第肆幕 『縺翫>縺ァ』《下》

 アシヤは即座に距離を取った。その瞬間、目の前の影から濡れた髪が伸びてくる。

「急急如律令――!」

「縺翫>縺ァ」

 ノイズのかかったような女性とも男性ともつかない声が何かを告げただけで護符の方が燃えた。壁一面に書かれた血の文字はミルナと記されていた。

 護符を交わした髪が体を縛り付ける。

「ッ……怨霊風情が私を謀ったのか!! 術の使える小生を封じれば万事うまくいくとでも思っておるのかァ!」

「縺翫>縺ァ」

 とはいえ両手を封じられては万策つきたのも事実である。その事が腹立つ。両足、体と纏わりつく怨念に反吐が出る。

(……いえ、ひとつありますね)

 アシヤはまだ空に浮かべたままの光源を見つめてある手を思い付いた。


***


 民家の雰囲気が変貌したのに気が付いたのは澪も同じだった。うまくは言えないが、身の毛もよだつというのはこういうのを言うのではないだろうか。

 玄関に行こうかと立ち上がった瞬間、廊下の奥に二つの光が輝いていた。それはキラキラと輝く石のようだ。そうだ、あれは。

「…………猫?」

 なぉ、と呑気な鳴き声に澪は立ち上がった。

 明らかに廊下の奥の方はなんだかヤバイ。そういう不思議な出来事が沢山起こる澪ですらヤバイと肌で分かるほどだ。

「猫ちゃん、ダメ、こっちに」

 追いかけようと数歩歩いたところでふと、思った。


 あの猫は、どこから入ってきたんだ?


 振り向こうとしたのに身体が動かなかった。こう言うのはよく分かる。。振り向いてはいけないから、身体の方が分かっているから。


 耳元で熱を持った吐息を感じる。その音が聞こえる。冷たい冷たい手がそっと首の後ろから伸びてくる。それは白くて。だけど視線は廊下の奥に釘付けにされていた。


 廊下の奥にある。

 あるんだ。

 だって、廊下の木目の板が赤く染まって、いる。


「縺翫>縺ァ」

 優しい女の人の声だった。もうそれは耳元にいた。

 それから自分の末路を夢想する。分からないはずがない。この廊下の先にあるんだ。


 ――遺体の、山が。


 腰から力が抜けて座り込んだ。後ろに何がいるのかは、できれば考えたくない。逃げたいが玄関の方に彼女が立っている。行けるのは廊下の奥だけだ。でももう後ろにいるのにどこに逃げるんだ。分からない。分からないけれど、怖い。

 自分はどう死ぬのだろうか。想像がつかない。

 死ぬことだけが決まっている。居間から声はしない。音もしない。凍てついてもうどうしようもない喉に無理矢理息を通す。

「あ……し、や…………」

 乾いた喉から出た情けない声に場違いに笑いそうになった。それからふと思い出したおまじないの組紐を強く握りしめる。彼の声が、耳元で聞こえる。

『数字が大きくなるにつれ恐怖が薄れて喜びが増していく』


 一。

 なにかが手を伸ばしてくるのが分かる。


 二。

 猫はいない。


 三。

 なにも起こらない。


 四。

 居間は変わらず静かだ。


 五。

 誰か来てくれ。


 六。

 あの冷たい手が喉に触れた。


 七。

 シを思い出す。


 八。

 死にたくない。


 九。

 恐怖を今捨て去って、ただ祈る。


 十。

 ――助けてほしい。


 居間の前の壁が粉砕された。その衝撃波が収まると澪は恐る恐る目を開いた。目の前にいたのは白の混ざった大きな獣、だった。

 上半身は白い狐のようで、下半身は蛇や龍を思わせるぬらりとした青い鱗で覆われている。長い爪が床をしっかりと掴んでいた。腕は鳥のようで、足は猫のようだ。実に、不思議な見た目をしている。

 澪よりも遥かに大きい獣の上にいるのは髪が乱れたアシヤだった。口元を着物で覆っている。

「……アシヤ?」

「助かりました。お陰で護摩を焚く等と言う坊主の真似事をせずにすみまして。ええ」

 埃を叩きながらアシヤは大袈裟に溜め息をついた。

「全く、してやられましたな。小生を封じてお嬢さんを襲うなど、実に面白くない」

「えっと、その子は?」

「小生の式神の……痛い痛い。尾が当たっております故、やめていただけませぬか?」

 ぐるる、と重低音でその式神が唸った。どうやら今のアシヤの台詞のなにかが気にくわなかったらしい。式神は纏わりついていた黒い髪の毛を払いながら前に進む。


「この家の主が貴方になにかをしたのか、或いは貴方がこの家に流れ着いたのかはどうでもよいことです。ええ、知らずともよろしい。興味の欠片もない。ただこれ以上何かされるのは実に厄介ですからね」

 扇子を彼は開いた。心底飽きたと言うように彼は告げる。それはいつも通りのアシヤだ。

「見てはならない呪い。見ることがトリガーとなり追いかけてくる呪いならば、ええ……ここいらで喰らうのが良いでしょうな」

 長い髪が式神に向かって伸びた。それを鳥のような鍵爪が絡み取り思い切り引っ張る。そして。

「おっと、ここまでにございます」

 ……視界が袖に塞がれた。


 視界の外ではなんか骨の折れる音とかが響いているのでなんと言うかそんなに意味がない気もするが。にこにこと変わらずたおやかに微笑んでいるアシヤをじと目で見上げる。

「無事だったならなんか言えば良かったじゃん」

「いえ、壁に打ち付けられたりしたので傷まみれにございます」

「……なんの音もしなかったけど」

「無音になる術式が張られておりまして。どうにもここ自体がそういう構造……内側で何がおきてるか分からずに誘われるような構造になっておりますれば」

 誘われた人物が次の罠となるのだ。

「他の部屋も確認したところ、首を吊ってる幻影の見える寝室やなにかが立っているように見える寝室などがございました」


 見るということは観測するということだ。

 観測するということは実在するということだ。

 即ち、それ自体が証明になる。


 するりと開いた扉から出て車に乗っているとすぐにアシヤがやってきた。着物を着替えてから来るといっていたのに、先程よりもぐちゃぐちゃになっているのは何故なのか。ほどけた髪を手櫛で整えつつ、血塗れの襟を正している。

「……さっきよりも汚れてない?」

「ふふふ、何故でしょうね。式神が暴れたからでしょうか」

 半紙を取り出すとなにかを綴り鳥の形に折って空に放った。それと同時に車のシートにその身を投げ出す。びっしょりと汗が吹き出していた。慌ててタオルを取り出し手渡せば彼は微笑んだ。

「これで、仕事は終わりです」

「その、お疲れ様」

「いえいえ。冷静に考えれば確か邦画にこのような題のものがございましたね。確か……そう、呪いのビデオでしたかな」

「あー、あるね。私怖くて見たこと無いけど」

 確かにあったはずだ。

「アシヤはああいうの平気なの?」

「まさか。最も苦手にございます」

 何故、と思わず見返した。

 アシヤは陰陽師だろう、と言わんばかりの眼力で見る。


 アシヤは本気で嫌そうに口元を覆って隠している。

 こいつがこれをしてる時は笑っているか本気でいやがってるかのどちらかだ。彼は、仕方なくと言った様子で答えを告げた。

「……本職の力が及ばない悪霊など、たちの悪いジョークのようなものではございませぬか」

 なるほど。

 それは確かに――言い得て妙、と言うやつだ。


 後日、依頼人からかの民家の依頼達成の感謝の言葉とその顛末について書かれた手紙が送られてきた。

 あの家は妖術を極めるための一族の隠れ家だったらしく、まだ幼い娘に半ば拷問のような形で術を施し、結果的にそのようなことが起こったらしい。

 被害者は全員死亡が確認された為、その事実は今度こそ完全なる闇の中に消えたそうだ。

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