1 覚醒《めざめ》II signs

1-2 きざ


 私立鶴ケ丘校。この近辺は人口が多く学校も多く存在する。その中でも翔と詩織が通っているこの学校はいわゆる有名進学校と呼ばれるたぐいであるが、その構成は少し変わっている。中学校と高校は同じ敷地内にはあるものの、古くは女子校だった名残りからか、中学校は女子部と共学部とに別れていて女子部にのみ入学試験なるものがある。

 一方、高等部は共学のみでの入学試験付きとなっている。中学女子部はいわゆる精鋭揃いで高校入試が免除されるようだが、おそらくそれだけ授業内容や生徒間での競争がハードであろうことが容易に想像できる。

 共学部に通っていた翔の耳にもそういった女子部ならではの厳しい環境の噂話は聞こえて来ていて、その度にゾッとしたものだった。

 一度心配になってそれとなく詩織にどんなものか聞いてはみたものの、本人さほど実感がなくあっけらかんとしていた。まぁ、詩織に聞く時点でそんな気はしていたが、、、。

 

 そんな事情もあって、精鋭がなだれ込む高等部の偏差値も高いままとなり、結果、高校としての人気も高いまま、入学希望者が後を絶たない有名校とあいなっているわけである。そしてそのおかげさまで翔のように中学の共学部から高等部への進学を希望する場合は、内申という内輪の武器によって外部からの入学希望者より優位になるとはいえ、決して低くないハードルとなってしまっている。

 さらに難点をあげるとすれば、そういった事情が故、高校は完全共学なのにどうしても女子比率が多くなってしまう傾向が解消されないままになっていることだろうか。

 もっとも同じ共学部出身の男友達で同じクラスの岡崎おかざき  祐介ゆうすけは、『そこがいいんじゃないか、むしろ長所と言っても過言ではない!』とガッツポーズで涙ながらに断言している。確かにそれこそ6年もの間ずっと同じ顔ぶれじゃなく、高等部になる際に雰囲気も大きく変わるということ自体は、いい気分転換にはなるかも知れない。ただ、新しい顔ぶれは、ほぼほぼ女子、しかもバリバリな訳で、それは果たしていいんだか悪いんだか・・・。

 

 そして昨年までは中学生だった詩織も今年からは高校生として翔と同じ高等部に通い始めている。まぁ詩織のことだからクラスメイトとも卒なくやっていることだろうと思うが、翔にはもう一つ問題、というか、面倒な事がある。学校方針としては有名大学を目指す進学校であるため、成績順を廊下の掲示板で公表して上位優秀者には表彰したりと、あの手この手で生徒間の競争を促している。反面、高等部の生徒は内外のいろんな所から集まってくるが故、全体的な偏差値は高いものの、その中での学力に大きく差が出てしまっているのが実態となっている。ただそんな生徒間の学力の格差に配慮してか、成績順が公表されるのは生徒全体のうち上位三分の一とされているのが救いとなっている。

 丁度、前期中間テストの結果が張り出されていて、廊下の方からちょっとしたお祭り騒ぎが聞こえて来ている。翔にとっては自分の名前が公表されないことはごくごく普通の事となっているし、そういうもんだと自分でも思っている。よって、お祭り騒ぎに参加したいとも特段思っていないしその理由もない。

「翔、中間の結果出てるぜ、突撃だ!」

「はいはい、というか、どうせ自分の名前なんて出てないのに良く毎回そんなに喜んで見に行けるなぁ、岡崎」

 が、今現在、自身の意に反して、例の涙ながらに断言した岡崎に駆り出され、廊下の人だかりの一部とあいなっている訳である。

「翔、お前・・・何か悪いものでも食べたのかね?自分の名前が出てたらおかしいでしょうよ?違う違う、あそこ見ろよ、上位優秀者のところ。」

と、岡崎が指差した方を見ると、表彰対象として上位十人までが別に掲示されている。

その一番上には九条くじょう めぐみの名前があり、二位とはかなりの差をつけていた。

「くぅ〜!今回もまた九条がトップかー、しかもダントツじゃねーか。女子部時代もずっと一位だったって噂、あれ本当かもなぁ。おまけに美人で細身だし、おいおい神様どうなってんだよって感じだよ。なぁ、翔。」

 と、やや興奮気味に翔の肩をバシバシ叩いてくる。

「あぁ、そだね、と言うか岡崎、やたら嬉しそうだな、九条さんと仲良くなったのか?」

 肩を叩いていた岡崎の手がピタリと止まる。

「翔、お前・・・やっぱり熱でもあるのか?九条と対等に渡り合えるヤツなんているわけないじゃないか。まぁ一度でいいからデートしてみたいもんだけどさぁ、九条って、なんか声掛けてくんなオーラ出してるし、ああゆうのクールビューティーって言うの?まぁそこがまたぞくっと来るんだけどさ!」

 また肩のバシバシが再開される・・・微妙に痛い。と、その岡崎越しの廊下の先に一際目を引く雰囲気で階段を降りてくる女子と目が合った。その女子は掲示板の前に群がる人だかりを見やると、一瞬、伏し目がちに小さくため息をついたように見えたが、すぐに真っ直ぐに前を向いて廊下を歩いてくる。その姿に気づいた人だかりがさらに騒つく。

「あ、九条さんよ!」

「すごい!九条さん、またまた一位だね!」

「おめでとうー、毎回トップをキープなんて、生徒会も忙しそうなのに、勉強とかどうやってるの?」

「ありがとう、私は、まずは授業をよく理解することを心掛けています。しっかり基本が理解できてしまえば、後はそれを応用するだけなので、皆さんもそのように心がけると良いんじゃないかしら」

「それでこの結果なんて・・・流石九条家のお嬢さまは格が違うってとこよねぇ、本当にすごいわ」

 と周りは一段と盛り上がっている。そう言われた九条本人は、一瞬、視線を落とし小さく口を結んだように見えたが、すぐさま、

「そろそろ授業が始まりますので私はこれで」

と少し早口で言い放つと掲示板をチラリと見ることもなく通り過ぎて行く。廊下の先にある2年1組の教室に入る間際、また目が合った気がしたが、彼女はそのまま教室に入っていった。その姿を見送る女子の一部からヒソヒソと陰口めいた声も聞こえてくる。

「相変わらずの模範解答よね、あれじゃぁまるで私達が授業聞いてないみたいじゃない」

 と、ここで岡崎にぐいっと肩を引っ張られ耳元でささやかれる。

「これも噂なんだけどさ、言い寄ってくる男はそれこそ山ほどいるのに、告られてもまともに相手にもせずに切り捨ててってるらしいぜ。それに、そもそも普通に会話をしてても、時折何というか、いきなり結論をズバッと突き付けてくるらしくてさ、いつもは丁寧な言葉遣いなのにそういう戦闘モードの時は、口調も変わるらしいぜ。そうそう、以前は熱烈な九条のファンクラブみたいなものがあったんだけどさ、九条本人がその代表のところに行って、『気分が悪いから今直ぐ解散して』ってその場で瞬殺だったらしいぜ。くぅー、俺も言われてみてぇ!」

「おっと、ちょっと話が逸れたけどさ、要するに、そもそもがいいとこのお嬢様で高嶺の花なんだよ、そんでそれに加えてその辺の怖さだろ?もう最強すぎて彼女と対等に渡り合えるヤツなんて居やしないんだよ。俺たちには見えない厚〜い壁がそこにはある。住む世界が違うってヤツさ。九条がいつも一人でいるのは、そういった事情もあるんだろうな。まぁそうは言っても俺みたいな隠れファンはごろごろ居そうだけど。あっ!ひょっとして実は友達が欲しいと思ってたり?だったら俺、告ったらなんとかなったり?」

「告ったらも何も岡崎、確か以前思い切って話しかけてみたけど剣もほろろでって、すごく落ち込んでなかったっけ?もう無かったことになってるのか、、、全く、一体どこから来るんだ?そのガッツは」

 そうこうする内にチャイムが鳴ると、お祭り騒ぎを収めるように先生がやって来て手を叩く。

「はいはーい、みんな教室に戻った戻った、授業始めるよー」

 岡崎はまだ隣で悶絶しながら一人で盛り上がっている。

「おーい、おかざきー授業始まるぞー、帰ってこーい」

 ・・・だめだ、こいつはここに置いて行こう。

 

 正直、その手のゴシップには興味が無いし、どちらかと言うといざこざにはできれば関わりたくないと思っているほうだ。翔も3組の教室に戻り、窓際にある自分の席で頬杖をつくと、なんとなく岡崎の話を思い返す。


(高嶺の花ねぇ・・・)

もちろん九条 恵の存在は知ってるしこれまでに何度も見かけている。彼女は確かに特別な感じはするけど、それだけじゃない雰囲気が翔には感じられて妙に引っ掛かっていた。さっきのやり取りでも何というか、こう、会話の言葉の選択も、先に続いていかないというか、わざと自分から周りと距離を置いているような。それに九条家のお嬢様と言われた時の咄嗟とっさの仕草も何となく、何かを我慢しているかのようだった。そして何より驚いたのは、教室に入る際、周りの騒ぎでだいぶかき消されてはいたものの、辛うじて聞こえてきた彼女の声だった。

 

「分かってるわよ、うるさいなぁもう」

 

 確かさっき岡崎が、『口調が変わる』って言っていたな。でも確かに丁寧な口調では無いにせよ、特に怒っている様な感じでも無かったし、またどちらかというと独り言というよりも誰かと話しているような・・・。まぁ丁度教室に入るところだったから中にいる生徒から何か話しかけられでもしたんだろう。あいつの話だと九条と対等に肩を並べられる人はそうそう居ないって言ってたけど、何だ、普通に砕けた会話をする相手もいるんじゃないか。噂ってヤツはやっぱり尾ひれはひれ付いて行くもんだな、うん。

 この時は、『高嶺の花も何だか色々大変なんだなぁ』と漠然と思っただけで、彼女が誰かと目を合わせる事自体が稀である事など知りもしなかった。

 

 そんな考え事をしていたためか、午前の授業が終わるのはあっという間だった。

 生徒達は各々お昼ご飯にワイワイと散らばっていく。

(さて、今日のお昼は何にしようかな)

 翔がいつものように売店に向かうべく席を立つと、また廊下の方が騒つき始めている。

 と、血相を変えて走りこんで来る奴がいる。

「翔!おい、翔‼︎大変だ!」

「まだお祭りやってるのか、九条の凄さは分かったってば、お前も忙しいヤツだな、岡崎」

「違うんだ、九条も凄いが九条じゃない、九条も凄いが九条じゃない、でも凄いんだ。事件なんだ!」

「分かったから落ち着けって、で、一体今度は何の騒ぎなんだ?もう昼の時間なんだけど」

「出たんだよ、一年の、、、こっちに来てるんだよ、例の・・・№1が」

 と、岡崎に廊下まで引っ張り出されると、既に比較的男子が多めの人混みが出来上がっている。まぁ昼飯を買いに行くのでどのみち廊下は通るのだが。

「まったく、何言ってんだか、一年生だって同じ校舎なんだから来る事だってあるだろう?それが事件って、№1って、誰か殴り込みにでも来たのか?こんな進学校でそんな事ある訳が・・・」

 そうこうしているうちにザワザワが徐々に大きくなってくる。気持ちトーンが低いのは今まであまり聞いた事のない感じで返って新鮮な気がしないでもない。

(おい、あの子だろ、女子部から今年入って来た一年の中でもダントツに可愛いっていう噂の、初めて近くで見るけど、こりゃ確かにその通りだな・・・九条もいいけどこっちも違った感じで!)

「あ、いたいた、おーい」

 周りのザワザワが一気に途絶え、辺りに静寂が広がる。声を掛けている相手を目で探している様子なのが分かる。

「翔〜、お昼いこー!」 

 下り階段の手前で詩織が背伸びをしながら大きく手を振っている。

「えぇえぇーー⁉︎」

「翔って?え?神ノ木だってぇ?しかも名前呼びって‼︎何だそれ?」

 周りの男連中が一斉にどっとどよめいているが、そんな事は御構い無しに詩織が小走りで近づいて来る。状況がいまいち飲み込めないままでいると、不意に肩にポンと手を乗せられた。振り返ると、岡崎がゆっくりと両手を肩に掛けて来る。

「翔、俺、お前と友達で本当に良かったよ。昼飯、行こうな!」

 と嬉しそうに親指を立ててグッとしている。その目は少し潤んでいる様だ。

「ああ、嬉しそうなのは何よりだけど、お前と昼飯行った事あったっけ?と言うか結局何の事件だったんだ?」

「いいんだもう、事件のことは忘れてくれ、そう、全て解決済みだ。それよりも翔、お前と昼飯が食べたい、今俺は心からそう思っている」

(あー、これはヤツの中でまた何か始まっているな、やらせておくしか無いか・・・)

 こっちは諦めて詩織の方に目をやる。

「や、やぁ詩織、確か昼は女子部の時の先輩と食べてるんじゃなかったっけ?」

「うん、そうなんだけど、今日は少し遅くなりそうなので先に行ってって。なのでお昼一緒にどうかなーって。翔のことだから適当にパンとか買って済ませてるんでしょう?朝もパンなんだし、折角学食があるんだからたまにはしっかり食べなくっちゃ!」

「おぉう、丁度良かった!まさにこれから翔くんと学食に向かう所だったんだ、ぜーひ一緒に、あ、僕は岡崎 祐介、翔くんとはいつもお昼を一緒に食べてる友人です、天ノ川さん、よろしくね!」

(友人は置いといても岡崎、だからお前とお昼を食べた記憶はオレにはないぞ、、、そして『僕』って誰?・・・)

「あ、天ノ川 詩織です。私の名前知っててもらってるなんて、なんか嬉しい、もしお昼お邪魔でなければ一緒に行ってもいいですか?」

「知ってるも何も、そしてお邪魔どころか寧ろウェルカム、食事はみんなで食べる方が美味しいからね、うん。さぁ、早速いつもの様に学食に向かおうではないか翔くん」

「まぁ、たまには良いか、んじゃ行こっか」

 あたりの男子連中が不服げに撤収していくのをよそに、三人で学食に向かい歩き出す。

「ところで天ノ川さん、翔・・くんが朝パンだって良く知ってるねぇ」

 岡崎が笑顔ながらも少し引きつった顔で詩織に話しかける。

「はい、朝はいつも一緒なんです。そうそう、今日なんて翔ったら急いで食べたから口に・・・」

「あー!学食!何食べようかなー!楽しみだなー‼︎」 

 大きめの声でそう被せながら翔が詩織の口を塞ぐと、背後から目を細めた岡崎が翔の耳元を言葉で突き刺してくる。

「翔くん?後で少〜し質問イイデスカー?」


 学食はあまり利用していないが料理の種類ごとにスペースも広く取られていてメニューも豊富、味もなかなかとの評判だ。最近改装をしてちょっとしたカフェのような洒落た感じに変わっていた。それもあってか利用する生徒も多く結構な賑わいを見せている。翔は周りが余りにも賑やかなのは得意ではないので、いつもは適当に売店で何かを買って来て済ませている。

 三人はその中でも比較的人混みが落ち着いている端の方の席に着いた。

「翔、ハンバーグなんだ。相変わらずって感じだけど、でも来て良かったでしょ?雰囲気も良くなったし何より外で食べるのと変わらないぐらい美味しいし」

 と、詩織が満足そうにオムレツを口に運んでいる。

「相変わらずって、オムレツを頬張ってる詩織だって似たようなもんじゃないか」

「卵は正義!オムレツ最高〜」

 詩織が得意げにスプーンを掲げる。

「そんで岡崎がカレーっと・・・蓋を開けたらみんな揃ってお子様メニューじゃないか」

「何を言っているのだね?カレーは国民食なんだよ、しかもすぐ食べれてそのぶん会話できる時間が増えるって事だよ。つまり今の状況におけるベストチョイスと言うわけだ。分かっていないなぁ、キミは。」

と返してくる。確かにさっき食べ始めたばかりなのに、もう半分以上平らげている。

「そうそう、そういえばさっき翔と話している時に言ってたけど、天ノ川さん、いつもは女子部の時の先輩と食べてるんだって?」

「あ、はい、そうなんです。なんか女子部ってみんなライバルだーって感じで、お家からお弁当持ってきている人が多くて、お弁当も競争!みたいな?変わった感じなんですよ。そもそも私はお弁当じゃないから女子部の方にあるカフェで食べてたんですけど、ある時、先に来ていた先輩と相席させてもらったんです。すっごく話しやすい方で、ついつい色々なお話をしてたらあっという間にお昼の時間終わっちゃってて。それ以来ずっとお昼は一緒なんです」

「へぇー、女子部ってのは男連中からしたらガチ・・・いや、未知の世界なんだけどさ、高校で合流してくる女子部出身の生徒をみてると、天ノ川さんのようなフランクな女の子がいるなんて思えないけどなぁ。女子部の印象って、お堅そうで妙に他人行儀でさ、どっちかっていうとフランクとは真逆で話かけるなオーラ出してる感じで。例えばそうだなぁ、俺らと同じ二年で言えばその最たるヤツって言えばやっぱ九条だよなぁ。正に生粋の女子部です!って感じで絵に描いたような優等生。その点天ノ川さんは親しみやすくって全然そんな感じしないよね、あ、九条って言われても、いっこ上だからひょっとしたら知らないかな?」

「恵先輩は・・・よく知ってますよー」

 と答えながら詩織の目線は何かを追いかけていた。


「悪かったわね、『その最たるヤツ』で」

「そうそう、まさに最たるって言う・・・」

 言いかけた岡崎の呼吸が途絶える。

「あ、良かったー。早く終わったんですね、先輩」

 と、詩織が手を振った先には、丁度岡崎の後ろでパスタの皿を持った九条 恵が立っていた。

 食べる手がピタリと止まり、血の気の引いた岡崎が視線を上げずに少しずつ振り返る。恵らしき人物を確認すると、そのまま何も見えなかったかのようにまたぎこちなく頭を戻す。その表情は無い。

「詩織、メッセ見たわ、ありがとう。こっちに居たのね。あら?確かあなたは、こないだ呼び止められたわよね、色々と脈略もない事を聞かされたけどあれは結局何の話だったのかしら?」

 しばしの間を置いた後、残りのカレーを一気にかき込む岡崎。

「翔・・・悪いが急用を思い出しちまった。そう、急な用事だ。用事が急なんだ。く、九条さん、ごゆっくりー!」

 と、早口で言うと、恐ろしい速さで去って行く。おいおい、さっきのガッツはどこに行ったんだ。

 去っていった岡崎の後ろ姿をを目だけで追っていた恵は小さくため息をつくと、

「まだ間に合いそうね、ここいいかしら?」

 と言って詩織の隣に座り食べ始める。

「岡崎先輩って忙しい方なんだね!」

 詩織は口をもごもごしながら見送っている。

「あ、恵先輩、この人がこないだ話した幼馴染の翔、神ノ木 翔、先輩と同じ二年生なんですよー」

「あ、神ノ木です。こうやって話をするのは多分初めて、かな?」

「んっと、翔は、えーっと・・・何組なんだっけ?」

「3組」

 恵が答える。少し驚いている翔に恵が続ける

「丁度いいわ、神ノ木くん、少し話いいかしら?」。

「あ、それじゃぁ、私は外しますね」

「いいの、詩織も聞いておいて」

 席を立とうとした詩織が翔と顔を見合わせて座り直す。

「僕に話って?というか、朝、廊下の掲示板の時と今と雰囲気が随分違うようだけど」

「それも関係ある話よ、今、というか詩織と一緒にいるときはいつもコッチなの」

「コッチ?って?」

 恵は少し翔の方に向き直り、目を見て続ける。

「神ノ木くん、掲示板を通り過ぎたあと、私が教室に入る時に話しているの、あなたには聞こえてたわよね?」

「えっ?あ、うん、確か・・・『うるさいなぁ、もう』だったかな、あっ、盗み聞きするつもりとかは無かったんだけど聞こえて来ちゃって、ごめん。でも、岡崎、えっと、さっきここにいた奴は、九条・・・さん、と対等に渡り合える人はいないって言ってたけど、あの時、砕けた感じで友達と話してたし、噂ってヤツはやっぱり大袈裟に広がるもんなんだなーなんて・・・ハハハ」

「その対等云々っていうのは取り敢えず置いといて、話をしてた相手っていうのは友達とかじゃなく、『私』よ。折角目まで合わせたんだから声掛けなさいよってアドバイスしてあげたのに、『うるさい』はひどい言われようよね」

 何を言っているのか理解できないでいる翔を御構い無しに恵が続ける。

「回りくどいのは嫌いだからズバリ聞くけど、神ノ木くん、あなた自分の中から声が聞こえた事ある?」

「自分の?中から?いや、そんな覚えは無いけど。というかそれって自分の中に自分じゃない何かがいて、その声が聞こえるっていう事?」

「そう、自分の中に違う誰かがいる、分かりやすく言ってしまえば二重人格ってやつね。私たちの場合は一般的に言われているのとは事情が違うんだけど、そう理解しておいてもらえれば今はいいわ。で、今はコッチの私で、あの子が朝『うるさい』って文句を言ってた相手って訳。そう、まだ声が聞こえたことは無いのね、となると・・・」

「ちょっと待って、いきなりな話で頭が追いつかない・・・まだって?」

 翔が思わず遮ると詩織が手をポンと叩く。

「そっかぁ、なんかさっき岡崎先輩が恵先輩の事をお堅いとか他人行儀とか取っ付きにくいとか言ってて変だなぁとは思ったんですよね」

 あっけらかんと口を挟む。

「詩織?取っ付きにくいっていうのは聞こえなかったわよ?」

 恵が不服そうに突っ込むと詩織は舌をぺろっと出す。

「でも、クールな恵先輩も見てみたいです。どんな感じなんだろう」

 二重人格のくだりなどそっちのけで興味津々な目で隣の恵を見つめると、恵は面食らった表情をした後プッと吹き出す。

「全く、詩織はそうだからいつもコッチの私なのよ。よっぽど気を許してるのね」

 恵は再び翔の方を向いてポケットからスマホを取り出し画面を何度かタッチしながら話しかける。

「話しは戻るけど、神ノ木くん、この先もし声が聞こえたら教えてくれる?それがいつかはハッキリ分からないけど。これ、私の連絡先だから」

 恵が翔に画面を向けるが、会話の内容に全くついていけてない翔は目をパチパチさせるだけで微動だにしない。

「ちょっと、いつまで固まってるのよ?いいわ、あなたのスマホ貸して」

 恵は翔のスマホをぶんどって操作すると、机に置いた恵のスマホが振動し電話番号が表示されている。

「あと、メッセの方にも友達申請しておいたから、後で忘れずに追加しておいてよ。ちゃんと詳しい話は改めてするから今はここまでにしましょ、時間切れよ。というか昼休みはもう過ぎてるんだけどね」

 それを聞いてやっと翔が反応する。

「ホントだ!いつの間に」

 慌てて食器を返却口に戻しにいく。

「それでは恵先輩、またです〜」 

 詩織が大きく手を振って反対方向の自分の教室に向かっていった。

(二重人格とか、声が聞こえるとか、どう理解すればいいんだよ、しかもあの質問、僕にも声が聞こえてくるって意味?じゃあ僕も二重人格ってこと?そんなこといきなり言われても・・・第一、ロクに話もした事ないのに何でそんな事が分かるんだ?全く何がなんだか・・・)

 教室に戻りながら何とか頭の整理をしようと思考を巡らせていると、不意に現実に引き戻される。

「あ、それと、名字で呼ばれるの嫌いらしいわよ?それじゃあ、そろそろ戻るからよろしくね、

 別れ際に恵は振り向いてウィンクすると、高嶺の花に戻った様子で1組に入っていった。



 放課後、翔は自分の机でスマホとにらめっこしていた。

「おやおや翔くん、さっきからスマホ何ざをずーっと睨みつけて、なーにやってるんだね?念力では動かないですよ残念ながら。それより俺に報告すべき案件があるとは思わないかね?んん?」

 授業が終わるのを待ってましたと岡崎が獲物を追い込むかのように徐々に近寄ってくる。

 スマホの画面にはメッセのアプリが立ち上がっていて、友達申請が一件表示されている。

そのアイコンには『アイリス』と表示されている。

(これはおそらく九条さんから以外には思い当たらない、でも名前が違うしなぁ、第一、頭の整理も全く追い付いてない、果たしてこのままOKしていいもんだろうか・・・)

「聞こえているのかね?翔くん。」

 と岡崎が画面を覗き込む。

「おや?友達申請が来てるじゃないですか?見てるだけじゃ友達にはなれないよ?翔くん」

「なぁ、岡崎、正体がよく分からない相手なんだけど、どう思う?」

「ほう、で、その人に心当たりはあるのかね?」

「うん、これ多分くじょ・・・で考えたら本名じゃ無いよね?」

「常識も何も、そもそもアイリスなんて外人じゃない限り、ハンドルネームってやつでしょ。お前のことだからどうせソシャゲ繋がりかなんかなんだろ?とりあえず受けておけばいいじゃないか、もし何かあったらブロックすればいいんだし別に悩む必要なんてないでしょ。さっさと片付けて本題に移ろうじゃないか。はいポチ〜」

 岡崎が横から素早く画面の承諾をタッチする。

「あっ!勝手に!」

「はい新規お友達、おめでとさん。さてと・・・、お昼はあの後どうなったのかな?と言うか天ノ川さんがキミの事を翔と呼ぶのはどう言うことなのか?から話してもらおうかぁ?」

 岡崎の顔がぬっと近づいてくる。

「あはは・・・えーっと、詩織、とは幼馴染なんだ、で翔って呼ぶのは何て言うか・・・そう!、親しいからね。小さい頃からそう呼ばれてるから、その名残りっていうか」

「ふん、そんで?九条が天ノ川さんと親しいと。翔、お前が九条と親しいなんて聞いてないんだが?、冷たいなぁ、それならそうと言ってくれれば。まぁ聞いたとしても俺が諦めることはないんだがな。そんで、まーだまだ聞きたいことは沢山あるぞぉー。そして九条と話せる場をセッティングするのだ!そして今度こそ!」

 岡崎はまた心なしか涙ぐんで決意を新たにしているようだ。

「近い、岡崎、近いよ。いや、九条さんとは別に親しいわけじゃないってば。第一まともに話したのは今日が初めてなくらいだし」

 と、上げた手に持っているスマホに電子音とともにメッセが表示される。丁度岡崎には見えない角度なのは運が良い、横目でメッセを素早く確認する。

(神ノ木くん、承認ありがとう。お昼に話した件、何かあったら連絡をお願いします。あと、この名前の事は特に気にしないで下さい。向こうが作ったアカウントなので)

「即レス・・・だ・・と?翔、そのアイリスってのはまさか・・・?いや響き的にはむしろ女子だろう?さっき九条と話したばかりだって言うのに、舌の根も乾かないうちにもう他に浮気かよ!とにかく諸々順を追って聞かせてもらおうか。観念して大人しく吐くんだ!」

 文章の内容から、相手が九条 恵である事は確実だった。が故にこれ以上ここにいると話がこじれる事は避けられない。

「あ、そろそろ行かなくちゃ!岡崎、また明日な!」

「逃げるか、翔!さっき交わしたセッティングの約束、忘れるなよー!」

 約束を交わしたつもりはさらさらないが、とにかくこの場は離れるに限る。そして、何より頭の整理をすることが先決だ。にしても、そのためには全く情報が足りない。九条の事を余りにも知らなさすぎる、かと言って大勢いる中で直接聞きに行く訳には勿論行かない、そんなことをしたらひたすら大騒ぎになるに決まっている。

 ウロウロしながら暫く思案していたが、やはりまずは帰り道にそれとなく詩織に聞くのが良いだろう(それしか思い付かない)と言う結論に至った。


 

「天ノ川さん、お客さん来てるよー、2年の人」

 クラスメイトが詩織を呼ぶ。そういえば一年の教室の方を訪れるのは久しぶりで、何となく懐かしささえ感じる。そして当の詩織はというと、案の定うまくやっているようで彼女の周りは男女両方の友達で賑わっていた。

「あ、来た来た。翔ー、ここだよー」

 詩織が教室の中程にある席で座ったまま手を振っている。

「あれぇ?、男子の先輩がお迎えだなんて、これは詩織ちゃん、明日詳しく報告だねぇっ」

 周りにいる友達がからかう声が聞こえてくる。

「えヘヘ、それじゃみんなまた明日ね〜」

 詩織は友達に挨拶をすると廊下までやってきた。

「お待たせ〜。恵先輩の事、聞きたいんでしょ?帰りながら話そ」

「あはは、やっぱりお見通しでしたか、うん、ちょっと頭整理しないと追い付いてなくて、色々と・・・」

「頭を整理するには、、、やっぱり甘いものでしょ!パフェとかクレープとか!ん?でもパンケーキもあなどれない・・・」

「はいはい、何でも食べてくださいな・・・」

 ここは大人しく詩織について行くしかなさそうだ。



「いつもありがとうございます!ごゆっくりどうぞ〜」

 笑顔で店員さんが一礼して戻っていく。 

「このお店どれも美味しくっていつも迷っちゃうんだよね」

 嬉しそうな詩織の前にはちゃっかりチョコレートケーキとパフェが並んでいる。

「えっ、それ、、、迷って無いよね?」

 思わず突っ込む。

「いーのいーの、迷った結果なのだよ、ふふふ。いっただきまーす。あ、翔は恵先輩と話すのは今日が初めてだったんだっけ?とは言っても、私も仲良くなったのは最近だからそんなに詳しく知ってる訳じゃないんだけどね」

「いや、今はどんな事でも助かるよ。んで、九条さんとは普段はどんな話をしてるの?」

 アイスコーヒーをストローでくるくるかき混ぜながら翔が切り出す。事情が事情とはいえ、普段は全くもってしないであろう話題を切り出す、しかもあの九条の事を聞き出すことに多少の罪悪感を抱かないでもなかった。

「んー、恵先輩とは色んな話するけど大体は世間話?ってやつが多いかなぁ。個人的な話というと、そうそう、恵先輩ってお稽古事すごいんだよ!私なんて触ったこともないような事も習ってて、お嬢様って忙しいんだなーって。ただ・・・お家がちょっと複雑、と言うか、ご両親が厳しくて気が抜けない感じで結構大変みたい。小さい頃からずっとそうだって言ってた事があったなぁ。『私は人形なんだ』って、ちょっと寂しそうな目で。その時の先輩はいつもと違って妙によそよそしかったから良く覚えてる。あ、でも、ふざけて今日みたいな話をする人じゃないから、きっと何かあるんだと思うんだ」

 ふとお昼の別れ際のセリフが頭の中で蘇る。

 (名字で呼ばれるの嫌いらしいわよ?)

「人形・・・ねぇ、、、まぁとにかく、今日起こった事を一旦整理しておきたいんだけどさ、九条さんは自分の中から声が聞こえるって言ってた、で、同じ事が僕にも起こったか?って聞いてきた。と言うことは僕にも同じ事が起こるかもしれないって事を言ってるんだと思う。でもそもそもなんでオレにも起こるかもなんて事が分かるんだろう・・・しかもそうなんだとしたらオレも二重人格って事か?そんな・・・急に言われても」

「あ、そういえば詩織は同じ事聞かれた事はある?」

「んー、私は聞かれた事ないなぁ。でも声が聞こえるってどんな感じなんだろう。私の知ってる恵先輩は今日のお昼みたいな感じだから。だとすると恵先輩はクール恵先輩の声が聞こえるって事なのかな?そんで翔とは昔から一緒にいるけど、ずっと今の翔だよねぇ。クール翔の声が聞こえるって事?・・・そ、それは、、、想像するとちょっと笑っちゃうかも!」

 と言ってクール翔のモノマネをしながら、もうケラケラと笑っている。

「あのねぇ、そこ笑うところじゃないから・・・、でもああ言うからには何か心当たりが彼女にはあるんじゃないかな、でもそれが何かは本人に聞いてみるしかないか」

「あ、あともう一つ、『アイリス』って会話で出てきた事ある?」

「アイリス?恵先輩が使ってるメッセの名前がそれだけど、会話には特に出て来たことはないかな?アイリス、可愛い名前だよねー」

「今日届いたメッセの友達申請の名前がそれなんだよ、おそらく九条さんの」 

 スマホのメッセを表示して詩織に見せる。

「うん、これこれ、このアイコン恵先輩だよ・・・でも、この丁寧な文面はクール恵先輩なのかな?だとしたらって言うのはクールじゃ無い方、お昼話した恵先輩の事を言ってるみたい。でこのアイコンの花がアイリスだね。日本だと確か・・・アヤメだったかな、綺麗でカッコ良い感じが恵先輩ぽいよね!」

「そっか、じゃあこれが九条さんで間違いないってことは分かったな・・・まぁ、結局謎な事の方が大部分だけど・・・」

思いの外何もわかっていない事が分かり、ため息まじりに頬杖をつく。

「ご馳走さまでしたー」

 と、両方平らげた詩織が手を合わせると、ゴソゴソとスマホを取り出す。

「今日分かった事!、分からないことは分かる人に聞いてみよう」

 どうやら九条にメッセージを送っているようだ。本当、詩織の行動力にはいつも感心させられる。

(先輩、明日の放課後って時間ありますかー?翔と今日の続きを詳しく聞きたいです)

しばらくして着信音とともに返信が表示される。

(丁度良かったわ、同じ事を送ろうとしてたところよ、じゃあ明日の放課後、生徒会室に来て頂戴。3人でゆっくり話せるとしたら屋上かそこぐらいなのよ)

(はーい、では放課後、生徒会室に行きますね。ではまた明日〜)

「これでよしっと、明日、いよいよ翔の隠された性癖が明かされるのだー」

 詩織が構えた両手をにぎにぎしながら悪い顔になっている。

「あのねぇ、何だその手は?別に隠してないし!ちが、そんなの無いし!そもそも明日は九条さんの事を聞くんだろ?」

「あははは、まぁ・・・じゃあ今日のところは無いという事にしておきましょうか翔くん。あ、そうそう!そういえば生徒会室なんて初めてだよね!ちょっと楽しみ」

「あー、はい・・・では・・・そういう事にしておいてください・・・んじゃ、帰ろっか」

 無駄な抵抗は諦め、棒読み気味にそう言って先に立ち上がる。

 外に出るとすっかり陽が傾いている時間帯になっていた。

「詩織、この後、寄ってくのか?」

「うん、ちょっと寄って帰ろうかな。もう随分経つけど、今でもお母さんの顔見るとすごく安心するんだよね。まだ・・・意識は戻らないけど、こっちを見て笑って話しかけてくれてる気がする。何て言うか、上手く言えないけど、見守ってくれてるんだなって感じるの。身体には全く異常は無いみたいだから、いつか、いつか必ずまた声が聞けるって思えて、私も一緒に頑張らなくちゃ。って」

 少し遠くを見やりながらそう呟く詩織の笑顔はとても穏やかに感じられた。

「そっか、うん、そうやって詩織が頑張っていればきっとそれが通じるよ。必ず・・・」

 この瞬間はいつも気分が落ち込む。どうしてもあの時の光景と何もできなかった自分を思い出してしまう。そして当の詩織はと言うと、事件当時の記憶はまだ曖昧なままで、しかもその事にはきっと何か意味があるんだと思っていて、事件の詳細を聞きたがらない。とは言え無闇に謝ると露骨にイヤな顔を見せるので、どうしたもんか今だに答えが見つからないままでいる。

(いつか僕は何かできるんだろうか・・・ずっと何も出来て無いじゃないか・・・)

「翔?カーケールー!」

 詩織が覗き込んでくる。

「ん?ああ、ごめん。」

「ぼーっとしちゃって、大丈夫?しっかり帰るのだぞ!」

 そう釘を刺すと、詩織は交差点のほうに向かって行く。

「それじゃ、また明日ね〜!」

 横断歩道の信号が青に変わると、渡りながら詩織が振り返り、大きく手を振ってくる。

「おいおい、前見ないと転ぶぞー」 

 翔は苦笑いで手を振ってそれに答えると、振り返って歩き始め、ようとした時。

 唐突に異様な違和感を感じた。それは悪寒というか、身震いというか、いや、どちらもしっくりとこない妙な感覚。強いて言うなら落下する直前のジェットコースターのあの感覚に近い。『身体が』ではなく『気持ちが』震えている感じ。

 思わず振り返ると詩織が渡っている交差点に向かって一台のトラックが猛スピードで突っ込んできている。瞬時に交差点の車用の信号に目をやるが赤信号のままである。

「あっ!」

 ようやく気付いた詩織が恐怖のあまり立ちすくむ。

 翔は反射的に駆け出していた。が、どう考えても間に合うはずがない距離だ。

「・・・また

「また・・・あの時と・・・」

 十年前の事件の光景が頭をよぎる。何も出来ずにただ震えていた記憶が鮮明に蘇る。

 全身が怖いと叫び、足がすくむ。呼吸をするほどに身体が重くなっていく。

「また、見てるだけなんて・・・同じなんて」

「嫌だ‼︎」

 

 ——大きく息を吐け。

(えっ??)

 恵に言われた言葉が脳裏をよぎる。と同時に不思議と自然にゆっくり息を吐いていた。

(ドクン‼︎)

 鼓動が大きくうねる。何かが弾けたような感じがして、とした感覚が全身に広がる。

 あれだけ重く感じた身体の感覚が無くなり、まるで手足が自分のものじゃないように弾け飛ぶ。

 息をしている意識も無く、周りの景色がスローモーションで流れていく。

 運転席が妙にハッキリと目に映ると、ドライバーは目を閉じてうなだれているのが分かる。最悪なことに、明らかに気絶した状態で突っ込んで来ていた。

 トラックは加速したまま、すぐ詩織の目前にまで迫って来ている。

「しおりぃぃーーっ‼︎」


 次の瞬間、後方で耳をつんざく大きな衝突の音が鳴り響いた。

 スローモーションはすでに解け、辺りの喧騒が耳にこだまする。

 振り向くと、さっきのトラックが壁に激突し、横転したまま見るも無残に大破していた。黒煙がモクモクと高く立ち昇り、鼻を突くガソリンの重く嫌な匂いが辺り一面に漂っている。

アレとぶつかってまともなはずがない。祈るように詩織の姿を探して辺りに目をやるがやはりどこにも見当たらない。最悪の結果が頭をよぎり背筋が凍りつく。

「おい、あの子、今・・・」

「見えたか?」

「と、とにかく救急車!」 

 周りの通行人たちがざわついている。

 愕然としたまま視線を戻すと、そこには大きく目を見開いたままの詩織が血の気の引いた顔で呆然としている。

 そしてその詩織を抱きかかえている自分に気付く。

「・・・」

 目には映っているものの、何が何だか今の状況に全く頭がついて行かず思考が停止している。確か周りがスローモーションになったのは覚えている。そしてどう考えても間に合う距離ではなかった。が、その後何が起こったのかはまるで分からない。

 ふと、息をするのを忘れていたことに気づき、慌てて大きく深呼吸をする。

「だ、大丈夫か?詩織」

「う・・・ん」

 詩織は絞り出すように頷いた。


 目の前で繰り広げられている出来事に混乱し次第に騒ぎが大きくなりつつある通行人たちと、ただただ呆然としている翔たちを他所よそに、少し離れたビルの陰ではおもむろにパーカーのフードを頭から被り直し、その場を離れて行く少年の姿があった。



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