、すごいアシヤっぽい。超絶似合ってる」
「……ありがとうございます」
彼女が狂っても、壊れても、変わり果てても、掴んでしまった手は最早離せない。だからこそアシヤはよりしっかりと彼女の手を掴んだ。まるで彼女がここにいると証明するかのように。
「……ただいま、秀水さん」
「おかえりなさい、澪」
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