第肆幕 『縺翫>縺ァ』《上》
世の中には見てはいけないし聞いてはいけない、話してもいけないと言うものがある。行動が何かの恐怖のトリガーになると言うのは良くある話だ。
その行動をしてしまった地点でアウト、と言うものだ。その行動を媒介に、その恐怖は増殖し、現実を汚染し、破壊する。
アシヤと澪がやって来たのは一軒の民家だった。
古い木造建築の家の庭は雑草に覆われており、もう人がいなくなってから何年も経過していることが見て取れた。
「……きな臭いですね」
玄関に貼られた、千切られた護符を手にアシヤはぼやく。きな臭い。全くだ。
それは見たことのない護符だ。少なくともアシヤが売りさばいたり、かの安倍家の作成したものでもない。奇妙な曼荼羅模様が記されたそれは嫌な匂いがする。
「ねえ、アシヤ……帰った方がいいんじゃない? ここなんか、その、変な臭いがする」
「ええ、そうでございますね」
すえた臭いがするのだ。
物の腐った臭いがする。妖術の臭いがする。好ましくない。好ましくない臭いだ。おまけに誘うように玄関の扉がほんの僅かに開いている。
好奇心は猫を殺す、と言うが。
これはまさにそう言う罠だ。僅かに開いた扉が好奇心を誘惑している。
だが一番嫌なのはこの状況だ。この状況で、どう見ても罠であるこの民家の扉に手をかけなければいけないのが一番嫌だ。どうしても失踪の理由を探るにはこの扉を開いて、中に入る必要がある。
「……お嬢さん……だけが外で待っている訳にはいきませんね。そのせいでイレギュラーが起きて貴女を喪うのだけは避けたい」
「つまり一緒にいけってことか。分かった。代わりにその……手を繋いでてもいい?」
「ええ。むしろ決して離さないでください」
車から降りて羽織姿に着替えたアシヤの羽織とアシヤの手を掴んだ。彼は、がらりと引戸を引いた。
なんてことのない一軒屋だ。ながいながい廊下の奥が見えない、ただの一軒屋だ。奥の方の闇の奥に何があるのかを見定めようとして目を細める。
何かが揺らめいている。
ゆらりゆらりとゆれている。
うえに、したに、おいでおいでおいでと。
そう。おいで。
「……お嬢さん? 何かありましたか?」
「あ、ううん、なんでもない」
後ろに違和感があって振り向くが、そこには入ろうとした時に見たのと同様、僅かに開いたままの扉があるだけだ。
「…………扉は開けっぱなしで」
「え?」
閉まっている。
僅かにすきま風が吹き込むだけの、世界が僅かに覗くだけの隙間だけが開いている。てっきりアシヤが閉めたのかと思っていた澪は驚いて見上げた。
「……私は、断じて閉めておりませぬ」
「あ、アシヤ」
「お嬢さん」
アシヤの細長い指が澪の手をそっと包み込む。
「怖いですか?」
頷くとなるほど、と彼は告げた。
日が上っていくのに薄暗い室内でアシヤの髪だけが光輝いている。
「では、少しだけ。あまり意味のあるのもではございませんが……気休め程度にはなりますが。では、ゆっくり息を吸って……はいて……小生の声に耳を傾けてください」
彼の声が道標のようにゆれる。その声にあわせて息を吸う。
「私とのドライブは楽しかったですか?」
「……うん」
「学校は?」
「疲れるけど、まあ、楽しいかな」
「楽しいことはいつも貴女のそばにあります。それは過ぎても終わっても胸の中に蓄積していくものです。貴女は十数えるとその感覚を思い出します。数字が大きくなるにつれ恐怖が薄れて喜びが増していく。ではいきますよう?」
しっとりと濡れた声が一から二に、二から三に増えていく。胸に温もりが戻ってくる。
「八……九……十。どうですかな?」
「ん、ちょっとは、ましになったかも」
「よろしい。ゆっくり奥に進みましょう。こうなれば理由を解明できるまでは出ない方がよろしいでしょうからな……さて。間取りですが」
彼は懐から紙を取り出した。依頼人から支給された資料の一枚だ。この家の間取りが書かれている。家自体は既に土地ごと強制買い取りがされているらしい。
間取り自体は辺り差し障りのない民家と同じだ。居間と寝室が二つ。キッチン、浴室、お手洗い、と言った感じだ。入ってすぐ、目の前に見えるのが居間へと続く扉だろう。
それを囲むように廊下があり、更に右手側に寝室二つ、奥に浴室と手洗いがある。
(いえ、一部屋、物置があるようですね……ですがそれを含めても迷ったり出れなくなったりするような間取りではない)
加えて妙な妖術の香りがするものの、惑わせるような術が施されている訳ではない。そうなると何故帰ってこないのかが疑問だ。
「……まあ、疑っても仕方がありませんね。取り敢えずお嬢さんにこれを」
「それは?」
手首にかけられている組ヒモを外して澪の手の上に置いた。特別な組ヒモだ。アシヤの髪と同じ色の紐でできた特別製である。
「もし本当に恐ろしいことが起きたら、これを握ってさっきと同じように十数えてください。目を閉じて本気で祈れば何かあるかもしれません」
「雑な説明」
「あと式神を一枚つけておきます。こちらも私と同じくらいはやれますので御安心を」
「……すごいVIP待遇では? て言うかそんなに私につけてアシヤの方が平気なの」
「私は平気です。これでも手も足も出ないのは安倍家の……いえ、なんでもございませぬ。少なくともほんのそこいらの雑魚には負けませんから」
「ダメじゃん。負ける相手いるのダメじゃんよ!!」
アシヤはその言葉に口元を袖で隠した。
大丈夫だ。負ける相手は最近行方が分からないらしい。元からふらふらしているところもあるのでそう言うことだろう。
とにもかくにも、彼女を居間にいれるのは危険な気がする。居間から漂う臭気は妖しく艶やかだ。常人が耐えられるような臭気ではない。
「私は居間を見てみます。ここでお待ちいただくか、比較的安全そうな客間の方を見ていただくか」
「……うーん、じゃあここにいるよ」
「畏まりました。では」
扉を開き中に踏み入れたアシヤを出迎えたのは鼻につくすえた匂いだった。慣れたと思ったそれが濃くなり思わず口元を覆う。
部屋の中は昼間だと言うのに薄暗かった。
もう一歩踏み出すのも覚束無いほどに薄暗かった。
部屋の中は散乱している。下駄をはいたまま上がってきてよかったと思ったほどだ。床の上には無数の空き缶が転がり、座布団が吹き飛んでいる。
蝋と書かれた護符をちぎれば簡易光源が現れる。それを浮かしたまま探索を行う。
部屋自体は一般的な居間の広さと同じだ。
まるで強盗でも入ったかのような荒れ具合だ。
「ですが術の痕跡は無い……? そんな馬鹿な」
ふと、壁に何かが書かれていることに気がついた。
若葉色の壁紙に、赤い液体……血液であると思われるもの……で何かが書かれている。灯りを近付けて観察しようとした時だった。
後ろでジジッ、と電子機器のノイズが響いた。振り向けば暗闇の中でテレビが光っている。
それはさっきまで暗かった部屋の中を仄かに照らし出した。妙だ。変だ。だってさっきまで、いや、そもそも。
「…………この家に電気は流れていないはずです」
もう半年近く無人だと言う記録が脳裏を掠めた。
テレビの映像が鮮明になる。それは数十年前に廃れたと思われたアナログテレビだ。
知ると言うことは証明だ。
観測とは証明だ。証明とは存在の実証にして存在の裏付け、無いものをあることにするために人々は闇を無垢を黒を観測人間の持ちうる全てをもて闇に何もないことを証明せんと足掻き続け闇しかないことを知ろうと必死になり続けたのだから。ならば逆のことが起こったのならばどうするのか。闇の中に何があるかを知ってしまったら、つくって教えて広めてしまったらそれは害を持つのか有害なのか。
ならば答えは、是だ。
是、だ。
嫌な汗が全身を濡らしている。無理矢理呼吸をしながらアシヤはしゃがみこんだ。慣れていなければ吐瀉物を撒き散らしていただろう。必死に酸素を取り込む。見たものを反芻する余裕はない。
あれがどういう『代物』であろうとも最早手遅れだ。
「……これは、ミテは、いけなかった。見ていいものではなかった。失踪? するはずです、これを見てしないはずがありません。これは……」
言葉が止まった。
目の前にある影と、それと同時に浮かび上がった警句に、アシヤは言葉を無くした。
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