2020年7月21日(開会式前々日)

 何をおいてもまず、屍体だ。忌み嫌う読者がいることは承知しているし、この決定に反対する人が一般市民にもアスリートの中にも少なくないことは、すでに公表された調査結果が示している。世界的に見てもフランスは反対の傾向が高いようだ。しかし、私たちの代表選手は東京へ来ているし、選手村の中で他国の選手たち同様に明後日の開会式を待っているのだ。いつまでも無視するのはフェアではないだろう。

 おさらいしよう。IOCおよびJOCの決定はこうだ。新型コロナウィルスによる世界的パンデミックの中では、人間のアスリートによるオリンピックとパラリンピックの開催は不可能である。死者が一万人を超える国が少なくない中、オリンピックの開催に興味を持つものは少数派だった。四年間の競技人生を捧げてきたアスリートたちには残念な結論だが、世界の多くの人々にとっては、単に現実的な選択であり、中止となった多数のイベントの中の一つに過ぎない。それで、この問題は決着し、四年後のパリへ向けて動き出すはずだった。しかし、WHOの報告が問題を振り出しに戻す。


1.屍者は新型コロナウィルスに感染しない。

2.屍者は新型コロナウィルスを媒介することはなく、

  その移動はウィルスの拡散には全く寄与しない。


 屍者がウィルスに感染しないのは当然だろう。死んでいるのだから。問題は報告の第二項だ。ペストを蔓延させるネズミの死骸とは異なるということである。屍者が街を歩いていても感染拡大には影響が無いということだけを伝えたはずの報告に、しかし過剰に意味を見出した者たちがいた。彼らにとって、この報告から導かれる第三項はこういうものだ。


3.屍者を出場者とした、オリンピック開催は可能である。


 かくして東京は、人間によるオリンピックとパラリンピックの開催を中止する代わりに、ネクロリンピックの開催を決定した。

 IOCは新たに、国際ネクロリンピック委員会・INCを立ち上げた。やるとなれば素早い。グローバルビジネスの世界、いや世界の共通言語たるスポーツの世界に君臨するオリンピック委員会である。決定直後は、実は日本以外の国にネクロリンピック委員会は存在しなかった。寝耳に水、誰も準備などしていないのだから当然である。

 この決定に対し、早速協力の声明を発したのがロシア、続いて米国、一週間遅れて中国である。米露の大統領は決定を歓迎し、オリンピックの大口スポンサーである米国企業や放映権を握っていた放送局が、オリンピック同様にネクロリンピックを支援すると発表した。一方のロシアは、屍者の技術を持たない諸国——主にロシアの影響下にある旧ソヴィエト諸国、中東、アフリカ、ラテンアメリカの国々への——屍者技術の供出を表明した。19世紀のグレート・ゲームの時代から連綿と受け継がれ、軍と情報機関と秘密警察が掌握する技術を、公の場に、世界が注目するスポーツの祭典に吐き出すというのだ。スポーツにおける情報公開グラスノスチとしては、コマンドサンボが世界を驚愕させて以来30年ぶりのロシア主導の事件である。

 選手だけが屍者であれば、新型コロナウィルスの蔓延と無関係な大会が開催され得るかといえば、そんなことはない。スポーツには審判が必要であり、大会を支える多くの有償無償のスタッフがいて、観客がいて、もちろん運営委員がいる。彼らがもしも人間のまま密集して、大会運営に関わるとするならば、パンデミックを防ぐことができるであろうか?

 それは困難であるとIOCおよびINCは判断した。結論は、世界中がすでに知っているとおりである。


 ネクロリンピックの運営に関わるもの、会場に出入りするものは、

 屍者に限定する。


 切腹。ハラキリ。日本の伝統的な自死のメソッドであり、自ら屍者になる者の儀式である。前JOC委員長の切腹とJNC委員長への就任映像は、NHKの衛星放送で世界に公開された。さらに公式・非公式の動画があらゆる動画サービスで再生された。フランスでは、表向きは追随者が増加する危険を避けるために放送・再生禁止とされたものの、アンダーグラウンドの人気コンテンツであることは皆の知るところだ。

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