第呉幕 人の口に戸は立たず

 広間には沈黙が横たわっていた。部屋の中には男がふたり。

 片方はこの世の全ての栄華と叡智を手にし、その姿を眩ませて隠居をしていたはずの賢者であった。そしてもう片方は時の為政者を呪い殺さんとし、失敗して一族郎党処刑されたはずの男だった。

 そうだ。呪い、殺そうとした。

 例えそれが浅慮だとしても、貶められていく名を前に我慢ならなかった。男は神に誓った。この世の全てを殺したとしても我が名を貶めた全ての者を殺すと。


 その結果が、今、目の前にあった。

 賢者は愉悦を滲ませた表情でひとつの椀を男の前に置いた。男はますます恐縮して平伏する。

「法師陰陽師よ」

「……はい」

「呑め」

 告げられたのは、ただの一言だった。

 手は、少しも動かない。椀を満たしているのは呪いだ。呪い、怨念、怪異。この世ならざるもので満たされたそれはただ静かにそこにあった。

「呑め、陰陽師。貴様の呪いがいずれ、かの煩わしい狐の一族を呪い殺す。貴様の復讐のために……なにより貴様の大切な家族のために、貴様はこれより先の全ての子孫の命をワシに捧げよ」


*****


「………………ゆめ」

「あ、アシヤ、起きた?」

 掠れた声が聞こえてソファに飛び乗った。アシヤのビー玉のような薄水色の瞳がこちらを見る。

「おはよう、アシヤ」

「……? おはようございます、お嬢さん……小生は」

「ずっと寝てたんだよ? 心配してたんだからね」

 アシヤはしばらく瞬きを繰り返していた。それからぎょっとしたように目を見開く。


「お嬢さん!? いつからここに!?」

「ん? 学校終わってから。昨日具合悪そうだったから来てみたら案の定倒れてたし。心配させないでよ」

「それはこちらのセリフですが!? というか今すぐ帰る支度をなさい。それから明日は来なくてよろしい」

「なんで?」

 大人しく帰り支度を始めながら聞き返す。そもそもアシヤに言われるまでもなく、夕方までには帰るつもりだった。四時半のあのチャイムがなる頃合に出歩いていると大抵ろくでもない目に遭うのだ。


「……式神を出して疲れました。明日と明後日は店は畳んでます。貴女も……ああ、貴女の体質改善に協力できないので後ほど一部依頼金を返金致しますね」

「いやいや、そんな気にしないでよ。そもそも半ば諦めてたし、それに私は過程よりも結果を重視するんだ。最終的に治してくれるならなんでもいいよ」

「お嬢さんに気を使わせてしまうとは……申し訳がたちませんね。何、明明後日には体調も戻っているはずです。元気になった時にお会いしましょう」

 ローファーの踵を治し、うん、とアシヤに返す。思ったよりも弱っているみたいだ。……彼をここに残していくのは心配だが、澪も帰らない訳にも行かない。今日は毎週何度かある養父母への電話での報告の日だ。それにアシヤも女の子を家に泊めるつもりは無いだろう。


「じゃあね、アシヤ。お大事に」

「……はい、お嬢さんも。三日の間に死なぬようお気をつけくだされ!」

「縁起でもない事を別れ際に言うな!!」

 彼女の足音が遠ざかっていく。アシヤはその事に安堵と共に息を吐いた。そして開けっ放しにしていたシャッターを下ろすことにしたのだった。


*****


 彼女の足音が遠ざかってからどれくらいの時間が経っただろうか。不意にアシヤの耳にチャイムの音が聞こえた。表のシャッターを叩く音ではない。

 アシヤが店を構えているテナントは裏手側が居住区になっているビルだ。より正確にいうと最近、澪というバイトが入って改修工事をしキッチンや仮眠室などをリフォームしたのだが。それまでは必要なかったので壊れたままにしてあった……のだが、ユキにそのことを見抜かれ説教された挙句に遠出をしている間に勝手にリフォームされたらしい。彼女は自由人か?


 なので、それは妙な事だった。

 澪は裏手に居住区用の出入口を使わない。彼女は客でもあるので必ず表から入ってくるように言っているのだ。ユキも用がなければ来るタイプでは無いし、彼女の性格的に緊急事態が起こった時に悠長にチャイムを押しているようなタイプでもない。もう一人、アシヤの居住区に訪れそうな人物は……生憎様、最近行方不明だと聞いている。


 気怠い体に力を入れ立ち上がる。肩から結わえもしていない水晶のような色抜けの髪がはらりはらりと落ちた。


 玄関まで廊下には光がついていなかった。電気をつけようとしてアシヤは手を止める。そしてそのまま廊下を進んだ。

 床の、軋む音がやけに大きく聞こえる。それからコンコンコンとノックする音とチャイムの音が響いていた。


 五分も必要とせずに玄関の前に辿り着いた。しばらく悩んでから、アシヤは「はい」と扉の向こうに声をかける。

「あ、アシヤ? もう、聞こえてたなら早く返事してよ」

 扉の向こうから聞こえてきたのは軽やかな澪の声だった。アシヤは両手を組んだままドアノブに手をかけることなく口を開く。


「……『お嬢さん』ですか?」

「うん。そうだよ。何、アシヤ。どうかした? 寝ぼけてるの?」

「いえ。珍しいな、と思いまして。向こう側のシャッターが開いていたのですから、向こうから入ってくればよかったでしょうに」

「え? そうなの?」

 彼女は一瞬黙る。だがすぐに叫んだ。

「嘘じゃん!! めっちゃシャッター閉まってるんだけど!?」

「おや、そういえば確かに寝る前に戸締りをいたしましたね。失敬。どうやら本当に寝ぼけていたようですねえ」

「もう……」

「それで、如何致しましたかな? 我が家に何か用で?」

「あー……それがさ、忘れ物しちゃって。だから開けてくれない?」

 彼女の声に黙っていると着流しにしまってあったスマホが震えた。アシヤは懐の中で画面をつけ、届いたメッセージに目を通すとふっと安堵の息を吐いた。


「え、なに、アシヤ。なんかいいことあったの?」

 扉の向こうから彼女がそう言う。

「ええ、はい。巫女様から先の依頼の振込をしておいたとの連絡が。あんなに大変な任務でしたからね。多少、色をつけておいたそうです」

「へえ、そうなんだ」

 平たんで能面のような返事だった。どうやら興味のない話題だったらしい。アシヤは素早いフリックで返信を送る。


「ところでお嬢さん。貴女、いつまで入ってこないのですかな? そんな小生なぞに気を使わずともよろしい。小生と貴女の仲ではありませぬか」

「いやあ……そうしたいのは山々なんだけど……そのー、怒らない?」

「おかしな事を聞きますな。小生がお嬢さんを怒ったことが一度でもありましたかな?」

「いやあ……それが鍵を忘れちゃって」

「ふうん、鍵を」


 つまらないな。

 そう思った。つまらない。面白くない。楽しくない。


 アシヤは面白いことが好きだ。楽しいことが好きだ。どうせ生きてもろくな事にならないのならば一秒一分楽しんだ者勝ちに決まってるだろう。だと言うのに。

「そんなお嬢さんにいいことを教えましょう」

「え、何?」

「扉、開いてますよ?」

「…………………………」


 彼女は黙った。夜の独特な静寂が横たわる。鳴り響く音や光さえ吸い込むような闇夜の中で、己の呼吸の音だけが響く。高まっていく緊張感と発汗にアシヤは検討違いな興奮を覚えていた。それが緊張感と恐怖の入り交じった興奮であると陰陽師は知らない。彼にとって怪異とは恐れるべきものでは無い。その前提が可能性について盲目にさせた。


「……………………アシヤ」

 扉の向こうから再度声が響く。

「はい、なんですか?」

「あけて」

 感情が一切ない、能面じみた声が言う。それはさながらよくできた人工音声のようだった。もっとも猿真似に過ぎない訳だが。扉の向こうのそれがとんとん、と扉を叩く。

「ですから鍵は開いておりますよ」

「あけて」

「開いているものをどう開ければ良いのでしょうか。はてさて」

「あけて」

「あけて」


 扉を叩く。鍵が開いているという事実の指摘はどうやら招き入れには該当していないらしい。それはそうだろう。家主自ら開けて招き入れなければ意味が無い。ドアノブが回る。鍵が開いているはずなのにドアノブはただガチャガチャと音を立てるだけだ。


「あけて」トントンというノックを前にアシヤは数歩たじろいだ。「あーしーやぁあああああ。あーけーてー」大きな声が響く。「あけてあけてあけてあけてあけて」なりふりを構ってられないのだろう。「開けてーーー」チャイムの音が響く。「あーーーけーーーてーー」何度も何度も何度も「あけてあけてあけてあけてあけて」声は叫ぶ。叫んでいる。


「あけて」「あーけーてぇぇええええ」「あしや、あけて、あけてあけて」「アケテ」「あけろ」「あーーーーしーーーーーやーーーーー」「あけて」「あけて」「あけてあけて」「あけて」「アシヤ、鍵忘れちゃって」「忘れ物があるんだ」「しまってるじゃぁあああけてええええ???」「あけて」「アケロ」「あーけーてええ??」


そこかしこから響く、無数の『彼女』の声に、アシヤは口元を覆った。己の口元が愉悦に歪んでいるのか、はたまた嫌悪で歪んでるのか、アシヤはどうでもよかった。


「わかりました」

「……」

 声が不意に止む。音も、完全に止まった。アシヤは口を開く。


「『どうぞ。お入りください』」


 静寂。それから、やがてひとりでにドアノブがまわり、ギィっと音をたてながら扉が開いた。扉の外は宵闇が広がっていた。誰も立っていない。音さえ飲み込む暗闇が、どこまでも、どこまでも広がっていた。そして。

 暴風と共に得体の知れないものが勢いよく這い上がってくる。アシヤはその気配に口角を上げた。彼の口が勢いよく裂けていく。それは正しく怪異。鋭い牙が並ぶ口が開かれて、それを見たなにかは何を思ったのだろうか。


 床に飛び散る黒い血液のようなもの。暗い廊下の真ん中で深紅の瞳が瞬きをしながら床に倒れている何かを両手で掴んで咀嚼している。その水の音を響かせながら――遂に、扉は閉まった。


 後に残るのは静寂ばかりだった。

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