第拾呉幕 あさきゆめみし〈一〉

 からん、ころん、と軽やかな音を立てながらアシヤは市街地にある黒い装飾の施された柵を軽く押した。庭園には甘い花の香りが充ちていた。石畳の敷かれた道は静寂に満ちていて、その布を裂くような軽やかな音が響く。

「……あら? 随分珍しいお客さんね」

「貴女は……マリーさん」

「さんだなんて。そんな他人行儀な呼び方をしないで」

 金髪の少女は目元を柔らかくさせた。その手には白い薔薇が抱えられている。それから香り立つ青く甘い香りに静かに目を伏せる。

「ユキさんに御用? 奇遇ね、私もなの。でも残念ながら彼女は外出中みたい。守衛さんにお願いしてここの温室を借りたのだけれど……もしよろしければアシヤさんもご一緒にお茶をいかが?」

「では……お言葉に甘えて」

 マリー、という名の少女の後に続き温室の椅子を引く。彼女はユキのところでしばしば見かけるシスターだ。彼女とはあまり仲が良くないらしい。苦虫を噛み潰したような顔で彼女の名を呟くユキを何度も見かけた。そういう意味では是非仲良くなりたいものだ。


 最も、彼女の過ぎた清廉さは、自分にとってはかえって毒のようだが。

「今日はなんの御用できたのかしら。差し支え無ければ伺っても? ちなみに私はただ挨拶に来ただけよ」

「……貴方ほどの方が訳を明かしたのに私だけが内緒、とはいかないでしょう」

「あらあら。まるで私が酷いことをしてるようね」

「…………」

 沈黙を返した。彼女は薔薇の花束の中から白い薔薇の蕾を一輪取り出して目を伏せてくふふ、と小さく笑う。

「ごめんなさいね。意地悪をするつもりはなかったのよ。でもそういうつもりなら初めからきちんと優しくすべきだったわ」

「……?」

「本当のことを言うとね、ユキさんにお願いして少しだけ時間をいただいたの。彼女は今も執務室で貴方の身を案じてるわ。優しいのだもの……どれほど冷酷で無慈悲であっても、心は剥き出しだから無意味なのよ。そう考えると悲しいわね……ああ、解らなくていいの。これはただの……そうね、クセのようなものよ」


 一見すると支離滅裂にも聞こえる言葉の……いや、支離滅裂な言葉を紡いだマリーを前にアシヤは眉をひそめた。とにかくどうやら自分は『足止め』をされていたらしい。実に不服だ。だがそうと分かれば話は早い。こんなところで美しい水に舌鼓をうつほど、時間は無いのだ。


「ねえ、アシヤさん。手放すタイミングは、決して間違えてはダメよ」


 ……しかして、立ち上がりかけたアシヤの足取りは彼女のそんな言葉によって遮られた。彼女はまだ白い白い薔薇の蕾を観察している。

「籠の中の小鳥は飛べない小鳥、とよく言うけれど。彼らが鳥であるのならば決して初めから飛べない訳では無いのよ。私達が私達のエゴで飛べなくしてしまっただけ。それをさも他人事のように唱えてるに過ぎないのよ」

 彼女の紺碧の瞳は憐憫を讃えながら、愛しいものを見つけてしまったアシヤを心底から嘲っていた。つい、扇子に手を伸ばしかける。だが扇子を開くには些か遅いのは分かっていた。ぷつり、と唇にくい込んだ牙がその肌に穴を開けて血が零れる。


「貴方のことだもの、きっとありったけの慈悲を注いでるのでしょう? 溢れるほどに、ひとりで立てなくなるほどに優しくしてるのでしょう? でもね、勘違いしてはいけないわ。どれほどに理性的で、どれほどにお互いが分かりあっていたとしても……分かりあってるからこそ、手放すべきなの」

 薔薇の棘が刺さったのか、白いテーブルクロスに赤い染みが静かに落ちた。だがそれを覆うように彼女の手ですり潰された白い薔薇の花弁が落ちていく。彼女は目を伏せて、まるで聖女の如き清らかさで微笑んでみせた。


「彼女が少女ならば、決して白い薔薇の蕾のようなことはありえないのよ」


 沈黙が落ちる。強い嫌悪感を隠しもせずに彼女を睨みつけていた。彼女を傷つけるべきか、或いはご忠告感謝します、と上辺だけの言葉で誤魔化すか。頭の中の冷静な部分で計算する。


「マリー、ここにいたのか」

「紫苑」

 だが何かを言う前に草木をかけ分けて現れたのは、黒髪の青年だった。彼は金色の瞳で一瞬見透かすようにこちら見てからマリーに視線を戻した。

「あの女に逢いに行くと言ったのに執務室にいないから心配していたんだ」

「ごめんなさい。少し彼と話してみたかったの」

「そうか。では邪魔してしまったかな?」

「……いえ。話ももう終盤でしたので」

 こちらを向いて形だけ確認してきた青年にそう返す。

「そんな寂しいことを仰らなくても良いのに。でもそうね、あまり彼女との時間をとっても良くないわ。紫苑、帰りましょう?」

「ああ、そうだね。私のマリー」


 煌びやかな、この世界の全てが清いものだと信じてるかのように彼女は微笑む。そんな彼女にとって己も……己の中に巣食う物も、きっと不要なのだろう。

 だがどれほどに清く美しい川だったとしても、清すぎるのであれば命を育むことはできない。そしてそうしてできた川は……死の川と大差ないのだ。


*****


「あれ? こんなことにこんなのあったっけ……?」

 平坂 澪は今日も今日とてアルバイトだ。そうノリノリで家を出た矢先に足止めを食らった。ちょうど家の裏手側に知らない間に小さなお社ができていた。いや、お社というのは正確では無い。ざっくり言うと祠だ。

 コンクリートと石で作られており、同じように白っぽい灰色の鳥居が建っていた。それだけだ。木が生えていたり、生垣がある訳でもない。なんというか、ぽっかりとそこだけ異質に祠が建っていた。


 鳥居を見上げる。神社の名前だか神様の名前だかが書いてあるはずの所もただの石だった。ついでにいうと誰かが来ているような様子もない。最近建ったのだろうということは分かる。事実先日通った時は何も無かった。つまり建ってすぐの祠だ。なのに、供え物もなければ雑草も生えっぱなしだ。

「……」

 不思議と威圧される雰囲気の神社の前で澪はしばらく立ちつくしていた。手狭なのにどこまでも引き込まれるような異様な空気がある。もしかしたら神社やお寺に行くとこういった不思議な感覚を普通の人も受けるのかもしれない。

「……うん。これも何かの縁だし、お参りするか!」

 家の裏手にあるのも縁と言えば縁。何故そう思ったのかはとにかく、澪は勢いよく境内に踏み込んだ。


 境内は静かだった。いつもなら雑木林みたいなところから聞こえるザワザワと……人の話し声とはまた違った雑音も今日は聞こえない。葉のこすれる音さえしないのは少し不気味だ。確かに今日は風もないでる。

 とりあえず祠の手前にある石の台の上に散らばった枯葉を薙ぎ払った。そこでふと、誰かが何かを言っていたような気がする。そうだ。祠……とか神社には……。

「…………まあ」

 最近できた祠だし。

 そんなやばい事なんて起こらないよ、多分。


 自分の体質を棚に上げて、そう納得することにした。あいにくお賽銭箱も見つからないのでとりあえずぽいっと五円玉を置いて両手を合わせる。そこまでしておいてあれだが特に頼みたいこともない。

 五秒程度考えてから澪はぎゅっと目を瞑りお願いをした。


 これ以上厄介なことに巻き込まれないように。彼氏とか勉強とかよりそっちのが大切だから。どうかこれ以上厄介な目に会いませんように、と重ねて願ったのだった。


*****


 ぎし、と床が軋んで澪は瞼をゆっくりと持ち上げた。そこは漆喰の壁と朱塗りの柱のある神殿や社を思わせるような場所だった。

「……? なに、ここ」

 着ている服も変だ。白い、真っ白い着物だ。頭に乗せてる何かも重くて少しばかり首が疲れる。裾の合間から覗く真紅色にこういう衣装をどこかで見た気がした。だがどこだったか分からない。

「……うう……だーめだ。なんも思い出せない。ていうか前後の記憶も曖昧なんだけど……ええ〜……」

 とにかくここがどこなのか早く明らかにしよう。そう思い立ち上がった澪の目に入ったのは、廊下の先にたつなにか、だった。長い嗄れた、枯れ木のような手が伸びてくる。


「……」

 僅かに湿った手が澪の輪郭を確かめるように触れる。遠くいるそれはボソボソと小さな声でなにか話していた。


 その話の内容がなんであれ、少女は決定的に理解した。

 世の中には恵まれている人と恵まれていない人がいる。貧困に喘ぐ人とそうでない人がいるように。

 今まで少女は、自分はどちら側かと言われれば恵まれてない人間だと思っていた。なにせこんな体質だ。今までだって様々なものを望む望まないに関わらず引き寄せてきた。例えば普通の人々が致命傷にならない傷でさえ、少女の体質では致命傷になる。

 だが、理解した。

 決定的にわかった。

 自分はこれまでずっと幸運だったのだと。そしてそれは今日も幸運であるという保証ではなかったのだと。

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