第拾呉幕 あさきゆめみし〈四〉
かちり、と丁度何かが切り替わるように目を覚ました。そこはいつも通り果てしなく終わりのない通路だ。
「……ユキさん……心配かけちゃったな」
乱れた着物を正すことさえ難しいながらに頭を搔く。だが今はそれどころでは無い。どうやら最後夢を見ていた時とは違う場所にいるようだ。
ふらりと立ち上がる。
あの化け物から逃げろと言われると絶望的で泣きそうだが、どこかは分からないがアシヤがいると聞くとやる気が出てくる。俄然頑張ろうと思えた。
とりあえず一箇所に留まるのは得策ではない。あれはなんて言うか、足が早いのだ。少なくとも澪の全力疾走では到底逃げきれない。なので留まるにしても障害物の多い、安心できる場所に留まりたいところだ。咄嗟に隠れてやり過ごす方法は有効だと分かってる。あれは視覚も聴覚も劣っているのだから、少なくともかくれんぼをするのは多少楽だ。
そう思いながら澪は歩き始めた。
――アシヤの横をすり抜けて。
今しがた夢を見始めたアシヤは一瞬呆然としてしまった。例え彼女が光悦とした、呪いに魅入られたような表情をしていたとしても己を無視するわけが無い。
「お嬢さッ……痛……」
伸ばした手は見えない仕切りのようなものにぶつかった。アシヤは拳を振り下ろしてみる。先と同じように壁によってその拳は阻まれた。
ユキはアシヤが眠るよりも前に出来るだけ難易度を下げるつもりだと言っていた。彼女の言葉は嘘ではなかった。事実、これほどの至近距離にアシヤと澪は出力されたのだから。
だが……。
「ユキさん!」
『煩いな。知覚してるよ。確かにそこに障壁がある。間違いない。そのほんの数センチ、そこに全く別の夢が差し込まれてる』
「可笑しいでしょう! 貴女ほどの夢の使いならばこんな妨害、例え神であろうとも受けるはずがありません!」
『分かってる。今解析してるよ……ああ……なるほど。どうやらお相手さんはこの夢の領域をせばめた代わりに出力を上昇させたみたいだ』
「……つまり?」
『君と澪ちゃんを隔てるように社を二分するように障壁が張られてる。敵の狙いは君だ。相手は澪ちゃんも、君の魂も、食べるつもりみたいだね』
壁に爪を立てる。唇をかみ締めていても状況は好転しない。立ち上がると踵を返した。
「お嬢さん……必ず、私が……」
一方で、ドン、と虚空でなった音にビビった澪は物置のような場所に隠れていた。
「……怖。今まで無かったタイプの怪奇現象だ……」
まさかそれがアシヤが拳を叩きつけた音だなんて夢でも思わず、澪は立ち上がった。真っ白だった着物は今や逃げすぎて埃でじゃっかん、煤けてる。
「とりあえずアシヤを探さないと。どう探すのか全然わかんないけど」
だが思考停止してはおしまいだ。考えるのまで諦めたらそれこそ降参したと思われても仕方がない。澪はしばらくの間、考えていた。あの化け物のことを考えると身が竦むし気が滅入るから考えないようにするために、なお一層深く思考する。そしてふと、あることが気になった。
「そういえばあれは私が遠くに逃げると追いかけてこないけど、なにか理由があるのかな」
澪は数日のうちに社のどちらが外側――つまり中心部から離れていくのかを把握し、出口を求めてそちらの方角に向かって走っていた。それはつまり中央から離れていく行為だ。そして離れれば離れるほどに化け物は安心したかのように澪を追いかけなくなった。
「……」
ユキの話を思い出す。
あれは澪を誘き寄せたのだと言っていた。では逆の立場だったとしてもしも苦労して手に入れ、挙句弱らせた生き物が逃げようとしていたらどうするだろうか。いや、ありえない。自分なら絶対に追い詰めて閉じ込めておく。
では何故化け物は澪が外側に向かって逃げると追いかけてこないのだろうか。あれは何故中央から動かないのだろうか。中央に近づくと追いかけてくるのだろうか。
澪の目覚めた部屋はこの廊下と違い開放感があった。よく見えなかったが恐らく祭壇のようなものがあったかもしれない……し、なかったかもしれない。どちらでもいい話だ。少なくとも澪が逃げてきた中で見た部屋でいちばん広くて大きかった。全ての廊下は最終的にあの部屋へと近づいていた。
『普通、部屋から部屋に移動する時は扉を開くだろう。だがそれはある種、隣の部屋に移動するための儀式やトリガーになってるといえなくは無いだろうか。例えそれが移動する為に必要なアクションだとしても、部屋から出るためには必ず扉をくぐらなければならない。別に扉に限った話でもない。空間から出るためには必ず、出口を介さねばならないのだ』
「そして怪異が関わってる場合ストレートに出口がある場合の方が少ない」
静かに澪は指先でトントンと唇を叩く。難しく考えすぎだ。結論はもっとシンプルでいい――入れた以上はまた、出ることも可能であるはずだ、と。
入口はまた、出口であるのだ。
辻褄が合う。化け物は安心したのだ。
澪は逃げていた、出口に向かっていたと思っていたのだが結論は違ったのだ。入口から離れていたのだ。だから化け物は安心したのだ。
思考を現実に向ける。
目の前に広がるのは中心地へと繋がる、薄暗い不気味な廊下だ。
息を吸って、それから吐く。それを三回。大丈夫。恐怖よりも常にそばにある幸福こそが尊いのだと、彼は言っていた。なによりも、アシヤは澪を信じてくれたのだ。澪も、彼が信じてくれた澪自身を信じなければ。そうでなければそれはアシヤを信用してないのと同義だ。
だから信じよう。
この夢を終わらせられると信じているアシヤを信じて。
そう覚悟をするのを待っていたかのように背後で床板が軋んだ。壊れたロボットのように振り向く。曲がり角から異形の、影のような顔がこちらを見ていた。
「くけやう見たつよ」
「ッ!」
化け物の言葉が響くと同時に伸びてきた手を交わしながら走り出す。部屋の入口まで大体百メートルくらい。短距離走程の長さしかない。以前はもっと長かった気がするのに。いや、そんなのどうでもいい。あの部屋に滑り込めばきっとアシヤと合流できる。そんな確信がある。
「んげのるな逃で」
化け物が無数の腕を使いながら廊下を追いかけてくる。息が苦しい。だがあと少し。あと少しで。
ドン、と鈍い音と共に澪の体は見えない壁に叩きつけられた。
「……………………は?」
壁が、ある。見えないけど確かにある。なんで、どうして、そんなありふれた言葉さえ喉を通らない。現実を正しく認識できない。なんで。だって、ここにあるはずなのに。こんな、ゴール前で。
「お嬢さん!!」
障壁の向こうからアシヤが駆け寄ってくるのが見えた。彼の顔は普段見ないほどに焦燥している。その背後からは無数の腕が迫っていた。
「アシヤ」
「お嬢さんッ…………」
伸びされた指先は障壁に阻まれる。彼の顔に浮かんだのは絶望ではなく苦悶だった。彼の足に無数の腕が巻き付く。状況は澪もさほど変わらない。すぐに化け物が澪を床に張りつけた。
「と付ったい追いや」
ああ、終わりだ。
思えば彼があんなふうに憔悴した顔を初めて見た。
……いや、違う。そういえば最近どこかで見た気がする。
夢が、魂が壊れる今際、ふとそんなことを思い出した。そうだ。アシヤは何か言っていた。
『いいですか、お嬢さん。ピンチになったらどうか、私の名前を呼んでください……これは貴女から逃げていた私への罰なのです。きっと。ですから私の魂を、あげます。私の名前は』
唾液が床に落ちる。酷く冷めた感情が胸を支配していた。
「……ナマエ、教えて。ケッコン、シヨう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます