1 覚醒《めざめ》III breakdown

1-3 こわれたこころ

「まったく!大した怪我が無さそうで本っ当に良かった。事故の話を聞いた時はゾッとしたわ。まぁ、断片的に聞こえてきてる現場の話を繋げる限り、おおよその想像はついてはいるけど・・・その右手の包帯は大丈夫なの?。とにかく、昨日起こった事を詳しく教えて頂戴、神ノ木 翔!」

 翔と詩織が生徒会室に入るや否や、待ち構えていた恵が凄い剣幕で詰め寄って来る。これはクールな方では無い事は間違いなさそうだ。

「あははは、あのー九条、さん?そんなにプンプンするとお肌に・・・」

「は・や・く・お・し・え・な・さ・い」

 恵がさらに詰め寄る。

「はいぃっ、んでもオレもまだうまく整理できてなくって、それから近い、、です・・・」

「んっと、じゃぁまずは私から〜」

 と詩織がピッと手を挙げる。

「え〜昨日は、翔が頭の整理をするのにどうしても甘いものが食べたいって言うからスイーツ食べに付き合ってあげて、その帰りに、交差点でバイバイした後、横断歩道を渡ろうとしたら、凄いスピードでトラックが突っ込んで来てて。『あ、やばい』って思ったんだけどもう声も出なくって、足もすくんじゃって動けなくなって、思わず目をギュッてつぶったんだけど、暫く何もなくって、、、あれ?って思って恐る恐る目を開けたら・・・翔の顔を見上げてた。私、抱えられてた?・・・以上、天ノ川 詩織からのご報告でした。翔のおかげで助かったー、絶対ダメだと思ったもん。ありがとね翔っ」

 詩織が改めて翔の方を向き笑顔を見せる。

「スイーツの件はとりあえず置いておくとして、まぁ、事実関係については今詩織が話した内容で概ねあってる、と思う。ほんと訳の分からない体験だった。どう考えても間に合うはずのない距離だったはずなのに・・・でもとにかく必死で、自分でもその間の事はよく覚えてなくって・・・怪我も、右手の甲にちょっとした火傷をしただけで済んだんだけど、母親が何だか大袈裟に包帯なんてしちゃったもんだから、、、少しズキズキするぐらいで全然大したことは無いって言ったんだけど・・・ははは」

 昨日のことを思い返すようにゆっくりと翔が切り出し、ぐるぐる巻きにされた右手を前に出して見せたが、不意に我にかえり、口元に手をやる。

「そういえば・・・あの時・・・声が・・・」

「声が?聞こえたのね?」

 恵がぐっと乗り出してくる。

「確か・・・『息を吐け』って・・・」

「そう言ったのね?で、どんな声だったの?」

「どんなって・・・男の・・・男の声だった。妙に反響しちゃってて聞き取りづらかったけど、『大きく息を吐け』って」

「それで?」

「その言葉を聞いた時には無意識に息を吐いてて・・・そしたら全身が、こう、何ていうか、ざわっとして、重く、いや軽く?そこからはほとんど覚えてないんだけど・・・」

「気付いたら詩織を抱えてたって訳ね?それで、その声は他に何か言わなかったの?」

「なんせ聞こえづらかったからなんともだけど、多分それだけだったと思う・・・」

「そう・・・まぁ、声が聞こえただけでもとりあえずは充分よ、意外と早かったわね」

「早かった?」

「そ、あなたは『覚醒めざめ』つつあるのよ、神ノ木くん。と言っても、おめでとうって訳では無いかもだけど。まぁよろしくね」

 わざとらしく笑顔を見せる恵と聞きなれない言葉に、翔と詩織は思わず互いを見つめ合う。

「あの〜、それってクール恵先輩の話とどう関係してるんでしょう?」

 状況が飲み込めていない翔の様子をみて詩織が切り出す。

「さて、やっと今日の本題ね、立ってるのもなんだから座って話しましょ」

 恵が翔から視線を外し奥に目をやる。

「少し一息つきましょうか、生徒会室はお茶も常備しているのよ」

「あ、じゃあ私入れますね、お茶もあるなんてさすが生徒会室!こっちの方ですか?」

 詩織が奥の方へ向かっていく。

「ありがとう詩織、戸棚に紅茶の葉っぱがあるので好きなのを使って頂戴」

 詩織が奥に消えていく姿を見送ると、恵は翔に近づき少しトーンを落として続ける。

「神ノ木くん、釘を刺すというつもりでは無いけれど、恐らくこの先同じような現象に頻繁に遭遇することになるわ。その度にうまく理解できずに混乱したり、場合によっては相当な恐怖を感じたりするはずよ。時には逃げることが正解だったりすることもあるでしょう。でもそれは起こるべくして起きているの。だから自分の運命からは目を逸らさずにいて。あなたのインシデントが何かまでは私は知らないけど、きっと今現在何らかの心当たりはあるはずよ。そして、それがあの子のためでもあるということを覚えておいて頂戴」

 言い含めるようにそれだけ伝えると、丁度お盆にティーセットを乗せて戻ってくる詩織に目を戻して椅子に腰掛ける。

「お待たせしましたー、この紅茶すっごく良い香りですね!」

 嬉しそうにお盆を机に置くと、詩織が翔の隣に腰掛ける。

「うん、この香りは・・・ティラーズのダージリンね。さすが詩織、適当でも鼻が効くようね」

 と恵が少しからかうように答える。

「やった、恵先輩に褒められたー!」

「あのなぁ詩織、今のはどちらかと言うと褒めた訳では無いと思うんだが?」

 思わず翔が口を挟むが、詩織は全く気にしない様子で得意げにピースを返して来る。

 

 その様子を横目でチラリと一瞥した恵がやれやれと口を開く。

「では本題、少し*私達*の話をするわね。と言いたい所だけど、経緯についてはあの子の方から話した方が良さそうね。昨日、『私達は分りやすく言うと二重人格』と言ったけど、正確にはあるきっかけにより私が表に出て行った。あの子の『覚醒めざめ』のきっかけを作らざるを得なかった。という事なの。・・・まだうまく理解できないのも無理は無いか・・・とりあえず今は聞き流しておいて構わないわ。とにかく、あの子からこれまでの事を話してもらうわね。ちなみにあの子が表に出ている間も会話の内容は私にも聞こえているからその点はご心配なく。もっとも逆の時は、私の声しか聞こえてこないみたいだけど。それじゃ、また後で」

 一方的にそう言い放つと少し間を置いた後、また唐突に口が開く。

「ちょっと、アイリス! あっ」

 声に出ていることが分かり、恵が思わず手で口を覆う。少し動揺した様子を見せたが、観念したように小さく咳払いをした後、恵が続ける。

「いきなり経緯を話してって言われたんですけど・・・?」

 同じく『あっ』という口の形をしていた詩織が慌てて答える。

「あはは、えーっと、その、何て言うか、あっちの恵先輩とこっちの恵先輩の関係と言うか、あっちとこっちになったいきさつと言うか・・・」

「声が・・・聞こえて来たんだ」

 翔の妙に落ち着いた声が辺りに響く。

 一瞬、恵が目を大きく見開いたが、すぐさま元の表情に戻ると小さくため息をつく。

「なるほど、状況は大体理解できました。丁度私も神ノ木くんに聞きたいことがありましたので。では、まずは私の事をお話ししますね。私が彼女、アイリスの声を最初に聞いたのは私が七歳の時でした・・・」

 

 —— 十年前、九条家

「恵、早く支度をなさい、お稽古に出かける時間よ。お母さん大事な御用があるから一緒には行けないけど、お手伝いさんの言うことをしっかり聞いて稽古に励むのよ」

「あなたは何も心配しなくていいの、お父さんとお母さんの言う通りにしていれば何も問題はないのだから」

 その母親の言葉に間髪入れず横から父親も加勢する。

「九条家の一人娘として、どこに行っても恥ずかしくないよう精一杯努力しなさい。それがお前の役目であり、それだけを考えていれば良いのだよ」

 うんうんと頷きながらまた母親が続ける。

「先日、先生が直々にいらして、あなたには才能は素晴らしいとお褒めの言葉をいただいたのよ!知能も感性も運動神経も。どんどん先に進めるべきだとアドバイスをいただいたわ。あなたも小学校にはすっかり慣れたでしょうから、習い事も少し増やしていかないとね、心配しなくとも中学用の参考書はもう一通り揃えてありますからね。何と言ってもそれがあなたのためなのだから」

「あのね、学校でね、お友達のお誕生会に招待されたの、今度のお休みの日なんだけど・・・」

 精一杯頑張って口を大きく開けて声を出したつもりだったが、徐々に声は途切れそうなほど小さくなっていった。

 途端に母親は目に見えて冷ややかな視線を浴びせる。

「恵、まだそんなことを言っているの?世間一般の人はお休みでも九条家はお休みではないの。その日も習い事が入っているのは分かっているわよね?習い事は今のうちからしっかり取り組まないと身につかないのよ、他の子と遊ぶなんてことはいつでもできることじゃない。あなたは将来立派に九条家を名乗っていかなければならないのだから。そのお家には執事さんから丁重にお断りを入れておきますからね。心配しなくて良いのよ」


 何十回何百回と聞いたことのあるいつもの内容だ。もう既に母親の話は耳に入って来ない。恵は誕生会に招待された時のことを思い返していた。



 教室で生徒の一人が自分の誕生会に皆で集まろうと切り出すと、周りが一気に盛り上がっている。恵に気づいた一人が話しかけてくる。

「あ、恵ちゃんもお誕生会来れるー?今度のお休みの日にお友達皆んなで集まろうって」

 すると傍にいた生徒が遮る。

「あー、無駄よ。恵ちゃんは誘ってもいつも来てくれないし、どうせまた来ないんだからもう誘わなくって良いんじゃない?」

「そんなこと言わないで、私も行きたい!皆んなと仲良くしたい!お母様にいっぱいお願いしてみるから、今度は絶対行くから!」

「だって来たこと一回もないでしょ?私もお母さんから、恵ちゃんは恵ちゃんの都合があるからあまり無理に誘わないようにって言われてるの、じゃまたね」

 それだけ言うとさっと背中を向け去っていく。

 (そんな・・・トモダチって?仲良しって何?私の都合って?みんなと仲良くしたいだけなのに、何で?どうすればいいの?)

 

 誘われるときだけじゃない、思い切ってお勉強会で集まろうと提案した時だって同じだった。

「お勉強会だって、恵ちゃんは賢いんだから私達と一緒に勉強なんてしなくても大丈夫でしょ?分からない人同士で集まった方が私達も良いし。恵ちゃんは無理しなくていいよ」

「そんなことないよ、ほら、分からないところがあったら、教えてあげたりもできるし。ね?ね?」

「・・・それは私は良いんだけどそういうの嬉しくない人もいるし、私も恵ちゃんの都合を考えてないって後でお母さんに怒られたくないし、、、またね」

 そう言うと別のクラスメイトもみんなの元に走り去っていく。

「・・・」

 (頑張ったって、ちょっとぐらい勉強ができたって、なんにも嬉しくない‼︎)

 恵は独りになった教室の片隅で、全く子供には似つかわしくないほどのやり切れなさを感じ、全身を震わせていた。気付くと強く強く噛んだ唇からは血の味がした。

 (どうして?何でこんなに苦しいの?悲しいの?私が悪いの?このままずっと、ずっと仲間外れなの?)

 (・・・こんな思いをするぐらいなら、、、もう自分からは何もしない。そうすれば、きっとこれ以上嫌われることは避けられる、うん、そうしよう)

 (だって、もう、どうしたらいいか・・・ワカラナインダモン)


 それ以来、恵は自らの意思で他人と目を合わせることも、笑顔を見せることも無くなった。

 

 (私は、、、みんなと一緒に過ごしたいだけなのに、お母様とも、お父様とも。一緒に笑ったり、一緒に喜んだり、一緒に悲しんだり、時々はわがままをいって怒られたり)



 そんなことを思い返しているうちにも目の前で母親の得意げな小言はいつまでも続いていた。しかも悪いことに今日はやたらと長い。何か良いことでもあったんだろうか・・・

母親の前で立ち尽くし、決まった返事を返す恵。その表情は無い。以前なら悲しみと不安で涙が溢れ出していたが、もはやそれも無い。

「恵、あなたにはたくさんの才能があるのだから、精一杯伸ばしていかないと。それが九条家のためであることは頭の良い恵なら分かるわよね?」

 (はい、お母様)

「恵、九条家として恥ずかしくないようにお作法をしっかりね」

 (はい、お母様)

「恵、家庭教師の先生からそろそろ中学の内容に進んではどうかと提案があったわ、そうしてくださいとお返事しておいたから、頑張りなさい」

 (はい、お母様)

「恵、あなたは運動の才能も素晴らしいそうよ、乗馬の稽古ももう次のステップでいいんじゃないかしら」

 (はい、お母様)

「恵、今日いらした先生から音楽のセンスも抜群で何を演奏させても上手だし作曲の学習も初めていかないかとお褒めいただいたのよ」

 (はい、お母様)

「恵、今年の絵画コンクールの準備がそろそろね、題材は考えてあるのかしら?」

「恵、・・・恵、・・・恵、・・・恵、・・・」

 (はい、お母様)

「恵、あなたは何も考えなくて良いの、言われた通りにしていればそれで良いのよ。あなたは他の子とは違うの、特別なのよ、寧ろおかしな個性なんかがついてしまったらどうするの!全くそんなものは要らないのよ、あなたの将来はちゃんと全部考えてありますから。その通りになさい、それが九条の娘だということなのだから」

 その瞬間、僅かに恵の目が大きく見開かれる。

 (え?九条だから?なの?じゃぁ私って・・・誰?)

 (私じゃなくて、九条の?おかあさんって何?おとうさんも?私って何?私?九条?九条?私?九条?)

 (モウワカラナイ・・・ダレカ・・・)

 なす術もなく意識が遠のいていき、ウネウネと目の前が暗闇に覆われて行く。これまでの事が走馬灯のごとく、早回しのスライドを見ているかのように流れていく。何の懐かしさも、暖かい感情も、悲しみさえも一切湧いて来ない、無機質にそれを眺めている自分がいる。やがて今この瞬間のスライドが映し出され、自分と重なると、そのまましばらく停止していた。がスライドは再びゆっくりと進み始める。徐々に速度が上がり、もの凄い速さでスライドがめくられていく、将来に向かって。次第に辺りが眩い光に覆われ、やがて最後の一枚が映し出される。そこに映っているのは眩い光と自分を包み込んでいる誰かの腕、その右の手には傷のようなものがあるのが辛うじて分かった。

「・・・おれが・・・かける・・・いって・・・」

 かすかにそう聞こえたと同時に一気に涙が溢れ出してきた。

 (・・・チリン)

 

 (ちょっと!アンタ!しっかりしなさいよ! あーもう、この状況じゃ仕方ないか、緊急事態だから外に出るわよ、いい事?アンタはそこでしっかり聞いてなさい)

 立ったまま抜け殻のように無表情だった恵に生気が差し、力強く母親を睨みつける。

「そうよ、特別なのよ、だからこそもう放っておいて頂戴。お望みなら九条家の娘としての品位は守るわ。ただし何をどうするかは私自身が決める。もうインシデントとしては十分よ、これ以上はこの子の精神がもたないわ。あなたは二つに一つ、今の話に首を縦に振るか、それとも私がこの家を出ていくか、今すぐ決めて頂戴!」

 まるっきり別人のような恵の反応にすっかり呆気に取られていた母親だったが、そのあまりの迫力に、ただただ小刻みに首を縦に振ってそれに答える事しかできないでいた。

 

 

「それが、私とアイリスの始まりなんです。その事があってからは、アイリスの声が聞こえるようになって、二重人格のそれとは違うからその線で悩む必要はないって彼女は言うんですけれども、何が何だかよく分からなくって。でも、アイリスが私を救ってくれたこと、それは確かなんです。両親もそれからは私から距離を置くようになってしまったんですが、むしろやっと私も普通になれるんだと安心しました。その後も普段は彼女はあまり表には出てこないんですけど、感情の起伏が激しくなってしまった時とか、私がまごついちゃったりしていると決まって鈴の音が聞こえてきて、そうするとアイリスが表に出て来ちゃうんです」

「じゃあ、自分の意思で切り替わってるって訳ではないって事かぁ」

 翔はそう言いつつ、岡崎が言っていた例のファンクラブに殴り込みに行った件を思い出して妙に合点がいっていた。

「ええ、いつ切り替わってしまうのかが分からないので、その、皆さんとも、そのあまり・・・親しくできない所があるのです・・・あ、一つだけ不思議なのは、詩織さんと二人の時は大体向こうになっちゃうって事ですね」

 そう付け加えながら恵が少し苦笑いを見せる。

「そういえば、九条さんが詩織の事をよっぽど気に入っているんだなって感じのことを、向こうの、アイリス?が言ってたなぁ。いやでも待てよ、今の九条さんが詩織のことを気に入っているんなら、向こうが出てきてずっとそのままでいるっていうのは何か矛盾してないか?気に入っているのならそれこそ九条さんのままってのが普通な気がするけど・・・一体何を言ってたんだろ?・・・頭の回転速そうな印象だったけど、ちょいちょい*ボケてる*のかな?あはは」

 一瞬、恵の顔が不自然に引きつったが、それには気付かず翔が続ける。

「まぁでも九条さんって、意図的に他人と敢えて距離を取っているような感じがしてて、オレも何となく気にはなっていたんだよね」

「今の恵先輩のお話の最後に出てきた、インシデントって何だろ?」

 珍しく大人しく聞いていた詩織が不意に口を挟む。

「インシデント・・・っと。うーん、webで調べる限り、事件とか、出来事・・とか?」

 スマホを操作しながら答えていた翔がふと手を止める。

(あれ?そういえばさっきもう一人の九条もそんなこと言ってたな・・・)

「そっかぁ、事件ねぇ、、、でも十分?ってどういう意味なんだろう・・・事件が、十分?んん?」

 顎に手を当ててしばらく考え込んでいた詩織だったが、諦めたように翔の方に向き合う。

「そういえば、翔が声?聞こえた時って、何か考えたり思ったりってのはしてたの?

例えば、詩織ちゃんって、可愛いな!とか、良い子だよな!とか」

「どういう例えだよ、それ!」

 ほぼ反射的にツッコミを入れつつその時のことを改めて思い返してみる。

「うーん、・・・あの時はとにかく何とかしなきゃって必死だったからなぁ、他の事を考える余裕なんて無かったよ」 

(ほんと、『あの時と同じは、見てるだけなんて嫌だ。今度は諦めない。』ってそれだけだったもんな・・・)

 しばらくじっと考え込んでいた翔だったが、おもむろに口を開ける。

「そういえば、九条さんはもう一人の事をアイリスって呼んでるんだよね。そもそもなんでアイリス?」

「えっ?翔、そこ?」

 思わず詩織が突っ込む。

「何で?って、そう名乗ったんです、自分はアイリスだって」

 恵がさも当たり前かのように答える。

「アイリス先輩かぁ、それはそれで悪くない響きだよね、うん」

 さっきの突っ込みなど無かったかのように、そう呼ぶ気満々なのだろう、何度も復唱している。

「あと、、、さ、その、話し方?というか丁寧語?どうにかならないものかな?そもそも同じ年なんだしさ、なんていうか、タメ口調っていうか、もっと砕けて良いんじゃ無いかなーって思うんだけど、流石にもう初対面って訳でもないし・・・こっちも緊張しちゃうと言うか何と言うか・・・」

「気に触るのならごめんなさい。でもずっとこの話し方しかして来なかったので、その、努力はしてみますけど、きっとすぐには直せないかと思うんです」

「あはは、まぁ出来れば、程度に思ってもらえればいいから、うん。あ、ところでオレに聞きたいことがあるっていうのは?」

 すると恵が翔の方に向け座り直し、ふーっと一息つく。

「聞き方が少し難しいんですけど」

 まっすぐに翔に目を向けると、恵がそう切り出した。

「神ノ木くん、名前は『かける』なんですよね?」

 翔と詩織が、はて?と顔を見合わせる。

「そう・・・だけど?」

「あの、、、右手の内側に、傷跡・・・とかって、ありませんか?」

「右手の内側?・・・無い、けど、ほら」

 と言って翔が右手の袖をまくって見せると、恵は明らかに落ち込んだ様子を見せる。

「オレの名前と傷跡があるか、って、一体どういう・・・?」

「あ、ごめんなさい。実は十年前、アイリスが出てくる直前にある光景が見えて、、、私の傍に誰かがいるんですけど、辺りが眩しくて、辛うじて見えたのが右手にある傷跡のようなものだけだったんです。その光は凄く眩しいんですけど、何というかとても暖かくて」

 その時を振り返るように少しだけ間を置いた後、恵が続ける。

「そしてその人がこう言ったんです、『・・・おれが・・・かける・・・いって・・・』と。見えた光景はそれだけなんですが、その人が、とても大切な、私にとってかけがえの無い人なんだっていう事はハッキリ感じたんです。だからその人が誰なのかどうしても知りたくて。それ以来、その言葉は何の事だか分からないままだったんですけど、高等部に入った時に神ノ木くんの名前が『かける』だという事を知って、もしかしたらその人なんじゃないのかなって。それで、ずっと確かめたかったんです」

「高等部に入ってからずっと?って言うと、一年以上も?・・・なんか・・・ごめん」

 自分が悪い訳ではないことは十分承知していながらも、翔がそう答える。

「いいえ、ずっと聞けずにいたのは私の問題です。アイリスからもずっと言われてたんですが・・・。勿論神ノ木くんは悪くありません。・・・でも、これで全く振り出しに戻ってしまいました」

 力なく恵が微笑む。

 翔もどう声を掛けたらいいのかまるで検討もつかず、暫く嫌な沈黙が流れていく。

「翔・・・」

 そう切り出した詩織はいつになく真剣な顔をしている。

「・・・右手に・・・傷・・・作っちゃえば?」

「あのなぁ、そういう問題じゃ無いでしょ!」

 互いの顔を見合わせ、一斉にプッと吹き出すと、途端に辺りの雰囲気が和らいでいった。

「じゃあさ、手伝おうよ!・・・と言っても、今すぐ何かできる訳じゃないかもしれないけど・・・ほら、事情を知ってれば何か手がかりが見つかるかもしれないし。ね、だから翔も普段から気に留めておけばきっと何か・・・、翔?」

「ごめん・・・なんか・・・急に・・意識・・が・・」

 途切れ途切れに何とかそれだけを言葉にすると、翔がバタりと床に倒れ込む。

「翔!翔⁉︎ちょっと、しっかり!かけるっ‼︎」

「詩織さん、救急車を!私は先生を呼んできます」



 目を開けると目の前に見えるのは、白一色だった。訳が分からないまま二、三度瞬きをすると、ようやくそれが天井なのだと理解した。

 うまく頭が回らずしばらくぼんやりその白を眺めていると、やがて入り口の扉が開き、人が入ってくるのが分かる。

「やっとお目覚めですかな、翔くん。ご気分はいかが?」

 声の方に目を向けると膝丈まである長い白衣を羽織った、見慣れた顔がそこにあった。

かえで・・ちゃん・・・白衣ってことは、病院?・・か・・。詩織も言ってたけど、その格好してると、なんかマトモに見えるな・・・」

「でっしょう〜!何?何?惚れ直しちゃった?楓ちゃん大好きって言ってもいいのよ?」

(あ、前言は撤回だな・・・)

「確か・・・学校で話をしてたら急に意識が・・・それでここに?」

「正解!そのまま倒れて運ばれてきたって訳。まだ目が覚めたばかりだから暫くは安静にね」

「そのまま⁉︎うへぇ、そんなに疲れてたかなぁ?確かに、ここのところ色々あったりはしたけど・・・でも安静にってまた大袈裟な、不本意ながらも睡眠は取れたんだからもう大丈夫、大丈夫」

 照れ隠しに頭に手をやり、笑いながらそう言う翔に、楓が花瓶に花を挿しながら表情を変えずに答える。

「取ったわよー、睡眠は・・・二日ほど」

 頭をかいてた翔の手が止まる。

 花瓶をベッドの脇に飾り、翔を見て楓が続ける。

「だから暫くは安静に、あと、念のため検査もするからもう二、三日入院になるわね」

「え?二日?も、寝てたの?オレ」

「ええ、それはそれは死んだように眠っていらっしゃいましたー」

 抑揚なくそう言うと、楓は傍の椅子に腰掛け、ベットに手を乗せる。

「翔、その右手の甲を怪我した時のこと、もっと詳しく聞かせてくれる?」

 翔は、恵に声が聞こえないかと聞かれた事、カフェを出て詩織と別れた時に交差点で詩織にトラックが突っ込んで来た事、詩織を助けたいと思った時に声が聞こえて来た事、身体が妙な感覚だった事、そして気がついたら詩織を抱えていた事を出来るだけ細かく楓に話して聞かせた。

 翔の話が終わった後も、楓はうつむいたまま暫く黙っていたが、

「そ、分かった」

 とだけ短く答えると、安静にするよう念を押してそのまま病室を出ていった。

「何だ何だ?、詳しくって言うから話したのに、全く興味なさそうじゃん・・・」

 楓の肩透かしな反応にそう呟いてはみたものの、翔はどちらかと言うと二日も寝てたというのが未だに信じられないでいた。


「翔ーどう?どっか痛いとかある?ご飯食べれてる?見た感じは元気そうだけど!」

 検査の翌日、学校帰りに詩織と恵が見舞いに訪れていた。

「詩織、九条さんも、わざわざありがとう。こないだはいきなり倒れちゃってごめん。もうすっかり良くなったから」

「あの、私が、少し変な話をしてしまったから、神ノ木くん気疲れしちゃったのかなって、ごめんなさい」

「恵先輩のお話のせいじゃないですよ!きっと。翔はそんな繊細な神経の持ち主じゃないデース。あ、昨日だったんだっけ?検査」


「うん、まぁ検査結果はまだだけど、かえでちゃんも念のためって言ってたし、問題ない問題ない」

「楓ちゃん?」

「あ、恵先輩にとっては初登場かー。楓ちゃんはですねぇ、翔のお母さま〜なのです」

「だからその『お母さま〜』はヤメロっ」

 いつもの詩織のポーズを慌てて翔が制止する。

「楓さんはお医者さまで、私の母もこの病院で楓さんに診てもらってるんですよ!そっか、楓さんが念のためって言ってるんなら一安心だねっ」

 恵は目を丸くしたまま固まっている。

「恵先輩?」

「あ、ごめんなさい。自分の親をそう呼んでるなんて、少し驚いて・・・、その・・・」

「その・・・?」

 やっぱり世間とはズレてるんだろうな、しかもよりによって相手は九条家だもんな。そりゃ思いっきり引くよな・・・と思いつつも、翔が流れに任せて先を促す。

「・・・とてもうらやましいです」

うつむき加減の恵が、小声でそう続けた。

「いやいや、羨ましいとかそんなんじゃ、確かに仲は良い方だとは思うけど、うちの母親は単なる変人だから。そう!なんかズレてるんだよね、いつも。ははは」

「あらあらぁ?翔が私を褒めるだなんて珍しい事があるのね、やっぱり何処か打ち所が悪かったのかしら?これはもっと念入りに精密検査をした方が良さそうねぇ?」

 と満面の笑みで*お医者さま*が入ってくる。

「わざわざ翔のお見舞い、ありがとね〜、詩織ちゃん、それから・・・」

「あ、九条 恵です。クラスは違いますけど神ノ木くんとは同級生です。先日、三人で話している時に神ノ木くんが倒れてしまいまして・・・心配で・・・」

「そうだったのね。まぁ見ての通り、*大層*口も達者になられたようなので、もう心配しなくても大丈夫よ。明日には退院して良さそうだから、また学校で仲良くしてあげてね。親に似て変人かもしれないけど、ね?翔くん?」

 良からぬ空気になりつつあるのを察して詩織が咄嗟に話しかける。

「そうだ、学校といえば、翔のクラスに転校生が来るみたいよ、ね、恵先輩!」

「え、ええ、色々と手続きがあリますので、生徒会には先生方から事前に通知が入ってくるんです」

「しかーし、その転校生さんは女子じゃ無いみたい、残念だったね、翔!。あーっと、じゃあ私達はそろそろおいとましますね、翔、お大事にね!」

 慌てた様子で詩織が恵の手を取って帰っていくのを小さく手を振って楓が見送る。

「ふふふ、やっぱりいい子ね、詩織ちゃんは。さてと、翔、検査の結果が出たので少しいいかしら、こっちよ」

 と楓が先に病室を出ていく。暫く歩くと渡り廊下の先に隣の棟に続く扉があり、そこで楓が手をかざして扉を開ける。さらに先に進むと静かな場所の一角に辿り着いた。辺りにいくつかある部屋の一つに楓が入っていく。続いて入ると部屋の中は大きなディスプレイが所狭しと並べられていて表やグラフが細かく表示されている。

「へぇー、病院にこんな所があるんだ、まるで何かの研究室みたいだな」

 ひとしきり部屋の中を見渡しながら椅子に座り、思わず翔が口にする。

「まるでじゃないわよー、だってここは私の研究室だから。病院とは繋がっているけどね。医者でもあるけど、私は学者だっていつも言ってるでしょ」

 なんて、得意げにウィンクをして見せるところ、この人はおそらく凄く優秀なんだろうけど、こういう所がやっぱりピンと来ないんだよなぁと改めて翔は思った。

「じゃぁ検査結果のデータ、出すわねー」

 と楓が手慣れた感じでキーボードをタッチしていくと、目の前のディスプレイの表示が切り替わる。

「うへぇ、こんなにいっぱい項目があっても何が何だか・・・」

「分かってるわよ、だから説明するんじゃない。と言っても、病室じゃなくわざわざここで話をするってことは、さすがに少しは想像できるわよね?」

 楓はいつになく真剣な顔つきで続ける。

「神ノ木 翔くん、あなたの検査結果は・・・・・」

「ゴクリ・・・」

「何の問題もありません!」

「っって、楓ちゃん、何の問題もないのにこれって、いくら何でも冗談にも程が・・・」

「ただし!肉体的にはね」

 少し大きな声で楓が被せる。

「え?それってどういう事?」

 再び楓が手早くキーボードを操作するとディスプレイの表示が切り替わる。

「これって・・・」

 そこには先程のものと良く似た表やグラフのようなものが表示されているが、内容を知らない翔でさえも明らかに異常なんだろうと分かるくらいに、マイナスの表示がびっしりと赤く並んでいる。

「さっき見せたのが肉体面での検査データ。そして今表示されているのは精神面での分析データよ」

「精神面でのって・・・何かの精神病だって・・こと?」

「いいえ、いわゆる医学的な精神病では無くって、うーん、言うなれば『気力』みたいなものだと考えてもらった方がいいかな?」

「気力・・・?」

「そう、そしてそれがあなたが二日間ずっと起きなかった理由なの」

「でもそれって、どう繋がるの?」

「簡潔に言うと、気力に体がついて行けずにオーバーフローした結果、身体機能がシャットダウンした。通常そんなことは起こり得ないんだけど、ある特定条件下においてそうなってしまった。翔、あなたにはその心当たりがあるわよね?」

 あるも何も、心当たりなんて、ひとつしかない・・・あの・・・声が聞こえた時・・・

「この手の研究を扱う者としてハッキリ言います。今後同じ事を繰り返すことは禁止します。でないと・・・」

「どう・・・なるの?」

「ずっと目覚めない事態になってもおかしくないの!」

「だから、絶対に禁止です‼︎」

 毅然きぜんとした態度でそう告げる楓だったが、その目には今にもこぼれ落ちそうなくらいに涙が浮かんでいた。



 一週間ぶりの学校は特に変わった事もなく、至って普段通りの日常が繰り広げられていた。珍しい事といえば、自分が少し早めに登校したくらいだろうか。楓ちゃんもあの後は、いつもの感じに戻って良かった(のか?)が、ここのところ色々あったせいでどこか緊張しているらしく、今朝は珍しく早く目が覚めたと言うわけだ。でもまあ一応は解決した訳だし、しばらくはあの声の事から離れても良さそうだ。自分の席に座ってぼんやりと窓から見下ろすグランドでは各々朝練に励む生徒の姿があり、そのゆっくりとした、平和な光景が妙に安心して、いつまでも見ていられる気がした。


「翔、おい翔、神ノ木!」

 誰かに呼ばれていると気づいて振り向くと、いつの間にかすぐそばに岡崎が立っていた。

「聞いてるのか?なんだね、さっきからぼーっとして。外に可愛い子でもいたのかね?」

「あぁ、ごめん、それより何の騒ぎだ?これ」

 どれくらい経ったのか、いつの間にかみんな登校して来ていて教室の中は生徒で溢れかえっていた。

「転校生が来るって言うのは聞いてたけど・・・」

「どうも何も、女子がいっぱい集まっている光景は、いつもなら嬉しい限りなんだが、今は由々しき事態と言うわけなのだよ、翔くん」

「って、何で転校生が来るって言うことを知っているのだね?翔。鶴ケ丘校随一の情報通と言われるこの岡崎 祐介ですら今の今知ったというのに!」

 岡崎がぬっと近づいてくる。

「あ、いやぁー、聞いたというか、うわさ?そう、噂を聞いて、でもその噂では男子だって・・・あ、噂だから違ってたかな?あはは・・」

「いや、その噂とやらは、間違っちゃいない。そう、間違っちゃいない。後は自分の目で確かめるといい。全く、折角、今は男子が少ないという恵まれた環境なのに、あんなのが来ちまったら台無しだ。なんで神はこうも試練を与えたがるのか、あれで文武も両道ですなんて事になったらそれこそ本当に目も当てられないぞ」

 そう言って少し下がり岡崎が向けた視線の先では、数多の女子が群がってしきりにその転校生とやらに話しかけているが、すっかり取り囲まれてしまっているため何も見えない。

「岡崎、お前の言う由々しき事態っぽいということは分かったけど、これじゃあ何も見えないな。そのうち先生が来たら流石にみんな自分の教室に戻るだろうから、その時にでも・・・」

 と言いかけた時、丁度女子の群れに僅かな隙間ができ、その転校生と目が合う。


 その瞬間、身体中に戦慄が走った。

 自分はその転校生を知っている。

 夢に出てくる、詩織の母親を襲ったであろうヤツであり

 自分を連れ去ろうとしたヤツであり


 昔の面影を残した幼馴染である、青葉あおば わたるだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る