第玖幕 童謡〈中〉

「……どっちも嫌な思い出しかないんだけど」

「ええ、そうですね」

 神と言えば早々に出会ったとんでもない土地神と祭りの時に現れた土地神が。魔界と言えば先程の出れない交差路があたる。どっちも最悪だった。

「いえ、ご心配には及びません。アシヤ様」

「わっ!?」

 突然現れたのは旅館の女将だった。彼女はこちらの反応に僅かに首を傾げるが次の瞬間には何事も無かったように三指をついていた。

「御夕飯のお伺いにまいりました。準備は出来ましたがすぐにお召し上がりになりますか?」

「ええと、はい」

「それよりも女将、今の話はどういう意味でございましょうか」

「……失礼致しました。思わず聞き逃せない話が聞こえまして口を挟んでしまいました。どうぞ、この事は御内密に」

 そう言って女将は頭を下げると襖を閉めようとした。アシヤの目配せにすぐに反応し襖を受け止めた。正しく阿吽の呼吸というに相応しい連携プレーにて退室を阻まれた女将はしばらくじぃっと澪を見つめていた。


「……畏まりました。説明をさせて頂きたく思います」

 数十秒睨み合い、女将はようやく降参をしたのだった。


 運ばれてきた料理は当然のように食べたこともないような美味さだった。魚は柔らかく蕩け、野菜は旬の野菜がふんだんに使われていた。料理を嗜みながら女将は話し始めた。


 女将の名はサカイと言うらしい。術師向けの旅館を営むサカイの一族の中でも非常に優れた術師である女将は一族の持つ旅館の中でも、最も堅牢な旅館であるここの女将に就任することが幼い頃から決まっていたそうだ。女将自身もその事になんの違和感も抱かなかったらしい。父も母も祖母も祖父母に曾祖父母に高祖父母からその更に高祖父母に至るまで、サカイの一族は代々この聖域を守ってきたのだ。むしろ身に余る光栄を感じたと言う。


「ですがそれから少し経った頃でした。ふと奇妙な現象が起こるようになったのです」

 旅館を継いで経営が軌道に乗った頃だった。例えば客室をみまわる時、例えば一人で露天風呂に浸かっている時、例えば賄いを用意している時、必ず決まって小さな足音が響くようになったのだ。従業員達は皆恐れをなした。代替わりをしたことで結界が破綻しこの聖域さえも失われてしまうのかと。

「……それからすぐに東雲様と獄幻様がご来訪されました」

「あのおふたり、フットワーク軽すぎませんか?」

「お二人は来て直ぐに私の相談に乗ってくださいました。そしてそれからすぐに何が起こったのかを察して――小さく笑われたのです」

「はぁ……」

 サカイはほとんど表情を変えなかった。事の顛末、全ての真相は全て内密に、とでも言うように。

 如何に清すぎる川は忌まわしく濁る沼が懐かしいと言えども、清き川にしか住めぬ生き物がいるのもまたひとつの真実だ。蛍や翡翠は年々目撃が難しくなっている。彼らは穢れた土地では生きられない。

「今宵、この客間を何が訪れようとも決して驚く必要はございません。そして、それらを追い払う必要も無いのです」


*****


 女将の抽象的な言葉に首を傾げつつ、夕飯に卓球、再度の温泉を楽しんだ頃には時計の針も十時を回っていた。どうやら久しぶりの外出にはしゃぎすぎた。アシヤは内省しつつも自分に割りあてられた寝室を開き、そして閉じた。

「アシヤ!」

「……何故こちらの部屋にいらっしゃるのですかな? お嬢さん」

「うぐ……」

 澪は持ち込んでいる枕をギュッっと抱きしめた。それからボソボソと小さな声で何かを言う。それは小さい声だがハッキリと聞こえた。なので思いっきり眉をしかめる。

「はい?」

「だから……こ、怖くなっちゃったから一緒に寝てもいい?」

「ダメです」

「アシヤ! お願い! 一生のお願いだから」

「ダメです! ダメなものはダメなのです!」


 何を考えてるんだ、彼女は。

 アシヤの珍しい怒声に目を真ん丸にした後、しょんぼりとする。そんな顔をしたところでダメなものはダメだ。彼女はうら若い乙女でアシヤはその保護者役。車に乗るとか結構なし崩し的に色々した後とはいえそのラインを超える訳にはいかない。彼女とてそれを分かっているだろうに、と溜息をつく。

「お嬢さん。いい子なのですから」

「…………ごめん。迷惑だったよね。ごめん……何も、考えてなかったみたい……」

 返ってきた声が震えている。

「でも、ほら、こういうことで頼れるのってアシヤだけだからさ! つい! ついね!」

 あっけらかんとする声も震えている。そんなに恐ろしかったのか。呆然としたままのアシヤをおいて、彼女は俯いたまま走っていった。

 一人になった部屋で自分の手を呆然と見る。

 女の子の涙と吹けば風になくなる名誉、どっちのが大切だろうか。答えは既に出ているはずだ。

 躊躇している暇はない。アシヤの仕事は澪が普通の生活を送れるようにすること……『暗闇の中で彼女が無為にさまよわないように手を引くこと』だ。その為ならアシヤは暗闇に留まるのを躊躇わない。アシヤは枕を掴み、己の部屋を後にした。


「お嬢さん!」

「うお!!」

 勢いよく開いた襖の音に澪がビビってひっくりかえった。かなりの音だったので当然だったが躊躇わずにアシヤは続ける。

「私が昔言ったことを覚えておりますか!?」

「お……ぼえてないけど……なに、どれの話……」

「実は私、ホラー映画が苦手なのです」

 枕を抱えたままアシヤは襖を覚悟して閉める。そして座り込んだ。己の頬に熱が集まるのを認識しながらそっぽを向く。正面をむくほど肝が座ってない。

「……女将程の術師がどうにもならないものがいるなど、小生も恐ろしく……ね、寝れそうにありません。もしよろしければ一晩、私をこの部屋に置いてくださいませんか」

「……アシヤ」

「はい」

「ありがとう」

「……それほどでも」


 布団に潜った澪の傍に腰掛ける。別に寝れない訳では無いし、澪が寝たら部屋から出よう。そうすれば彼女の負担になることもないだろう。

「……ごめんね」

「謝る必要はございません。貴方は私の雇い主なのですから」

「うん……」

 澪はモゾモゾと蠢く。しずかに鼻をすする音が部屋に響いた。

「昔もさぁ……こういうことがあってね」

「はい」

「その時のお父さんとお母さんに相談したの。そしたらさ、変なところに連れてかれて……その時分かったんだ。本当に信頼のおける人にしかこういうのは言っちゃダメって。怖くても……怖くても一人で耐えられるようにならなきゃいけないんだって」

 ただでさえ奇異な子供だったのだ。そんなことをいえばどういう目に遭うのか……今なら考えなくても分かる。だけど当時はどれが普通なのか分からなかった。


 まあ、結局その家は新興宗教にハマって、それに馴染めなかった澪は家から追い出された訳だけど。


「……誰ですか」

「え?」

「誰が、そんなことをしたんですか? 世界中の誰も、どんな人間でさえ、貴方にそうする資格などないでしょう」

 布団をアシヤが握りしめた。

「貴方は奇異な子供である前に尊重されるべき個人だ。貴方の主張はなんであれ、それが大人であるならば真摯に聞き入れてあげるべきだったでしょうに。そしてそれが無闇に傷つくような結果にならないように慎重に」

「んふ」

「……なんですか。人が怒ってるのに」

 アシヤの手がわしゃわしゃと頭を乱雑に撫でる。初めて彼がそうしてきた時は酷く驚いたものだ。なにせ澪はずっと『不気味』で『邪魔』で『不吉』で『要らない』子どもだった。『胡散臭』くてちょっと『不思議』なアシヤだけが覚えている限りではそうしてくれた。多分両親もそうしてくれていたのだと、何となくそう思う。そうでなければ寂しいなんて思うこともなかっただろう。


 アシヤの手の温もりに絆され瞼が次第に重くなる。静かに微睡み始めた時だった。ぎしり、と部屋の床が軋んだのは。体が一際大きく跳ねて眠気はどこかに吹き飛んだ。

「あ」

「しっ」

 子供が走るような軽やかな足音に合わせて、質量を持つ何かが歩いているかのように床板が軋む。

 とっ、とっ、とっ、と。ぴたり。

 息を押し殺し、彼の着流しの袖を掴んだ。心臓が血液を送り込む落としさえも大きく煩わしい。かた、と襖が静かに滑る。


「ねえ……誰か、いる?」

 廊下の灯りが照らしたのは小さな子どもだった。

「ねえ、あそぼー? あそぼうよ……」

「アシヤ」

「…………ふふ」

「アシヤ?」

 見上げたらアシヤの肩が震えていた。こういう時のアシヤに澪は詳しい。彼は……思った通りすぐに爆発し、想像できないほどの笑い声を上げて爆笑したのだった。


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