第漆幕 おぉい《下》
青い空。そして青い海。
そう、そこは完璧な海だった。
「海じゃー!!!」
「暑そうですね……」
「来る計画立てた本人がばててら」
ぐったりとしたアシヤは岩陰で膝を抱えて座っている。そういえばこの人暑いのが苦手だった。なんで海に来ようと思ったんだろ。海とかあからさまにめっちゃ暑いじゃん。
「おーい、アシヤー? だいじょぶそ?」
「ふふ……お嬢さん。早くも蜃気楼が見えているのですか?」
「目は節穴のおしゃんバージョンやめろ」
何はともあれ、海である。
人がそこそこいる中をキョロキョロと目線をさまよわせながら歩いていく。アシヤはぐったりとしたままだ。とは言え一応、高速をおりたところにあったショッピングモールで買ったビーチサンダルとパーカーと水着に着替えている辺り、こいつ結構楽しみにしているのでは?
「うう……お嬢さん、もう帰りましょう……なんで砂なのにベタベタするんですか。おかしいですよ……足、いえ、サンダルの中が心なしベタベタいたします」
「アシヤ……海初めてなの?」
「ええ、まあ……それこそ小生の家では水場での遊びは禁止でして。小生の家は代々術師です。そして術師も他の人に比べたら少ないですが魅入られることはしばし有り得ます」
ましてやアシヤの家系にはあれがある。
己の背中、浮かび上がっているはずの痣に思いを馳せながら目を細める。
「術師が呼び寄せたものは一般に他の人が魅入られた時よりもより強い災いを呼ぶことがありますから」
「……アシヤ。それ、来てよかったの?」
澪のジト目にアシヤはニッコリと笑った。
「ところで蚊は人が沢山いてもその中でよく噛まれやすい人の血液に寄っていくそうですね」
「私が囮ってこと!?」
全くもってそのつもりだったので、罰が悪くなったアシヤはさらに意味深に笑うのだった。誤魔化せてはいないが。
砂浜でアシヤはモタモタとテントを張っている。遊び場として定めたのはそれとなく人影が少ない、多少奥まったビーチだった。完全に見えない訳では無いものの、何かあった場合……例えば澪が何かを見てしまってもそう簡単にほかの人たちが巻き込まれることはなさそうな場所だ。
「ねー! アシヤー! こっちで砂のお城作るから見ててね! アシヤに超絶完璧な城見せるからさ!」
「分かっておりますとも。はしゃぎすぎて沖の方に行くのだけはやめなさい」
「はーい」
ざくざくと音を立てながら砂を積み上げていく。だが意外と思ったように形にならない。思えば城を作ったのは小学校の校庭の砂だった気がする。海の砂と質が違いすぎて作れない。
具体的に言うと砂浜の砂の方がさらさらしているのだ。いくらこちらに文明の力(シャベルとかバケツとか)がないとはいえ、作った端から壊れていくのはいただけない。だからといって水際で作ると昔の拷問みたいになる。つまり作った矢先から並にさらわれてしまうのだ。
「うぐぅん……」
さて、どうしたものか。
ぼんやりと見える崩壊寸前の城を前に首を捻る。とりあえず少しずつ水をかけつつ作るしかなさそう。
「あまり海に近づいてはいけませんよ」
「うーん、分かってるよー」
波の音に磯の香り。キラキラと太陽光を反射させて海面が宝石のように煌めいた。歩いた傍から澪の足跡さえも海にさらわれていく。足の裏を濡らす海水は少しぬるかった。
「おおし……」
砂浜に隠れた貝の欠片を踏んだりしないように慎重に少しずつ、足首に少し水が触れる辺りまで進み両手ですくうと走りながら戻って砂の山に水をかけた。
澪が遊んでいる所は満潮になってもまだ水には少し遠い場所だ。その為、辿り着く頃には両手から水が完全に滴り落ちていた。その為、数回往復を繰り返す。アシヤは完全に暑さにダウンしていた。
ある程度往復をこなし、多少砂山が濡れてきた頃だった。
「おぉい」
どこかから不意にかすれた声が聞こえてきた。空耳だろうか。神経を尖らせなければ聞き取れないような小さくかすれた声に顔を上げる。
「おぉい、助けてくれー。おぉーい」
聞き間違えでは無いし、空耳でもない。確かにそう聞こえた。そしてよく見れば海の方で黒い影が手を振っている。慌てて立ち上がった。影は言う。
「おぉい、こっちだ、こっちに来てくれえ。仲間が溺れちまったんだぁ。助けてくれぇ」
それは、大変だ。手を貸すべきだろう。
トラブルに陥った人というのは往々にして初歩的なことを忘れがちだ。溺れた人に手を差し伸べても大抵はどうにもできない。ましてや澪は小柄な少女だ。それならば戻って海難事故として連絡をすべきだろう。
だがそんなことは頭から吹き飛んでいた。
助けなければ。
ある種妄執のごとき正義感に突き動かされて澪は海中へ歩を進める。ざぶざぶと奥に向かって歩いていく。手を振る影は一向に近くならない。まずい。そんなに深くで溺れたのか。それなら――。
「お嬢さん! 何をしてるんですか!」
タオルを頭の上からかけられた。
「あ、アシヤ」
「こんなに深くまで来ては行けないと教えたはずです! もう少し深くまで行けば足を取られる深さなのですよ?! とにかく早く陸まで戻りましょう」
「う、うん……じゃなくて! 大変なんだよ、アシヤ! 沖の方で人が溺れてるんだ! すぐに助けないと死んじゃうんだよ!?」
こうしてはいられないと海に入ろうとする澪の腕をアシヤは握り締めた。その力に僅かな痛みが走るが、それに文句を言うよりも前に大きな溜め息が聞こえてきた。彼は、何故か酷くゲンナリしたような顔をしていた。
「人が、ねえ……全く、そういうところは普段は好ましいですが……はぁ……お嬢さん。その人影はどこにいるんですか?」
「え……? えと……ほら! あれだよ!」
水平線、確かに手を振る影を示す。だがふと、妙な感覚があった。なにかが可笑しい。水平線の上、腰より上の人影が腕を振っている。
「あの辺にいると? 馬鹿も休み休みにしなさい。どう考えてもあんなところ、水深が深すぎて足がつかないでしょう」
「あ……」
そうだ。既に澪は膝まで海水に浸かっているのに人影は親指の第一関節程の大きさしかない。そんなに遠いのに、一体どうやって彼は立っているのだろうか。まさか海底に足をつけていると?
「それに、それだけじゃありません。ほら、お嬢さん。貴女の純粋な瞳で周囲をよく観察してください」
タオルの隙間、水平線だと思っていたそれが、静かに腕を振っている。同じリズム、同じ速度で、腕を振っていた。光が煌めいたまたたきではない。あれは。
慌ててタオルを目深く被る。
「気が付きましたか?」
「う……うん……」
「ではそのまま、陸に戻りましょう。小生が手を引きますから」
波をかき分け、陸の方へ、陸の方へと歩いていく。
足にまとわりつく波はまるで水死体の手のように澪のくるぶしを撫でるばかりだ。ぎゅっ、と手を強く握り目を瞑る。だが目が閉じて見えなくなればより鮮明にその声が聞こえた。
「おおぃ……おぉい……こっちに来てくれー……溺れてるんだ……まだ溺れてるんだ……おぉい……一緒に行こう……おぉい」
「失礼」
声と共に体を持ち上げられた。不快だった水の感覚が足から遠のいたことに安堵を覚える。
「海はやめるべきでしたね」
「ううん。連れてきてくれて嬉しかったよ」
「無理をしなくても良いのですよ。貴女を無闇に怖い目に合わせるかもしれないと分かっていたはずなのですから」
だが連れてきたのは間違いなく澪だ。あれは……あれは澪に向けて声をかけていた。だからアシヤはいつものように気がつけなかったのだ。それが誰のせいなのか、分からないほどこの生活が短くはない。
「あれはところでなんなの?」
「うーん……ま、恐らくは溺死者の霊でしょう。死体が今も水底にあるせいで動けずにいるのです」
「急に怖い話するじゃん」
「聞いたのは貴方でしょう。海にさらわれた仏様は個人の判定が難しいそうです。それと同じ。彼らも己が誰なのか分からなくなってもまだ……仲間を呼びながらあの波間をさまようのです」
そう言ってアシヤは水平線に視線を投げた。思った通り、或いはその言葉のとおり、誰かを呼ぶように澪が去ってなお、亡霊達は波間で手招きをしていた。
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