第陸幕 祀り〈下〉

 一体どれほど歩いたのだろうか。

 下駄がからんころんと音を鳴らしている。祭囃子は遠くなり、祭りの喧騒さえどこか遠く、夢の果の出来事のようだ。澪の手を引くりゅうれんの手の温もりさえもどこか浮ついていて遠かった。

「ちょっ、まっ……近くにあるんじゃなかったの?」

「うん、近くだよ。あと少しで着くよ」

「あと少しってどれくらい……?」

「あと少しで着くよ」

 答えになっていない。歩き通しだからか、鼻緒が擦れて痛みが走る。だがりゅうれんは焦っているように早足で尚も進んでいた。


 ふと顔を上げると、階段の終わりが見えた。

 だがそこには提灯がかかっている。その提灯に見覚えがあった澪は足を止めた。

『あと、何があってもお祭りの間、最後の花火が上がるまでは境内から出ちゃダメだからね。誘われてもダメだよ?』

 誰かがそんなことを言っていた。そして澪の記憶が確かならば、あれは境内を区切るように張り巡らされている提灯だ。あそこから外は既に白国神社の境内ではない。


「りゅ、りゅうれんくん、ダメ、このままだと境内を出ちゃうんだけど!?」

「うん、そうだよ? だってお姉ちゃん、境内から出ないと遊べないんだよ?」

「境内から出ないと……遊べ……ない?」

 頭が揺れる。いや、視界が揺れているのか?

 ガンガンと揺さぶられるように痛む頭を抑えようとした手は、まるで子供の手のようにふっくらとしていて小さかった。

 ……そうだ。

 境内の中には入って来れないのだ。だから、いつも境内の外で遊んでいた。中に入ってくるのは連れてくるため……境界線を越えさせるんじゃダメで、あくまでも自分の力で超えないといけないから。そうじゃないと……そうじゃないと……。


「ほら、澪ちゃん」

 差し伸べられた手に顔を上げる。

「もう寂しくないよ。一緒に遊ぼ?」

「……うん!」

 そうだ。これでいい。これでいいんだ。これで寂しくない。

 帰ってこない両親の帰りを待ちぼうけする必要も、居場所のない家に変える必要も、転校ばかりで腫れ物に触れるように扱われる学校に行くこともなくていい。


 でも何か、大切なことを忘れている気がする。

 四本の、食べきれないチョコバナナ。苦手なのに炎天下で待ちぼうけになろうとも澪を待っていてくれる人。心配をしてくれる人が、いた気がして。


 子どもの手を取る寸前で軽やかな音が響いた。音に驚いて振り向く。それは帯から落ちた狐面……もとい狼面だった。澪の手は止まる。そのまま軽やかな足取りで数段降りた。

「澪ちゃん? 帰っちゃうの?」

「ううん。ちょっと待って。落ちちゃったの飾りが……」

 拾うために屈んでから、首を傾げた。

 狼面は恐ろしい般若のような形相を浮かべていた。誰かに貰った時はどっちかというと真顔だった気がするのに……それとも気のせいだったのだろうか。

 いや、それはない。

 だって怖いとは思わなかった。でも、それなら、この仮面は。


 ぶちぶち、と仮面の中央が勝手に盛り上がっていく。澪は手を引っ込めた。ひとりでに仮面が破け中から真っ白い影が飛び出した。

「え?」

 巨大なそれは澪をとびこえて、澪を誘う子供に食らいついていた。


「うあああああああ!!!」


 響くりゅうれんの声に腰を抜かして座り込む。何が起きたのか全くもって理解できない。狼が、面の中から出てきた。

 だがそれよりも信じ難い光景が目の前に拡がっていた。

 狼に食いちぎられたはずなのにりゅうれんは血液を一滴も流していないし、生きていた。

「……なに、これ」

「お、ねえ、ちゃ、ン、みお、チャ、ん、イコ、いこ、いこ」

 へし曲がった皮膚がぺちぺちと石畳を叩く音が響く。咄嗟に口を封じた。こぼれ落ちる汗の音さえ今は煩わしい。いや、そもそも、なんなのだあれは。あれは、なんなんだ。

 血が吹き出すべき場所、骨が見えるべき場所、肉が見えるべき場所は無限の奈落が詰まっている。目ももはや虚ろで、自分が何について行こうとしていたのか嫌でも理解させられた。


 澪がこの場で取るべき行動は逃避だ。一方で背を向ければ一瞬で喰らわれそうな気配がある。汗が滲む額と飲み込みがたい悲鳴を辛うじて飲み干して、その隙を伺う。大丈夫。こういうことは以前もあった。

 だから、と勇気を振り絞った澪の鼓膜をある音が揺らした。

 からん、ころん、という下駄の音。

 指先が強ばる。口を抑える手は震え、真冬のように冷たくなっていく。背後から、何かがくる。なんだろうか。下駄を履いた怪物だろうか。以前墓地で大量の足が生えた化け物を見たのを思い出した。あれは全ての足に下駄を履いていた。その後、それが着いて言った人の家の墓に卒塔婆がひとつ増えていた。

 体を小さくする。助けて。助けて欲しい。助けて。助けて――アシヤ。


「急急如律令」

「!?」

 ぼうっと炎が空間を焼いた。澪は弾かれたように顔を上げる。

 暗闇の中、銀髪を揺らして術師は札を更に補填する。

「全く……祭事の最中、しかも白国の主の神域において若い命に手を出すなんて……大した度胸をお持ちのようだ。或いは大して強くもないから思い上がるのでしょうか」


 アシヤだ。

 アシヤだった。

 彼は袖で口元を隠しつつ、澪とそれの間に割って入った。

「お嬢さん。話なら後で聞きますので……あと三段ほど後ろに下がれますか?」

「え? う、うん」

「よろしい。ではゆっくり。ですが目を逸らさずに後退してください。大丈夫です――マヌケていたおかげでどうにかできそうですから」

 白銀の巨大な狼は尚もそれの体を噛み締めて押さえ付けている。少なくとも走ってきたりするような様子は無さそうだ。


 一段。足が石畳の砂利を踏みしめた音でさえ心臓が高鳴る。

 白狼は顔を僅かに顰め強い力でならざるそれを踏み付けた。


 二段。アシヤは決してならざる者から目を逸らさない。

 それは暴れる力を強めている。身を捩り、抵抗しながら何かを必死に叫んでいる。澪にはそれが、命の抵抗には見えなかった。


 三段。アシヤが御札を襟元から抜いた。ならざる者は体を捩り、遂に白狼は彼を抑えることが叶わずに突き飛ばされる。

「うあ!!」

 伸びてきた無数の手がアシヤの前にある見えない壁に激突して止まった。それは手を伸ばすように、見えない壁を必死に押している。


 結界。

 高潔にして穢れを知らぬ神域を守り区切り定めるモノ。

 それにならざる者は阻まれている。アシヤと澪が無事であるのを確認すると、白狼は己の居場所を告げるように高らかと遠吠えを告げた。


 白狼の叫び声は宵闇に解けていく。アシヤはふっと安心したように微笑んだ。まるで既に舞台は結びに差し掛かっていると告げるかのように。

「とはいえここに連れてきてくれたことには感謝しかありません――神主の目がある展望台から最もよく見える高台に獲物を誘き寄せるなんて、マヌケにも程があるではありませんか」

「え?」


 アシヤの真意を正すよりも前、不意にならざる者の体に穴が開いた。身体を維持することさえ叶わずに、それは黒い液体となって地面に溶けていく。

 一瞬だった。

 何が起こったのか、何があったのか、果たして初見で誰が見分けることができるのだろうか。子どもだったそれは、跡形もなく消え、後にはただ長い石畳だけが残っていた。


「ほら、お嬢さん」

「あ、アシヤ、ありがとう……」

 差し出された手を頼り、どこかふらつきながら立ち上がる。ふと、はぐれてしまった時はあれほどに冷たくなっていたはずの手がアシヤの手よりも熱くなっていることに気がついた。

 ……或いは涼しい顔をしているが彼の方が切羽詰まっているのかもしれないが。


「全く、どこに行っていたのですか。あれほどはぐれるといけないからとご忠告をいたしたでしょうに」

「いや、どこかいってたのはアシヤの方だよ」

「は?」

 思い切り不愉快そうな顔をしたアシヤだが、残念ながら本当にはぐれたのはアシヤの方である。なにせ人混みで澪を見失ったのはアシヤなのだから。つまり譲るつもりは無い。

 怒るだろうか、と思いつつ頑固な態度をとっていると不意にアシヤはふっと笑った。

「アシヤ……?」

「いえ、そうですね……今回は小生が悪い、ということにしておきましょう。そう、そうですか。はぐれたのは小生……」

「え、何、怒ってる……?」

「いえいえまさか。ただ……そうですね。祭りの気に当てられたようです」


 なんだそれは。

 だがアシヤは妙に嬉しそうで、それ以上口を挟むような必要は無いようだった。

「しかしさすがお嬢さんですな。まさか堕ちた土地神を釣るとは。そろそろ太公望を名乗ってはいかがです?」

「タイコーボーさんがどなたか存じ上げないけどバカにされてることだけは今ハッキリとわかった」

「まさか。褒めておりますとも」

「どうだか」

 しまってあったチョコバナナの袋を剥いて、アシヤの口にぶち込む。反論しようとした瞬間、周囲が不意に明るくなった。


 宵闇に大輪の花が咲く。その光がアシヤと澪を照らしたのだった。

「……花火。こんな近くで見たの初めてかも」

「花火大会にも行ったことがなかったのですか?」

「いやぁ、ほら、暗いところは危ないからね」

 花火が上がる。ひとつ、ふたつ、みっつ。大輪の花が綻ぶ。赤と金と、無数の火の花がきらきらと。


「お嬢さん」

「ん?」

 赤い光に照らされて、澪が振り向く。

 いっその事、このまま世界が終わればいい。アシヤは疼く気持ちを抑えるように手を抑えた。

「……楽しいですか?」

「うん、勿論!」

「……私も……小生も、とても楽しいです」

 その言葉に澪は花火に負けないような笑みを浮かべた。

 美しい夏の夜だった。

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