第拾呉幕 あさきゆめみし〈二〉
走り出した。軋む廊下は乾いていた。何が何を言ったのか、それを確認しようとさえ思わなかった。ただ和服が重い。この廊下は永遠に続くほどに長い。着物は重くて走りにくいし金輪際勘弁だ。
くるぶしにあの枯れ木のような皮膚がふれる。
「ッ……助けて! アシヤ!」
床に顎がぶつかった。だが少女の胸を己が引きずられているという恐怖よりももっと恐ろしい真実がしめていく。それは和紙に一滴、墨を垂らした時のように、ほんの僅かでありながら鮮明に、致命的に、広がっていく。
「なんで……なんで、助けてくれないの……?」
パチンとスイッチが切り替わるように澪は飛び起きた。荒くなった息と皮膚を滴る汗の不快感は変わらない。だが周りはあの恐ろしくも厳かな社ではなく、見知った自室だった。
「……ゆめ……?」
己の髪を掻きむしる。未だ瞼の裏にこびりついた恐怖と不快感を掻き消すように頭を振る。そうか、夢だったのか。それならアシヤが助けてくれなくても仕方がない。そう、己を納得させようと唱え続ける。
小さく背中を丸め、ベッドの上で膝を抱えて小さくなる。もしそうなら最悪だ。結局澪はアシヤを信じていなかったのだ。絶望的な結論が満ちた部屋の中で、澪は嗚咽を漏らした。
*****
「ですからそれは妖などのせいではなく通気口が壊れてるんですよ」
やや呆れたようにアシヤが言う。
「そんな訳が無い! 俺の家は買い換えたばかりなんだぞ!」
「では不良物件ですね。いや、どちらでもいいんですよ。兎に角餅は餅屋に、家はリフォーム会社に相談してください」
「クソが! 二度と頭を下げられたってこの店には来ねえぞ!」
「普通ここは最終手段なんですけどね」
週に二回必ずくるおじさんはブーイングをしながら去っていった。ブーイングをするくらいならば来なければいいのに、こういう客に限ってよく来るのだ。毎回理由も違うし、というか小売業でもないし占いもされてないのによく来るよな。
「さて、日課も終わりましたし、少しお茶でも……お嬢さん?」
「んぁ!?」
うとうとと船を揺らしていた澪はびっくりしたように顔を上げた。その目はくっきりとクマがついている。彼女は目を擦りながら小さくあくびをした。
「ん、ごめん。お茶? 今準備するね」
「……ええ」
ふらふらと覚束無い足取りで事務所に備え付けたポットに近づいていく。手つきも何となく不安定で、結局アシヤがほとんどいれることになった。
「うん……ごめんね……」
「いえ、構いませんよ。それよりお嬢さん。ここ数日ずっと眠そうですが……夜更かしは程々になさい」
「んー……」
言葉を選んだアシヤの忠告に寝ぼけた煮え切らない返事が返された。わざと澪にも聞こえるような大きな音で溜息を着く。
「お嬢さん。こちらにいらして少し昼寝をなさい。そんなんでは何時怪我をするのか、こちらもハラハラしてしまいます」
「……やだ」
それまでとは違ってしっかりとした返事が返ってきた。
「……いやだ、とは?」
「ん、寝たくない……の。だから、寝ない……」
今にも寝落ちしそうな澪の言葉に眉を顰める。何故寝るのが嫌なのか。訳が分からない。だが聞き返しても寝ない、言わない、寝たくない、の三段論法で論破されてしまう。
「……お嬢さんがその気なら小生も手段を選びませんからね」
「んにゅ……?」
澪の頭を固定して彼女の瞳を覗き込む。光悦とした表情の澪の瞳がこちらを捉えた。
「そうです、お嬢さん。こちらを見て下さい」
「……あ……はい……」
「お嬢さん。貴方は少しずつ眠くなります。それでそうですね、つい、本音を口にしたくなります。何、言ったところでここは夢と現の境。誰も覚えてはいません」
「…………うん」
どうやら案外サラッとかかったらしい。ぼんやりとした表情のまま澪はアシヤを見つめている。
「さて、何でお困りなのですか? お客様」
麝香の香りがゆっくりと部屋へ広がっていく。お香の甘く蕩けるような香りにならい澪の瞳も溶け落ちそうだった。そしてそれ故に精神の壁は優しく開かれていく。
「……ゆめを、みるの」
「夢」
はて、困ったな。何度でも言うがそういうのはアシヤの領分では無いのだ。アシヤが得意なのは怖いことが起こる、殴る、解決のルーチンワークだ。あと放置。
「……まいにち、しらないばしょで、おなじゆめをみるの。しゅぬりのやしろ、しろいきもの、きしんだろうか、しめったはだ……おいかけてきて、わたし、にげるのに……」
どうやら知らない間に随分なことに巻き込まれているようだ。
「何故話して下さらなかったのですか」
「……だってえ」
瞳が水で滲んでいく。
「なまえ、よんだのに、たすけてくれないからあ……」
「…………」
名前を?
自分の名前を? 呼んだ?
慌てて彼女の身体に触れる。普段よりも僅かに体温が低い。眠いなら高くても良さそうなのに、どこか冷たい肌とぐったりとした身体には活気がない。
澪に以前渡したブレスレットは特別なものだ。それに自分と彼女の関係も些か特殊だ。呼ばれれば、例えそれが夢の中であろうともアシヤは行けるという自信がある。だと言うのに現実はどうだろうか。
「……お嬢さん。その夢を見始める前後に何かを致しませんでしたか? いつもお話してるでしょう? どんな事でもトリガーたりうる、と。思い出しなさい。何をしたんですか」
「……なに、を……わたし……」
彼女の唇が吐息のような声を吐き出す。聞き返すよりも前にアシヤは彼女を抱きとめることになった。腕の中、眠れていなかった少女はようやく、長い眠りについたのだった。
*****
「……だからってなんで私のところに来るって話になるんだよ」
そう文句を垂れたのは目の前の……生意気極まりないユキだった。彼女の前には無限にも等しい量の書類が並んでいる。
「聞きたいことがあったからですよ。あと先日マリーさんをけしかけてきた腹癒せです」
「あれは……仕方なかったんだよ。私はマリーに罪悪感がある。だから彼女の言うことはできるだけ聞きたいんだ」
「そういうなら私の悩みの一つや二つ解決したらどうです? 増やすばかりではなく、たまには消す方もおやりなさい」
「あー、せいろんーー。ユキちゃんは傷つきましたー。ていうかお前には私の前の無数の問題は見えないんですかあ?」
机に突っ伏して暴れる彼女はまあ、さして可愛くないので置いておいて。
アシヤとて苦渋の決断なのだ。なにせ、アシヤはユキが苦手だ。このふざけた態度といい、権力があるところと言い、それをかさにしているところといい、横暴で傲慢。慎ましやかさの欠けらも無いとさえ思ってる。だが今回の件はユキの力が必要だ。なにせユキは夢と精神のプロフェッショナルなのだから。
彼女もそれがわかってるのだろう。文句を垂れるのを止め、静かに背もたれに身体を預けた。
「それで? 澪ちゃんはなんて言ったの?」
「……家の裏手にできた神社にお参りをしたと」
「ふうん。確かに彼女の体質から考えると些か浅慮だ。けど、まあ気持ちはわかるよ。ああ、あとそれから。その肝心の澪ちゃんは?」
「…………小生の家で、寝ております」
「寝てる、ねえ……」
ユキは目を伏せた。ペンをくるりと指先で回転させる。
「寝てる時間は?」
「よく分かりましたね」
「経験則だよ」
彼女は立ち上がってコートを手に取った。隣の部屋にいるらしき東雲の跡継ぎと何かをまだ話し合っている。
澪の寝ている時間は日々長くなっている。
ほとんど寝落ちや気絶に近い状態で入眠する。そしてそのあとは自然に目覚めるのを待つのだが……その時間がだんだん長くなっているのだ。最悪なのがアシヤが探る限り自分と澪との、澪の肉体と魂との距離が遠くなっているのを感じる。
それがどういう意味なのか、分からない術師はこの場にはいなかった。
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