第拾幕 〜〜
茹だるほどの熱。
耐えず降り注ぐ日差しはまとわりつくような汗によって不快感を増す。蝉の声さえも煩わしく感じるほどの熱気。それとは裏腹にどこまでも爽やかな棚田が目の前に広がっていた。
「……づ」
「言いたいことはわかりますがきちんと最初から最後まで口に出してください」
「……言ってもいいの?」
「……やっぱりやめてください」
コンクリートから登る熱気に顔の表面から汗が滲んだ。
旅館を出て数時間。走り通しだった二人は目的地までほど近いパーキングエリアに車を停めたふたりは先日挨拶に来た山岸の家を目指して歩いているところだった。村は山間にあり、車で通るには細い道が多く、この灼熱の地獄の中、苦肉の策のフィールドワークとなったのだった。
穏やかな棚田が広がるあぜ道を二人はナメクジのような足取りでゆらゆらと歩いていく。あまりの暑さに近くにこの辺りに詳しそうな地元の人も見当たらない。そういえばさっきのパーキングエリアで今日は日中四十度とか言っていた気がする。
「ねー、本当にこの辺りなの?」
「ええ、地図によれば、ね」
「……」
顔を上げるとアシヤの顔が真っ赤だった。ただでさえ色白なのだ。この日光な酷なのだろう。
「アシヤ、ちょっと」
「はい……?」
「いいから、こっち。少し休憩しよう」
ちょうど近くにあった使われていないと思わしきバス停に入る。気休め程度の日陰だが、今の二人にはないよりマシだった。リュックに入ってるタオルをアシヤの頭から被せてあげる。よく見れば汗がすごい。
「水は?」
「……飲みます」
「一気に飲まないでね。一口ずつ、まずは口の中を慣らすんだよ。一気に飲むと吐いちゃうこともあるから」
「すみません……」
いったん車に戻るべきかもしれない。勿体ないと思いつつもう一本のペットボトルを渡す。まだ冷たいそれを脇に挟むように言いつけると大人しく従った。どうやらかなりバテてるらしい。
「アシヤ、一旦車に戻ろう」
「……すみません」
「大丈夫だから。私もばてちゃったしさ」
いやいやと言うように首を横に振るアシヤを黙らせる為に口に塩タブレットを放り込んであげた。彼はすぐに顔を顰めて口元を抑えた。
「美味しくない?」
「気持ち悪いです」
「吐く?」
「う……いえ……」
青白い顔をしている。早く気がつけばよかった。
汗を拭ってあげながら給水を促しているとふと、田んぼの中に何かが見えた。白い影だった。それは蜃気楼のように田んぼの真ん中で場違いに身を捩っている。人ではないような奇妙な動きで、もし擬音をつけるのならば多分、くねくね、とした動きだった。
「ねえ、アシヤ……あぶ!?」
あれ、と言うよりも前に顔の前に札を貼られた。札のせいなのか、或いはその効果のせいなのか、定かでは無いがどちらにせよ何も見えなくなった。視界が真っ暗だ。
「アシヤ」
「お嬢さん。何か見ましたか?」
異様な剣幕で札の向こうのアシヤがそう聞いてきた。誤魔化す必要も無いので澪は素直に質問に答える。
「……見たと言えば見たけど遠すぎてなんも分からんかった」
「よろしい。ではこのまま一度車まで戻りましょう。目の前が見えないと思いますので小生が抱えますがよろしいですかな?」
「あ、うん、それは全然良いんだけどさ……」
許可を出すと同時に体を持ち上げられた。手探りでアシヤの着流しを掴む。
「ねえ、アシヤ。具合は平気なの?」
「ええ。というかそれどころでは無いので」
気持ち急ぎ足でアシヤが歩いているのが揺れからわかる。だがアシヤに封じられた視界の、その瞼の裏でまだソレがうねうねと蠢いていた。
「アシヤ」
耐えかねて澪は口を開く。
「あれ……なんなの?」
「……あれはクネクネと呼ばれるものです。正体は知りません。由縁も知りません。何も知りません。ただインターネットで生まれたことだけは知っています」
「クネクネ??」
「ええ。インターネットのある掲示板に書かれた創作話を元に派生して生まれてしまった怪異です。トリガーは『知る』ということ。クネクネの正体を見て、知ってしまったら最後。もう二度と元に戻ることはできないそうです」
見てはいけない。知ってはいけない。見ることは存在の証明で、知ることは概念の補強だ。多くの人間が知っていれば知っているほど、それは強固な存在になっていく。知るということそのものが即ち、トリガーとなるのだ。
「知っていることで命を落とす怪異はこの世に多くおります。例えばあの朽ちた祠に祀られていた神のように、知るということ自体が命取りなのです。いえ、これでは正確ではありませんね。より正確に言うのであればこうです――どんな些細な行いさえも、全てが命取りになるのです」
信奉、観測、嫌悪、好意、差別、歓待、侮蔑、畏怖、理解。
良い行いも悪い行いも全て同じ。それらは人にとっても人ならざるものにとっても命取りになりうる。なにせ隣人の全てが良き隣人であると限らないように、すべての人々の地雷を把握している訳では無いのだから。
「とはいえクネクネはまだましです。迎えに来る訳ではありませんから」
符が取られた。澄んだ川底のような淡い水色の瞳がすうっと柔らかく細くなる。
「さて、ここまで来れば平気ですよ。他に聞きたいことがあるならば聞きますが」
駐車場だった。そこそこ歩いたのによく戻ってこれたものだ。
アシヤの髪はさらさらと夏の日差しの下で、やはり川の水のように煌めいている。彼のその横顔を眺めていてふと、あることが気がついた。
「ねえ、アシヤ」
「はい」
蝉はまだやかましいほどに鳴き喚いている。いつの間にかしたたる汗も乾いていた。ただてりあげるコンクリートからの熱を前に首を傾げる。
「なんでアシヤは見ても平気だったの?」
地面に、影が落ちる。
「……さあ」
逆光になった彼は冷たい青い瞳を煌めかせる。その薄い唇の下でギラギリと尖った八重歯が見え隠れする。彼の首筋にあの瞳と同じ色の鱗を幻視する。
「何故でしょうかねえ……」
夏の日陰に吹く爽やかな風が少し心地よい。アスファルトの熱は変わらず澪を照りあげるが、その瞼の裏にはあの蜃気楼のような影はなかった。ただ、ゾッとするほどにおぞましくも美しいアシヤの笑みだけが脳内で何度も反芻される。彼の言葉の意味を問い質したいと思ったが、それほどの勇気もなく澪は静かにアシヤを追いかけて駆け出した。
蝉が、鳴いている。
蜃気楼の中、くねくねと白い影が静かに身体を捻っていた。
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