第玖幕 童謡〈上〉
無垢であることと善良であることは必ずしも両立する訳では無い。無垢である、即ち俗世の汚れに染っていない魂は美しく清らかであるように感じるだろうが、それはこの世の良識さえも知らない、何者でもない、善良でさえない存在なのだ。
「本日はようこそお越しくださいました」
女将の言葉に小さく息を吸う。
そこは山間の町、湖の畔にある小さな旅館だった。最も小さいのはあくまでも建物の物理的な面積だけの話だが。
艶やかに磨かれた床は天井から部屋を照らすほんの僅かな光をぼんやりと反射させ、床の間には達筆な掛け軸と艶やかな季節の花がその色を綻ばせている。
「あ、アシヤ……こんな凄いところ泊まっていいの?」
「ええ、勿論。この旅館は術師達の宿泊施設として公的に定められている旅館にございまする。創業百年を超える隠れた老舗の旅館なのですよ」
「へ、へえ……術師って凄いんだね」
「凄いと言いますか……職業柄出張が多い上に収入が不安定ですのでこういう福利厚生があると言うだけです。なにより術士の精神が不安定だと妙なことに巻き込まれる確率も高くなりますから」
「そうなんだ……」
確かに言われてみればそうだ。専門分野の仕事であれば頼まれて田舎の方まで出張に出るのも珍しいことでは無いのだろう。少なくとも既に二度も同行しているのだ。ましてや収入も本当に不安定だし……アシヤがボロアパートに住んでるのを知っているのでなんとも言えない。
「では、ごゆるりとお過ごしください」
女将の言葉に現実に引き戻される。通されたのは湖が一望できる露天風呂がついた部屋だった。
「……なにこれ」
「お嬢さんが喜ぶかと思いまして、不肖アシヤ、自腹を切ってみました」
「馬鹿なんじゃないの!? いや、ごめん……嬉しいけど……私のためにこんな部屋を予約する必要ないよ……」
露天風呂付客室が部屋を介して対局にひとつずつある。どう見てもちょっとしたプレミアムルームだろう。こんな部屋を自腹を切って取ったなんて……申し訳がない。
アシヤと澪の関係は言うなれば対等の関係だ。澪はアシヤに己の体質改善を依頼しているし、アシヤなそれについて調べてくれている。雇用関係でもあるが、結局、澪の困ったことを解決してもらっている以上、対等……ないし澪のが弱い立場にある。だから施しを受ける訳にはいかない。
ただでさえ多くのものをもらってるのだ。甘やかしてもらってるのは分かる。親戚の女の子のように可愛いがってくれていることがすぐに伝わる。だけど、アシヤの親戚の女の子としてではなくて。
「お嬢さん?」
「は!?」
目の前でこちらを覗き込むアシヤは不安そうな表情を浮かべている。思わず宿泊用のバックをより強く握り締めた。
「具合が悪いのですか? 顔が真っ赤ですよ? それともまさか小生の勝手な行動に怒っていらっしゃいますか……?」
弱々しく案じるような声に己の顔が今、どれほど赤いのかを思わず理解してしまった。
「ち、違……」
何が違うのか不明瞭なまま口に出してしまった。違う、違うのだ。ええと、だから。
「……怒ってる訳じゃないよ。ただ、アシヤの負担になってるようなら嫌だなって。私はアシヤと対等……に近い立場でいたいから。迷惑……はかけまくってるけど、だけど、だからって言って必要以上の迷惑は」
ついでそのまま口を噤んだ。
あんまり口に出したい言葉ではなかった。迷惑ばかりかけていたら、いつかお別れをしなければいけない時に後ろめたく感じてしまっていつまでも別れることができないかもしれない。
それにもしも全てが終わった時に傍にいれるとしたらその時は親戚の女の子ではなくて。
「……」
「……そうですよねえ」
駄々をこねるように口を閉じしてしまった澪に苦笑しつつもアシヤは静かに言う。
「ただほら、血が繋がっていてもかなり怪しいですが血も繋がっていない少女と同室で寝るのはさすがに小生の方が疑われかねませんからね」
「それはそうだね、ごめん」
「いえいえ。さて、せっかくお部屋に露天風呂が付いてるのですし試してはみませんか? 小生もせっかくですから楽しみたくてウキウキしております」
「うん、そうしよ。私準備してくるね! あ! 右側私が使うから!」
「ええ、分かっておりますよ」
アシヤもすうっとそのまま左側の部屋に消えていった。ふと、廊下を走る小さな足音がして澪は小さく首を傾げる。誰か他のお客さんがいるのだろうか。
まあ、居ても不思議では無いので特に気にとめず、澪は右の部屋の襖を閉じた。
湖から昇ってくる夜の冷えた空気に露天風呂の熱が沁みる。ほうっと空気が口から流れて落ちた。
「……綺麗ですねえ」
「おお! 思ったより近いんだね」
「……そうですねえ」
お湯がこぼれる音が聞こえる。そういえばアシヤが水に入る姿なんて全然想像出来ないかもしれない。海にも入ってなかったし、なんだか不思議だ。壁一枚隔てて向こうでお湯に浸かってるアシヤがいるなて。
「……先程の話ですが」
「ん?」
「……すみません。小生の、配慮不足でした。貴方からして見れば施しのように思ったかもしれないなんて……はは、いい大人ですが浮かれていたのやも知れません」
「あ……えと、気にしなくてもいいの。ただほら、負担になるのは嫌だなってだけ」
「すみません……」
湯気と共に夜闇に消えそうな声に思わず立ち上がる。
「アシヤ、私は」
「依頼人と一緒に過ごすのも、初めてではないのです。ただ……そうですね。貴方は小生にとって少し……少しだけ、特別なようです」
「は?」
鈍い音がした。顔が見えない。というか何を考えてるのか分からない。たった壁が一枚あるだけなのに、あのいつもの涼しい顔が見えないのがこんなにも不安に思うなんて。
「……貴方といるのは楽しい。そして何より、小生は貴方にこの暮らしを楽しんで欲しい」
吐き出すように言われた言葉に脳が停止する。
「……旅行が終わればきちんと考え直します。ですから、どうか此度の旅行だけは」
「アシヤ」
ゆっくりと座り直す。
「私はいつも楽しいよ。アシヤと会ってから、きっとこれ以上ないくらい楽しい」
「…………はい。ありがとうございます」
アシヤの言葉に目を閉じる。
トトトト、と軽やかな足音が部屋から去っていった。
「……ねえ、アシヤ。いい雰囲気のところゴメンなんだけどさ」
「ああ、はい」
「この部屋、なにかいない?」
露天風呂を早々に切り上げ、二人は中央の部屋に戻ってきた。辺りを調査してきたらしいアシヤはため息を着く。
「さすがですお嬢さん。見事な一本釣りでして」
「釣りたくて釣ったわけじゃないけどね」
「まあ、でしょうね。確かに何かいる痕跡があります。子どものようですね。ただ……先に説明して置かなかった私も悪いのですが実はこの旅館は特別でして」
「……なにが?」
「この旅館、実の所を言いますと妖の類が入ってこない特別な旅館なのです」
このような伝承がある。
肉体に呪詛を宿した術師がいた。彼の魂は他の何にも劣らず煌めいていたが、ある戦いの最中酷く消耗し魔の言葉に耳を貸してしまった。命からがら強烈な呪詛を操り限界を超えて怪異を抹殺した術師は旅館にて俗世の穢れを清めようと思った。
だがどれほどに彷徨えども男は同じ山道を彷徨うだけだった。
近くまで行けるのに、旅館の灯りが道を照らすのに、どれほどに足掻こうとも玄関の扉を叩くことが叶わない。数度繰り返し、男はやがて己の真実に気がついた。
男は、肉体だけでなく、あろうことか魂の一欠片さえも魔に魅入られて、落ちていたのだ。
その事実に気がついた男は遂に発狂し、四足で山道を駆け抜け麓の村で人に襲いかかった。己を殺す人間を憎み、望み、狂ったように泣き叫んだ。たまたま居合わせた蝶の巫女が躊躇いなく彼を殺す決断をした。彼は彼女に対して数時間に渡り己はまだ人に戻れると懇願し続けたのだ。
『……貴方を生かすことは簡単だ。幸いにもこの場には私の部下しかいない。一言私が命じれば貴方がここにいた痕跡さえなかったことになるだろう』
『それなら……!』
『だがそうなれば貴方はきっと一目散に妻子を殺しに行く。呪いとは、呪詛とは、そういうものだ。私から貴方に下せる慈悲は一つだけなんだ……ここまで人々の幸福のために貢献してくれた貴方の経歴を汚すことなく、人のまま殺すことだけなんだ』
男は静かに俯いた。その間巫女は決して拳銃の引き金から指を外すことは無かった。そうして遂に男は己の天命を悟った。男は物の怪へと落ちた四肢を合わせ、額を石畳に擦りつけたらしい。まるで、人のように。
『……殺して、ください。私を。私が、守るべき全てに手をかけるよりも前に』
「その術師はそうして死を乞い、巫女は慈悲を下しました。彼女は男を任務での事故死として処理をしたのです」
「……なんか悲しい話だね」
「よくある話です。とはいえこの話で大切なのはつまりそういった類のものはこの旅館には入れないという点です。可能性としてはふたつ。ひとつは……旅館自体からその効果が失われた魔境と化した場合。もうひとつは何かいる……の何かが怪異ではない、神の類である可能性です」
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