『文化祭』

 夏が終わった。

 クマゼミよりツクツクボウシの方が多くなってきたな、と思ったらあっという間にヒグラシが鳴き始め、やがて鈴虫松虫コオロギの声に変わっていった。


   ◎


「内田くんて、なんか本当に変わったよね」

 職員室の隣の給湯室の隣の休憩室に併設された応接スペースで、生徒のアンケートを手際よく仕分けながら、中村がつぶやくように言った。

「え? なんですか?」

 同じ作業をやりつつ、翔太は聞き返す。

「夏以降、仕事が速くなった」

「あ、それは自分でも思いますよ。よく頑張ってるでしょ。今までは仕事に追われてる感じでしたが、今では仕事を追いかけている実感がありますもん」

 全校生徒にとったアンケートは、実にシンプルなものだった。

『文化祭でやりたいことを自由に書いてください』

 翔太と中村は、そのアンケート結果を『ステージ』『模擬店』『展示』『その他』に分ける作業をしているところである。

「それだけじゃないよ。体育大会以降、根回しが上手になった。さっきも、高田先生となんか話してたじゃない。何話してたのよ」

「高田先生の経験談を伺ってました。文化祭でどんなことをやったとか。ほら、俺って魚定しか経験ないんで、自分の高校時代のことくらいしか参考にするものがないんですよね。だから、できるだけ経験豊富な先生方の話は聞いておこう、と思って」

「うちも同じ。三〇過ぎまで普通にOLやってたからね。こんな歳だけど魚定が二校目だし」

「中村さんっていくつでしたっけ」

「女性に堂々と年齢を聞くなっての。あなたより一〇コ近く上よ」

「……すみません、デリカシーなくって……」

「……本当よ」

 手を動かす。

「模擬店の希望が多いわね」

「ですね」

 中村がチラリと顔を上げる。

「それにしても、高田先生や東間先生が文化祭にこんなに前向きに協力してくれるなんて、体育大会以前からはちょっと考えられなかったわね」

 魚定の文化祭は元々、『文化祭』とは名がつくものの、その実態は簡単なお楽しみ会のようなものだった。一部の有志の生徒が歌やダンスを披露し、若手教員が流行のお笑い芸人のものまねをする。有志の数は年々少なくなっていたし、若手教員が何かをするのは毎年恒例でもはやサプライズでもなんでもない。

 それをなんとかしたい、今年はちゃんと文化祭をやりたい、という翔太の発案を、真っ先に支持したのがなんと高田や東間だったのだ。このアンケートにしても、自由記述にしてできる限り生徒の意見をくみ取ってやろう、というアイデアを出したのは東間だった。

「東間先生に関しては体育大会のミスの責任を感じてる、ってのはあるんだろうけど。やっぱ、内田先生の根回しが効いてるのかしら?」

「……根回し、ってほど大それたことはやってないですよ。それこそ、先生方の経験を聞かせてもらうとか、普段からコミュニケーションをとるようにしただけで。なんせ、色々手伝ってもらわないと俺らだけじゃまわりませんから」

 高田や東間の『主観的合理性』を精度よく考えようとすると、どうしたって普段から細かなコミュニケーションをとることが必要になる。どんな思いを持っているのか、何を考えているのかを知らないと、『主観的合理性』を想像できないからだ。だから、翔太は体育大会以降、二人と積極的にコミュニケーションをとるようにしたのだ。今までならば『無駄』の一言で切って捨てていたような雑談にも喜んで応じた。二人の思いや考え、知識を引き出そうと、色々な相談も持ちかけた。それらが結果的に、二人の協力的な態度を引き出しているらしい。

「見て見て、これなんてすごいよ」

 中村がアンケートを一枚寄越す。そこには一言、

『キャンプファイアーがやりたい』

 翔太は感心する。

「へぇ。これって、つまりファイアーストーム、ってことですよね。いいじゃないですか」

「ファイアーストームなんて今の子はやったことあるのかしら。火を囲んで歌ったり踊ったりするやつでしょ。うちはしたことないけど」

「俺は小学校でやりましたよ。確か、五年生の野外活動。四泊五日の四日目の夜だったかな。みんなで手をつないでスキップしながらサザエさんの替え歌を歌いました。インディアンの真似しながら踊ったり」

「なにそれ。楽しいわけ?」

「めちゃくちゃハイになってた記憶があります。いや、ほんと楽しかったですよ」

 翔太はアンケートを中村に返す。

 中村がアンケートに改めて目をやり、

「あら、神林リン。内田先生のクラスじゃない」

「そうですね」

「あの無口で大人しい子がこんなアイデア出してくるとはね。自由記述、やってみるもんね」

 中村はリンのアンケートを『その他』の山にペシ、と置き、

「でも、実際、実現は難しいかも知れないわね。だって、火を使うわけでしょ。しかも、盛大に。許可が出るとは思えないな。校庭で直火も駄目だろうし……」

「そこはほら、それこそベテランの先生方に聞いてみましょうよ。ひょっとして、経験のある先生がいるかも知れないし」

 全校生徒と言ってもたった六七人である。二人でかかればすぐに作業は終わる。

「やっぱり、模擬店が圧倒的に多いですね。焼きそば、サンドイッチ、ラーメン屋。へえ、これ面白いな。流しそうめんなんてのもありますよ」

「一月に流しそうめんってのもなんだけど、実現したらかなり面白いんじゃない? 大がかりだし見栄えするじゃない。誰のアイデアよ」

「ええと、矢沢琢磨です」

「へぇ。生徒会長のアイデアか。いいじゃん、これ、生徒会の出し物にしよーよ」

 翔太はふと、現実に戻る。

「ちょっと待ってください。ちゃんと現実的に考えましょ。まず、予算をどうするか、ですよね。生徒会費のHR予算は年間で一万円。文化祭の行事費は予算に計上してないから、とるとしたら予備費からですよね。でも、それでもとれて各クラス一万がいいとこか」

「確か、今年の予備費は全部で五万円だったわよね。全額を学年ごとに均等に割るとしても、一万二五〇〇円か。模擬店て、食材以外にも、厨房機器とか調理器具とかレンタルするでしょ。ガスとか発電機とか。すごくお金がかかるように思うんだけど、こんな予算でなんとかなるのかな……?」

「せんっ! それは、無理やで!」

 びっくりして振り返ると、休憩室との間に置かれたついたてから、浅井が顔を覗かせていた。どうやらずっと隣で聞き耳を立てていたらしい。

「……無理、って何がでしょう?」

 中村が聞く。

「せんっ、模擬店は、少なくとも二万、ちゃんとしたもん売ろうと思うたら、三万はいるで。一万強では、しょうもないもんしかでけへんわ。やめといたほうがええ」

 翔太は目を輝かせる。

「教頭先生! 先生、確か教科は商業科でしたよね!」

 翔太の勢いに気圧されながら、浅井が頷く。

「せ、せや」

「そしたら、原価計算とか、そういうのも得意中の得意ですよね!」

「もちろんや。簿記検定の対策には随分力入れてたからな。それに、商業高校はどこも、文化祭は実地研修や、いうてかなり本格的な模擬店出すんや。まあいうたら文化祭のプロフェッショナルですわ」

 翔太は立ち上がり、浅井が顔を覗かせているついたてをぐるりと回り込んで浅いの両手を握りしめた。

「力を貸してください!」


   ◎


 文化祭準備は思いの外、順調に進んだ。

 翔太が作った要項は、今回はA4一枚片面のみのシンプルなもの。ほとんど役割分担表だけが載っている。生徒指導部が細かく指示を出すのはやめ、仕事のやり方はそれぞれの部署に任せた。もちろん丸投げするわけではない。わからないことがあったら生徒指導部に逐一相談してもらい、みんなで決めてみんなで動いた。

 一番張り切ったのは浅井教頭である。本当は教頭にがっつり役割分担を与えるのは間違っているのかも知れないが、本人がやりたいと言っている以上任せないわけにもいかない。模擬店関係の各種申請から各団体へのアドバイザーまでお願いした。保健所とのやり取りなどは慣れたもので、さすがの一言である。

 そして、意外にも総務部長の高田がステージ部門を取り仕切った。聞けば、長く演劇部の顧問をしており、本人も若い頃は地元の素人劇団に所属していたという。もっとも、役者ではなく舞台演出、照明、音響をメインに担当していた裏方らしいが。古い知り合いがプロの音響スタッフをやっているというので、ただ同然の報酬で来てもらう約束を取り付けてくれた。

 生徒会にも、今回は大いに活躍してもらった。

 体育大会のときには教師陣の指示通りに動くだけでほとんど雑用係のようだったし、やりがいなどなく、やらされてる感を感じていただけだったろう。

 しかし今回は『何をするか』についての決定プロセスにまでしっかり関われるようにした。前代未聞のことだが、生徒会長の琢磨には、なんと職員会議にまで参加してもらったのだ。しかし、これは翔太が狙った以上の効果を発揮した。まず、生徒が場にいる以上、教員の発言がマイルドにならざるを得ない。すると、口論が減る。建設的な意見が多くなり、自然と、前向きな意見や新しいチャレンジが好意的に受け入れられるようになる。正直厳しいかな、と考えていた提案が、すらすらと承認を得ていった。『校庭でのファイアーストーム』、『クラスにこだわらず団体数の上限を設けずに模擬店、ステージを募集』、『資金については生徒会発行の前売り券の販売にて調達』、『文化祭開催中は学校を開放し、地域住民や卒業生などの来校を制限しない』などなどなど。中でも驚いたのが、『売り上げはHR費として還元する』という案が通ったときである。これはつまり、仮に文化祭での模擬店の総売り上げが一〇万円だったとすると、四学年が各クラス二万五〇〇〇円ずつ自由に使える、ということである。この規定が生徒のやる気を爆上げした。

 参加団体を募った結果、ステージ部門五団体、模擬店部門七団体の応募があった。翔太の担任する二年生からは、ステージ一組、模擬店二組。

 ステージは野田芽衣と関亜香梨のコンビがPUFFYを歌うらしい。

 模擬店は、織田洋介、沢村一樹、寺西裕樹の金髪トリオを中心としたラーメン屋。そして、田口純平、橘隼人の格闘ゲームオタクコンビを中心としたかき氷屋。一月にかき氷って……と、もちろん翔太も思ったが、こちらから口出しは一切しない。好きなようにやらせてみる。

 とはいえ、模擬店で売り上げを出すためには、考えることは山ほどある。

「だから、材料も確定してねぇのに、販売価格なんて決定できっかよ!」

 苛立たしげに指先で机をタンタンタンと叩きながら、織田洋介が声を荒げる。

 仕入れ量、販売価格、店舗見取り図、スタッフ配置などを決定した最終の企画書提出が翌週に迫った金曜日。放課後、教室に残って頭を抱えるのはラーメン班の生徒たちと翔太である。

 かき氷器のレンタルの目処さえ立てば、氷は漁港から、シロップと器とスプーンはディスカウントショップから安く入手できる。かき氷班はすでに書類の提出を終え、帰宅していた。

 シャーペンの尻を咥えた一樹が、

「そんなこと言ってもさ、試食した麺を全部、没にしたのは洋介さんじゃんスか」

 洋介がぎろり、と一樹をにらむ。しかし一樹は気にした風もなく肩をすくめ、

「島内のスーパー二カ所で手に入る麺は生麺から乾麺まで全部試したんスよ。一七種類! これ以上こだわったら、本土まで仕入れにいかなきゃならないっスよ。そりゃさすがに、間に合わないし文化祭のラーメンとしては割高になるっしょ」

 今週の月曜日からこっち、ラーメン班の六人は、持ち込んだカセットコンロと鍋で毎日三食以上ラーメンを作ってはみんなで試食していたのだ。

「じゃあお前ら、普通のインスタントラーメンでお茶を濁すようなことして、満足なのかよ。そんなんで、純利益一位とれると思ってんのか?」

「……そりゃ、うまいラーメン売りたいですけど」

 たまらず翔太が口を出す。

「絶対、こだわった方がいいぜ、お前らならできるよ。なんたって、一角らぁめんでの経験があるからよ」

 洋介が今度は翔太をじろりとにらむ。

「簡単に言ってくれるけどよ。俺らバイトは、スープの仕込みには関わらせてもらえねぇんだぜ。材料があればラーメンは作れっけど、材料をゼロから用意するのは無理なんだよ」

 翔太は引かない。

「無理ってこたぁねぇだろう。何も一角らぁめんとおんなじもんを作ってくれって言ってるわけじゃねぇんだ。スープがどんな風に作られてるか、店長の仕込みを見たことはあるんだろ?」

「それはほとんど毎日見てるよ」

「じゃあ、大体どんな材料からどうやってスープとってるかもわかんじゃねぇの?」

「バカ、それこそいくら金がかかるかわかんねぇじゃんか。店長にらぁめんの原価率聞いてみたことがあるんだけどよ。労務費と経費を引いた材料費だけで五五パーセントもあるんだとよ。魚島は離島だから、材料費にいちいちフェリー代が上乗せされるんだよな。だから、一般のラーメン屋よりかなり割高だよ。うちで一番安いラーメンで六八〇円だから、えーと? おい、裕樹、電卓!」

 書類作成時に必要だろうと用意した電卓を、裕樹が慌てて、

「はいっ、えーと、何? どういう計算すればいいの?」

 洋介がばりばりと頭をかき、

「だー、これだから頭わりぃヤツは……貸せよ! えーと、六八〇かけることの……と出た、三七四円だぜ。しかも、これ、ほとんどはスープ代なんだってよ。四五パーセント。つまり……えーと、ほい、三〇六円! な、無理だべ。誰が文化祭で五〇〇円も六〇〇円もするもん買うんだよ。それに、利益率が低かったらいくら売り上げても純利益でねぇじゃんバカじゃん」

 翔太は納得いかない。

「スープの試作はまだだろうが! やる前から諦めんよかよ!」

「利益が出ないことが確定してるなら、やる意味ねぇじゃん、つってんの! お前一体どうしたいんだよ!」

「わっかんねぇのかよ、いい文化祭にしたいんだよ!」

 言ってしまってから、セリフのあまりの臭さに、翔太は耳まで真っ赤になる。

 言われた洋介もびっくりしている。

 しばらく沈黙。

 全員、嬉しいような恥ずかしいような、曰く言いがたい表情をしている。


「半分にしたら……いい……と思う……」


 独り言だとしても小さすぎるつぶやきが、静まり返っていたからこそみんなの耳に入った。

 女の声だった。

 全員が声の方を振り返ると、そこに、神林リンが座っていた。うつむいた顔は長い前髪に隠れ、その表情はうかがい知れない。

 おい今の声って神林だよな、しゃべった、初めて声聞いた、そもそもラーメン班にこいつ入ってたっけ、てかいつからいたの、とみなが口々にささやく。リンのうつむきが大きくなっていく。このまましぼんで消えてしまうのではないか、と思われたとき、洋介がそうか、とつぶやいた。

「半分か! そうだよ、ラーメンをフルサイズで売ることにこだわる必要なんてねぇんだ」

 翔太も手を叩く。

「なるほど! 半玉を標準サイズにして売れば、麺代もスープ代も節約できる。原価を安く設定できるじゃんか! 客を腹一杯にしちまって他の団体から文句言われることもねぇ」

 みんなが顔を見合わせ、そして笑顔になる。

「なんだよ神林、いいこと言うじゃねぇか」

「てかなんで気がつかねぇんだ、ばっかだなぁお前」

「お前もだろ殺すぞ」

 そのとき、完全下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

 洋介が反射的に時計を見上げる。

「え、もう一五分かよ? マジか」

 一樹と裕樹が顔を見合わせる。

「やべぇ。最終出ちまうぞ」

 魚鷹フェリー下りの最終便は二二時半発である。生徒たちは定期券を持っているので切符を買わなくていい分、滑り込みでもなんとかなるが、それにしたってここからフェリーまで普通に歩いて一五分はかかる。ギリギリである。

 翔太は頭の中で今残っている七人の住所を思い出す。神林と金髪トリオは島内居住だが、残りの三人はフェリー組だった。

「よし、すぐ出よう。今ならなんとか走らずに間に合うだろ!」

 手早く広げていた書類を片付け、荷物を持って電気を消す。当たり前だが真っ暗である。

 廊下に出ると、人感センサーが廊下の電灯をつける。昇降口へ向かって歩く度、一区画ずつ順番に電灯が点っていく。

 外が暗すぎて、電灯に照らされた窓は全て黒い鏡のようである。

 裕樹がしみじみと、

「あー、夜の学校とか、最初はめっちゃ怖かったけど、全然平気になったなぁ」

 一樹が裕樹の肩にパンチを食らわしながら、

「とかなんとか言って、今でも一人で歩く勇気なんかねぇ癖によ。裕樹だけに」

 翔太が一言。

「親父ギャグを言うのは、脳が疲れてる証拠だってよ」

 一同、爆笑。翔太はチラリとリンの様子を伺う。話を聞いているのかいないのか、もちろん、無表情である。

 思い切って、翔太はリンに話しかけてみる。

「神林は、ラーメンよく食べるのか?」

「………………」

 ありゃ、まずったか、と翔太は思うが、しばらく追撃を控えて待ってみる。

 男子どもはわいわいと騒ぎながら歩く。

 昇降口へたどり着き、全員が靴を履き終える。結局、リンからの返事は返らなかった。

「おお……さっぶ。もうすっかり冬だな……」

 外に出ると、吐く息が煙草の煙のようにぼわっと広がった。

 洋介が顔を上げ、

「じゃあ、明日、土曜日だけど集まろうぜ。とりあえず書類完成させちまわねぇと。出店すらできなかった、とかバカみてぇじゃん」

 裕樹と一樹が顔を見合わせ、

「でも俺ら、明日は午後からシフト入ってますよ」

「そっか、じゃあ朝からやんぞ。翔太、明日学校は開いてねぇよな?」

「え? あ、ああ、普通に休みだけど、みんな出てくるなら俺、開けるぜ」

 翔太はたった今、洋介が口にした言葉を反芻する。洋介は確かに、『翔太』と呼んだ。いつもいつも、『おい』とか『なあ』とかよくて『お前』だった洋介が……ついに、『翔太』と呼んでくれたのだ。

「おお、サンキュ。じゃあお前ら、八時でいいだろ」

 明らかに全員の顔に早すぎると書いてあったが、もちろん口に出すようなバカはいない。

「それから、神林」

 洋介に突然名前を呼ばれて、リンがびくりと体を震わせる。

「明日も来るだろ。いいアイデア出してくれよな」

 随分間があった、と思う。

 それでも、誰も急かさず、じっとリンの挙動を見守っていた。

 小さく、注視していないと見逃してしまいそうなほど本当に小さく、リンが頷いた。

 洋介は満足そうに頷いた。

「ひゃあ! あと一〇分だぜ!」

 裕樹が素っ頓狂な声を上げると、別れの挨拶もそこそこに、男子たちはフェリー乗り場へ向けて駆け出した。

 大声でふざけ合うのが、かなり遠くなっても聞こえてくる。

「ばっかどもが。夜中に騒ぎやがって。近隣住民の迷惑も考えろ、ってんだ」

 リンの方を見て、

「さ、帰ろうぜ。確か家近かったよな。遅いから送るぜ」

 リンはしばらくじっと翔太を見ていたが、やがて校門に向かって歩き始めた。

 沈黙。

 アスファルトに浮いた砂利を踏みしめる足音だけが響く。

 手持ち無沙汰の翔太は空を見上げる。

 今日は満月に近いはずだが空はぼんやりとした雲に覆われており、星も月も見えない。街灯のない田舎道はほとんど真っ暗である。翔太はそっとリンの様子を伺うも、暗すぎて表情どころか目を開いているのかさえわからない。さすがに暗すぎるので、翔太は携帯電話のライトをつけて足下を照らした。闇に慣れた目が一瞬くらみ、吐息がライトで真っ白に切り取られる。

 そのまま一〇分ほど無言で歩いた。

 正直、ここまで生徒たちが本気になってくれるとは思わなかった。もちろん最初は純利益をHR費として自分たちで使える、というところに魅力を感じたのだろう。しかし、今は自分たちで行事を作る、主体的に、自分たちの頭で物事を考える楽しさを感じてくれているように思う。翔太が狙った以上に、みんなやる気を出してくれている。

 リンが足を止める。翔太が携帯のライトを掲げると、『神林』の表札のかかった門柱が光の輪に浮かび上がった。

「あ、ここか。……じゃ、またな」

 しばらくの間があった。

「……元気………………です……」

 リンが小さな声で何かをつぶやいたが、翔太は聞き逃す。元気です?

「え、なんて?」

 リンはじっとうつむき、黙っている。まさか携帯のライトをかざして確認するわけにもいかず、暗すぎて翔太からはリンの表情をうかがい知ることはできない。

 随分沈黙が続いたと思う。リンがやっと口を開いた。

「……元気ラーメンが……好き、です……」

 しばらく意味がわからなかった。が、翔太は唐突に理解する。

 ――神林は、ラーメンよく食べるのか?

 学校の廊下で、リンに聞いた言葉である。その答えが二〇分近く経って、帰ってきたのだ。

 翔太は喜びを噛みしめる。胸の奥からぐっと、熱いものがこみ上げてくる。

「俺も。あそこの和風ラーメンバタートッピングが、この世のラーメンで一番好きだ」

 今度の反応は早かった。

 ぱっと顔を上げたリンの両目は、暗闇の中でもそれとわかるほど大きく開かれていた。普段の無表情からすれば、それは驚愕の表情といっていいだろう。

「私も、和風バターが好き……」

 おそらく、今、リンは微笑んでいる。翔太は携帯のライトでリンの顔を照らしてその表情をしっかり見たい、という欲求と戦う。

「元気ラーメンに負けないような、マジでうまいラーメン、作ろうな」

 リンはこくりと頷くと、小さな声でさよなら、と言い、門をくぐって家に入っていった。扉が閉まり、玄関から漏れ出た光が細い筋となって消える。

 翔太は胸いっぱいに暖かな気持ちが広がるのを感じた。リンの声を聞き、リンの感情に触れる日が来るなんて。こうなったら、是が非でも文化祭を大成功に導き、リンの感情を爆発させてやりたい。そのとき、彼女は一体どんな顔をするのか。

 ラーメンの話ばかりしていたので、なんだかラーメンが食べたくなってきた。もうバスは走っていないので歩きになるが、それでもなんとか一角らぁめんの閉店時間前には滑り込めそうな時間である。

 翔太の腹がぐう、と鳴った。

 空を見上げると、ちょうど雲の切れ間からまん丸の月が顔を覗かせたところだった。

 携帯電話のライトを消し、翔太は月明かりを頼りに一角らぁめんへ向けて歩き出した。


   ◎


「おいおい、なんでいるんだよ」

 一角らぁめんに入るやいなや、翔太はそう声をかけられた。

「……いや、俺のセリフだよ。お前ら、フェリーは?」

 テーブル席から声をかけてきたのは、つい先ほど別れたばかりのラーメン班の面々である。

 裕樹が立ち上がり、厨房の亮に声をかける。

「亮ちゃん、ここ一人追加ね。お冷やよろしく」

 レジを打っていた亮が、

「あいよっ!」

 見たところ、今日は優作はシフトに入っていないらしい。すでに常連といっていいほど頻繁に通っている翔太に対して、亮も優作もわだかまりなく接してくれている。本当にありがたいことだと思う。

 裕樹は自分たちが今座っている席に、隣に開いている二人がけのテーブルをくっつけて翔太に手招きした。

「ほい、ここ来いよ」

 ちなみに、洋介たちは四人がけのテーブルに無理矢理六人座っている。

 少々気後れしながら翔太は席に着く。

「で、どうしたの。最終便、もう出ちゃってるけど……」

 一樹が答える。

「ああ、フェリーにはなんとか間に合いそうだったんだけどよ。なんか腹減ったな、って話になって。ほら、ずっとラーメンの話してたから、完全にラーメンの口になっちゃってて」

 洋介が、

「んじゃ、うちに泊まればいいべ、つって、ラーメン食いに来たんさ」

「なるほど。ま、もうフェリー出ちまってるからなんも言えねぇけどさ。家にはちゃんと連絡入れとけよ」

「あーい」

 そこへ亮が水を持ってやってきた。

「らっしゃい。翔太はいつものでいい?」

「お疲れさん。それでよろしく」

 翔太は桜井たちと初めて食べに来て以来、頼むのは決まって『味玉バター白塩らぁめんチャーハンセット』である。

 洋介たちは、すでに注文を終えているらしく、文化祭に向けた議論を再開していた。フェリー乗り場からここまで歩いてくる間にもずっと話をしていたらしい。

 一樹が声をひそめて厨房を伺う。

「やっぱ、さっきも話してたけど、あれしかねぇよ」

 翔太も姿勢を低くして首を突っ込む。

「あれって、どれ?」

 裕樹が答える。

「麺だけでも、なんとか一角から仕入れらんないかな、って」

 なるほど! 翔太は思わず声を出しそうになる。それは盲点だった。自分たちだけで、よくそんなことを考えついたものだ。だが、

「かなりハードルは高いよな、やっぱ。ガチの商売でやってるとこに、文化祭でやりたいんで麺打ってください、なんて言ったら『ガキのお遊びになんでうちの麺を卸さなきゃいけねぇんだ』とかって怒鳴られちまいそうだもんな」

 洋介が柄にもなく弱気な発言。他のメンバーも押し黙る。

 一角らぁめん店主、瓦田十蔵(かわらだじゆうぞう)四二歳が頑固で気難しいという事実は店員や常連客ならみんな知っている。虫の居所が悪ければマナーの悪い一見客に「金はいらねぇ出てけ二度と来んな!」と怒鳴りつけることがあるほどだ。

 亮がラーメンを運んでくる。

「はいお待ちっ」

 裕樹のラーメンにだけ、器を持つ手の親指が思いっ切り突っ込まれているのは、このメンバーで食べに来たときのお決まりのボケだったが今日は全員スルー。みんな、厨房で明日のスープを仕込む瓦田店長に視線を集めている。

「なんだよお前ら、なんか企んでんの?」

 亮が親指のスープをなめながら、無神経にでかい声で聞く。全員が無音で抗議しながら、亮の服の裾をひっつかんで姿勢を低くさせる。

「やかましいんだよてめぇは」

 洋介がささやく。

「今度うちで文化祭があんだよ。で、俺たちそこでラーメン屋やるんだ」

 亮が再びでかい声で、

「マジで、模擬店やれるんだ! めっちゃいいじゃん!」

 全員で寄ってたかって亮を取り押さえ、

「うるせぇってマジで」

「……痛ぇよ離せって。……んで、何企んでんだよ」

「その文化祭のラーメン屋に、一角の麺、仕入れらんないかな、って話してたんだよ」

「ふーん。できんの? そんなこと」

「いや、まだ聞いてない」

 今度は止める間もなかった。

 亮は体を起こすとすたすたと厨房へ歩いていき、店長に声をかけた。

「今度魚定で文化祭あるんスけど、洋介たちがそこで模擬店出すらしいんすよ。ラーメン屋」

 瓦田店長はじろりと亮に視線を上げるが、すぐにスープをかき混ぜる作業に戻る。

 無言。

 亮は動じない。

「んで、その模擬店で出すラーメンの、麺だけでも、うちから仕入れられないかって話してんスけど、やっぱ難しいっスかね」

「いいぜ」

「あーやっぱり。そりゃぁそうっすよね。変なこと言ってすんませんでした」

 翔太たちのテーブルを振り返り、

「ごめん、みんな。やっぱ……」

 慌てて店長に向き直る。

「いい!?」

「ああ、いい」

「いいんスか?」

「しつけぇぞ。そんかし、できあがったラーメンは、いっぺん試食させろよ。まずかったら、卸さねぇ」

 一瞬の間を置いて、ラーメン班の席で歓声が爆発した。翔太が一番大きな声で喜んでいるかも知れない。幸い、他に客はいない。

 みんなが大騒ぎする中、一樹がちゃっかり仕入れ値を確認している。

 洋介が頬を紅潮させて言う。

「おいおい、こうなったらもう、明日と言わず今日、今からスープの試作品作らねぇか?」

 裕樹が、

「いやでも、材料もなんもねぇし……」

 そこで翔太がふっふっふ、と不適に笑う。みんなの注目を十分集めてから、言う。

「そのうち、そう来るんじゃねぇかと思ってさ。今週の初めから、うちに食材買いためてんだよなぁ。豚骨鶏ガラ魚介出汁に香味野菜、一応一通りはそろえてある。どう? 俺、天才?」

 洋介が翔太の手を両手で握る。

「翔太お前、マジで天才! よっしゃ、決まりだな! てかラーメンのびるぜ早く食べよう。んで、徹夜でスープの試作!」

 瓦田店長が低いがよく通る声でぽつりと、

「今日廃棄の麺が二〇玉くれぇ裏に置いてあるから持ってけ」

 翔太も含めた全員が、声をそろえて、

「あざっす!」


   ◎


 材料はあっても、もちろん寸胴鍋など家にあるわけがない。代わりに調理室の大鍋を使おう、ということで、一同は材料を抱えて魚島高校へ。

 翔太は警備会社に電話をして事情を話し、機械警備を解除。

 時刻はすでに夜中の一時を回っているが、みんなすこぶる元気だ。洋介が中心となり、ああでもない、こうでもない、と鍋に材料を突っ込んでいく。

「火の番を交代でやって、順番に仮眠をとろう」

 翔太の提案にみんないい返事を返すが、誰一人眠ろうとはしない。火加減を調節しながら、灰汁をとりながら、一晩中賑やかにしゃべり続ける。中学校のときの思い出。地元の話。両親の仕事の話。将来の夢。三年生で行く修学旅行の話。途中からは裕樹の発案で人狼ゲームが始まる。洋介が案外嘘をつけないことにみんなが爆笑し、翔太が卓越した推理や巧妙な嘘を披露してみんなを驚嘆させた。

 瞬く間に四時間が過ぎ去り、東の空に朝の気配がかすかに感じられる頃、試作第一号のスープが完成した。

「豚骨と野菜を煮出した白湯(ぱいたん)スープに薄口醤油をベースにしたタレを合わせた」

 スープに湯がいた麺が静かに投入される。

「おおっ」

 具は刻んだネギが乗っているだけ。だが、麺もスープもこれまで試食してきたものとは明らかにたたずまいが違った。

 洋介がおもむろに箸とレンゲを手にする。まずはスープを一口。次に麺を一すすり。もう一度レンゲでスープをすくうが、結局飲まずに箸とレンゲを置いた。

 固唾を飲んで感想を待つみんなに、洋介は小さく首を振って答える。

「途中の味見から思ってたんだけどな。やっぱ、駄目だ。作り直し。食べてみな。獣臭って言えばいいのかな、豚骨の雑味が出ちまってる。それに、一角の麺は普段食べ慣れてるだけに、スープのクオリティの低さが特に際立つわ」

 洋介が立ち上がったのを皮切りに、全員が先を争って試食。翔太も食べる。言われてみれば、確かに豚骨独特の臭みが強いような気もする。が、正直、文化祭の模擬店としては胸を張って合格点が出せるレベルだと思う。

 しかし、一樹、裕樹も一口食べただけで首を振った。裕樹がぽつりと言う。

「洋介さんの言うこと、わかった」

 一樹が悔しそうに、

「何が悪いんだろう。温度を上げすぎたのか、それとも低すぎたのか。灰汁取りが甘かったのか。濾すのに失敗したのか。もっと長ネギとか、匂い消し系の素材を入れるべきなのかな」

 正直、正解など誰にもわからない。

 洋介が決意の表情で言う。

「次は、鶏ガラの清湯(ちんたん)スープで行こう。煮出さない分早く作れるし、雑味も出にくい。塩ベースのタレで、あっさり仕上げる。一角の麺なら、その方がしっくりくるような気がする。その代わり、沸騰させたら即、終わりだ。火加減に全神経を集中しなくちゃなんねぇ。おしゃべりする余裕なんかねぇぞ」

 そこからは、試練の時間だった。沸騰寸前の状態をキープする。丁寧に灰汁をとり続ける。

 しゃべる者などいない。

 翔太はそっと、調理室を出る。そろそろ八時、リンが来る頃だったからだ。

 教室に向かうが、まだ来ていない。窓からグラウンドが見える。全日の野球部が、バカ声を上げながらランニングを始めている。

 下駄箱に向かうが、中の靴は上履きのままだ。

 じゃり、と砂をかむ足音に顔を上げると、そこにリンが立っていた。

「おう! おはよう、来たな!」

 翔太が明るく声をかけると、リンは小さく頷く。

「実を言うとな、あのあと、みんなフェリーに乗らずに戻ってきたんだ。んで、徹夜でスープ作ってんだ。バカだろ。ただ、第一号は失敗で、今第二号を仕込んでるとこ。そうそう、麺のことだけどな。なんと、あの一角らぁめんが卸してくれることになったんだ。信じられねぇだろ? しかも、ほとんど原価の値段でいい、って。ほんとありがたいよな。さ、みんな全日棟の調理室にいるんだ。行こうぜ」

 ずっと調理室にいると気づかないが、外から入ってくると濃厚なスープの香りに圧倒される。試作一号の豚骨の香りもかすかに残るが、それに倍する圧倒的に芳醇な香りが立ちこめている。

「わぁ、いい匂い……」

 リンが、しゃべった。しつこいようだが、翔太がこんなにリンの声を聞くのは一年半担任をしてきて初めてのことである。

 リンの小さな声を聞き逃さず、全員がこちらを向いた。

「おお神林、来たんだ」

「もうちょっとで試食だから、待ってろな」

 洋介は無言で鍋に集中している。が、その表情は少し和らいだようにも感じられる。

 そして、そのときは来た。

 灰汁取りに使っていたお玉杓子で少しだけスープをとり、小皿に移して味を見る。一連の動き、そして厳しい表情は完全に職人のそれである。

 洋介が火を止める。

 一樹と裕樹が笑顔で顔を見合わせる。

「できた」

 洋介が静かに、力強く言う。言葉にも、表情にも、自信が見える。

 すかさず、一樹が麺を熱湯に投入。ゆで時間は二分半。

 洋介がスープと塩ベースのタレを合わせる。

 一樹がざるを両手で持って、器用に湯切りする。

 洋介は受け取った麺を持ち上げてどんぶりのスープにつけ、再び持ち上げてから半周かき回す。そして、改めてそっと、麺をスープに沈める。仕上げに、刻んだネギをぱらり、と乗せる。

 全員が、洋介の試食とコメントを待った。

 が、洋介は器を持ち上げると、コト、と翔太の前に置いた。

「食ってくれ」

 翔太はびっくりして、だがなんと言っていいかわからず、洋介とラーメンを交互に見つめた。洋介は照れたように笑い、

「いいから、やってくれ」

 覚悟を決めて箸をとる。

 麺をすする。

 うまい。

 スープを飲む。

 ……うまい!

「うまいっ! うまいよ!」

 翔太は思わず涙ぐむ。が、これは徹夜明けの変なテンションのせいということにしておく。

 みんな、次々に試食する。洋介も、今度は頷きながら食う。

 そして、最後にリン。

 一口すすると、目を閉じてそっとつぶやいた。

「……おいしい……」

 かすかだが確かに、リンが微笑んでいる。

 あのリンが、笑っている。

 一樹と洋介が肩を抱き合い、裕樹が思い切り飛び跳ねながらガッツポーズ。

 翔太は、自分でも意味不明な涙を流しながら、ゆっくりと幸福を噛みしめていた。


   ◎


 翌週、ラーメン班は〆切ギリギリに、なんとか企画書を提出することができた。

 企画書を受け取った浅井教頭の顔が曇ったのは、内容が非常に挑戦的だったからだ。

 仕入れ数が、なんと五〇〇食分。完売できれば実に五万円越えの純利益となる。

 もちろん、これが全日制ならば特に問題はない。例えば全校生徒が一〇〇〇人の学校なら、全生徒と保護者などの来校者の三割が購入してくれれば、五〇〇食という数字は十分達成可能であり、現実的なものである。あとは調理をどう効率よくさばくか、という技術的な問題となる。実際、浅井教頭の経験では、二日開催の文化祭で純利益が一〇万円を超えた、という例もあったらしい。

 だが、舞台が定時制高校、となると話は別である。

 まず、生徒総数が六七人。全員が二食ずつ食べたとしてもたった一三四食にしかならない。では、保護者はどうか? 例えば、生徒一人につき三人の客を連れてきたとしよう。それでも、二〇一食しか増えない。全て足しても、三三五食。まだ一五〇食以上残る計算である。はっきりいって勝算などないように思える。

 しかし、ラーメン班は強気の企画書を提出し、浅井教頭は受理した。

 勝機はあるのである。

 まず、日曜日に一角らぁめんの瓦田店長に試食してもらったときのことを話そう。スープを一掬い、そして麺を一すすりした瓦田は、しばし何事かを黙考したあと、再び食べ始め、一言もしゃべることなくスープの最後の一滴まで飲み干した。完食後、口ひげと口を拭いながら、

「いいじゃねぇか。のれんを分けてもいいくれぇだ、てのはちと言い過ぎだが。模擬店に向けての協力は、いくらでもしてやる。なんでも言え」

 交渉の結果、麺二五〇玉の仕入れ、予備の寸胴鍋二つの貸し出し、そして店舗へのチラシ貼り付けの約束を取り付けた。

 さらに、日曜日の間にラーメン班の全員で手分けして島中の商店街や店舗という店舗全て、しらみつぶしにチラシを貼らせてもらうお願いをして回った。その結果、実に六一店舗に、許可をもらえたのだ。前売り券ができ次第、店頭で販売してくれると約束してくれた店すらある。

 こうした宣伝活動の成果と味に対する絶対の自信から、強気の企画書提出に至ったのである。浅井教頭も最初こそ難色を示したものの、話を聞くうちに表情が和らぎ、最後には企画書を受理してくれた。


   ◎


 文化祭当日。

 正式なスタートは三時だったが、二時半頃から続々と人が集まり始めた。

 まず目についたのは、全日制の生徒たちである。普段直接的な関わりのない定時制の生徒たちが一体どんな文化祭を作るのか。半分は興味、もう半分は怖い物見たさ、というところか。だが、そういうヤツらは、校門をくぐる時点で圧倒される。

 一年生有志が作った校門装飾は、アーチと呼ぶにはあまりに巨大だった。聞けば、大工志望の生徒と、親が棟梁をやってる生徒がおり、その二人が中心となって設計や資材調達を行ったらしい。なんと、両側に階段が据えられており、上に登ることができるようになっている。強度計算もしっかりされており、六〇〇キロ、八人までなら同時に乗っても問題ないそうだ。早くもアーチで写真を撮る人が列を作り始めている。祭りはまだ、始まってもいない。

 アーチをくぐると、正面の校舎には一〇×二〇メートルの巨大なモザイクアートがかけられている。海、魚島、そして魚鷹フェリーが大胆な構図で描かれている。図案は全日制の美術部が総合文化祭に出展した作品である。台紙、糊、色紙と、結構な経費がかかっていそうだが、実質ゼロ円で作成したというから驚きである。なんと、生徒の発案で魚鷹フェリーにスポンサーになってもらったそうだ。考えたものである。

 校舎をぐるりと回り込んで中庭へ向かうと、グラウンドにファイアーストームの櫓が組んであるのが見える。櫓の下には耐熱布を敷いてあり、グラウンドへのダメージを抑えている。非番の消防団員に常駐してもらうという条件で、一辺の長さが二メートルもある巨大なファイアーストームの許可が下りた。

 七団体応募のあった模擬店だが、実際に出展までこぎ着けたのは六団体である。その店が、体育館までの通路の両側に、縁日よろしく軒を連ねている。どの店舗も忙しく開店準備をしている。サンドイッチやパンなど出来合いの商品を売る店舗もあれば、焼きそばやお好み焼きなどの鉄板物もある。

 ラーメン班はテントを三張りも使用。左の二つのテントには寸胴鍋が二つ業務用コンロで火にかけられ、五つ用意したカセットコンロと家庭用鍋では麺用の湯がたぎっている。もう一台ある業務用コンロはチャーハン用で、裕樹が鍋を振るう予定だ。一番右のテントには調理器具類は一切なく、長机と丸椅子が置いてある。どうやら店内飲食ができる本格仕様らしい。

 魚島高校の中庭は、全日制が全校集会を開けるほどの広さがある。普段は職員の駐車場になっているが、今日は車は一台も駐まっていない。その真ん中、広大なスペースに展開されているのが、生徒会主催の流しそうめんだ。一五メートルはあろうかという長大な青竹製のレールが三本伸びている。二〇〇円で食べ放題。なかなか面白い企画だ。が、今は一月。正直、寒い。

 流しそうめんなんかで驚いていてはいけない。模擬店ストリートの一番端っこ、ちょうど流しそうめんへの通路になっている場所に、なんとかき氷を出す店がある。一体誰がこのくそ寒いのに氷を食べたいと思うのか。

 そこは、しっかり対策が打ってある。

 流しそうめんとかき氷の間に、四方をビニール壁で囲まれた、一見使途不明のテントがある。三×六メートルのでっかいやつだ。そこには、でかい文字がレタリングされたでかい化粧板が貼られている。曰く、

『暖房室』

 中では達磨ストーブ六本がフル稼働している。壁にでっかい水銀温度計がかけてあり、それによると現在の室温は三二度である。なるほど、流しそうめんで冷えた体を温め、かき氷を食べるには最適な温度である。何を隠そうこの暖房室、流しそうめんとかき氷の団体が共同出資して設置したものなのだ。実によく考えられている。

 模擬店ストリートを抜けて、そのまま通路を歩くと体育館へたどり着く。

 二重になった暗幕を抜けると、体育館の中は真っ暗。と、ステージにライトが点る。各団体のリハーサル中らしい。観客席に座席はない。今は仕事の当たっていないスタッフや冷やかしの生徒が数名、思い思いの場所にあぐらをかいたり体操座りしたりしている。

 ギターをかき鳴らす音が大音量で響く。ステージの両脇には天井まで届くような巨大なスピーカーが設置されており、そこから伸びる幾本ものコードはのたくりながら収束し、ステージ右脇に設置された音響コントロールスペースに吸い込まれている。そこで忙しく音質の最終チェックをしているのは、一見してプロとわかるスタッフ数名と、総務部長の高田である。

 そのとき、入り口の二重の暗幕が大きく開けられ、体育館内の照明が全点灯した。

「まもなく、開演です! 観覧される方はお急ぎください! プログラム一番、一年生有志によります、スリーピースバンド『モッチーズ』によるミニライブ、まもなく開演です!」

 入り口の呼び子に案内され、続々観客が入場してくる。その多くは保護者あるいは全日制の生徒だが、店を閉めてまで駆けつけた呉服屋のおばあちゃんなど、地域住民の姿も多く見られる。来客数は概ね事前に想定していた程度には確保できたようである。ステージ部門がほとんど満員といっていいほどの賑わいになったのは、模擬店で何か食べるにはいかにも中途半端な時間のせいだろう。

 そのとき、三時のチャイムが校内に鳴り渡った。

 祭りの始まりだった。


   ◎


 結論から言おう。

 文化祭は大成功を収めた。

 来客数はおよそ一〇〇〇人。そのほとんどが地域住民だった。

「魚定って普段はやんちゃばかりしてるイメージだったけど、ちゃんと頑張ってるんだねぇ」

 というのは呉服屋のおばあちゃんの談だが、冗談ではなくしばらくの間、

「魚定の文化祭、行った? すごかったねぇ」

 というのが商店街で顔見知りに出会ったときの挨拶になった。

 模擬店の総売り上げは七二万六八五〇円。純利益は実に二一万八〇五五円に上った。

 純利益最高額五万八三七五円を叩きだした団体は、ラーメン五〇〇食、チャーハン一〇〇食を見事完売した、二年生有志による『魚定らぁめん』であった。

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