『教師に夏休みはありません』
喫煙九件、器物破損三件、暴力行為二件、万引き一件、バイクの免許の取得及び運転一件。
五月に始まった二年生の怒濤の特別指導ラッシュは中間考査の前後で最高潮を迎え、七月に入って期末考査を終えたあたりで夏休みが目の前に迫ってきたからか、ようやく一応の落ち着きを見せ始めた。一時は同時に六人が特別指導に入る有様で、一つ指導が終わったと思ったらすぐに次の指導、という具合で、翔太はやはり休日出勤の嵐だった。
そもそも特別指導とは何か。
特別指導とは、通常の担任指導や学年指導の範疇を超えた案件(平たくいうと生徒の問題行動)について、学校として対応する際に用いられる名称で、具体的には生徒指導部長訓戒、校長訓戒、謹慎、の三つがそれに該当する。
よくある勘違いだが、停学や退学とは全く異なる。停学、退学は『処分』であり、明確な罰である。その内容は進学先や就職先に渡る調査書や、学校での活動を書き記して保存される生徒指導要録に、きっちりと記録されることになる。一方、特別指導はあくまでも『指導』であり、その目的は生徒の反省を促すことであり、通常、それを受けたことで不利益を被るということはない。つまり、特別指導を受けたせいで留年したり、特別指導を受けたせいで進学就職に不利になったりすることはないと保証されているのである。今のご時世では生徒を処分することはほとんどないので、もしもあなたの周りで『あいつは停学になった』というような噂が流れたとしたら、それは十中八九、謹慎を停学と取り違えた誤情報である。
しかし、生徒にとっては訓戒も謹慎も『処分』であり『罰』だろう、と翔太は思う。実際、特別指導にあたうような問題行動を起こした生徒は、どんなにこれは指導なんだ、と言い含めても、「せんせーおれ停学? それとも、退学なの?」と泣きついてくる。
特別指導を受けた生徒は大抵一週間くらいはしおらしくしているものの、喉元過ぎれば熱さ忘れる、で二週間目に入る頃にはすっかり前の状態に戻ってしまう生徒がほとんどだった。
というわけで、この二ヶ月強の間に、特別指導を複数回受けた生徒がいる。
それでは発表しよう。
まずは魚定特別指導ランキング堂々の第一位、四回指導は赤井亮くん。内訳は、喫煙二件、器物破損一件、バイクの免許の取得及び運転一件。一年生からの通算指導回数はなんと七回。翔太の知る限り、二年間の指導回数としては過去最高の記録でもある。
一ポイント差で惜しくも二位にランクイン、三回指導は青山優作くん。やはり、赤青コンビはものが違う。ちなみに内訳は、三回とも喫煙。この男には学習能力というものはないのか。
三回指導で同率二位は金髪トリオの一角、沢村一樹くん。内訳は、喫煙一件、器物破損一件、暴力行為一件。この男の普段の行動を知る者からすれば、二ヶ月に三回の指導というのはむしろ少なく感じるから不思議だ。なお、一年からの通算指導回数は六回で、亮の背中をとらえた、というところか。
二回指導で第四位は同じく金髪トリオ、寺西裕樹くん。内訳は、喫煙一件、万引き一件。万引きしたものがものだっただけに、記録には残らないが記憶に残る特別指導となった。彼は島内唯一の大型書店で、エロ本をなんと一五冊(一万三〇〇〇円相当)も盗もうとしたのである。元々脂肪をたっぷりと蓄えた腹部、ジャケットの下にエロ本一五冊を詰め込んで何食わぬ顔で店を出ようとしたところ、店長に肩を叩かれたらしい。ジーザス。
ここで疑問に思われた読者もいるかも知れない。あれ、金髪トリオのトップ、スクールカーストそのヒエラルキーの頂点たる織田洋介はランク外なのか、と。そう、ランク外どころか、彼はこの魚定に入学してからこっち、特別指導は一度たりとて受けてこなかったのである。もちろん、それは彼が善良で無垢な生徒であることの証にはならない。彼はとことんまでわがままでとことんまで自分の主張を曲げないが故に、ほとんど決定的といえるほどの証拠が挙がっている案件でも、嫌疑不十分で指導に入れない、ということが繰り返されているのである。
翔太が知っているだけで、洋介が特別指導に入り損なったのは、三回。喫煙二回に暴力行為一回である。暴力行為に関しては、被害者自らが「殴られていません」と証言してしまっては指導のしようもない。喫煙に関しては、実は二回とも同じ手法で逃げられている。その一回目に、翔太が関わっていた。
正直、この記憶は思い返す度に翔太の気持ちを暗く沈ませる。
あの日、いつもより随分早くに学校を退勤できた翔太は、ご機嫌で歩いていた。住んでいるぼろアパートまでは徒歩で一〇分。ちょっと遠回りになるけど、コンビニに寄ってビールの一本でも飲んで帰るか、と考えながら学校の正門を出て、右に折れてすぐの廃ビル(営業していた塾の名前から、今でも『新藤塾』と呼ばれている)の前を通った。
今思えば、もっと警戒してしかるべきだった。何しろ、生徒たちが放課してからまだ三〇分と経ってはいなかったし、新藤塾は、ただでさえ不良のたまり場として島内でも知られた場所だったのだから。
話し声は聞こえなかった、と思う。
最初に感じたのが煙草の煙の匂いだった。
冷たいビールに、つまみは何にしようかな、やっぱりスモークタンかな、などと考えながら浮かべていた笑みは、その匂いで一瞬で消し飛んだ。
ぱっと顔を上げると、そこに金髪トリオがいた。しかも、一樹と裕樹はまさに火のついた煙草を咥えているところで、洋介はうんこ座りで右手の人差し指と中指の間に火のついた煙草を挟んでいた。
図らずも、決定的瞬間を押さえてしまったわけだ。
翔太は再び三人の指導で学校に戻らないといけない絶望を押し殺し、冷たい缶ビールとスモークタンに心の中で別れを告げながら、三人に声をかけた。
「お前ら、何やってんだ」
声の主が翔太であることに気がついた一樹と裕樹は、
「あー! なんでお前来るんだよ! ふざっけんな、また特別指導かよっ」
「えぐいって! 俺もう今年二回目、死ねよマジで」
と、すぐに喫煙行為を認める発言をした。当然といえば当然である。
しかし、洋介はすっくと立ち上がり、すたすたと洋介の方へ歩いてきて火のついた煙草を差し出してこう言ったのである。
「先生、ちょうどよかった。さっき、変なおっさんが火のついた煙草を俺らの足下にポイ捨てしてきたんだよ。危ないなーと思ってちょうど拾ったとこだ」
誰が信じるというのか。
学校に帰ってから一時間以上に及ぶ事情聴取をしたが、その主張は最後まで曲げられることなく、貫き通された。洋介のすごいところは、任意の手荷物検査にも応じるところである。どういう手品なのか、洋介は煙草もライターなどの喫煙具も所持していなかった。こうなってはもはや、指導などできるはずもない。
教頭もこれにはあきれかえってしまい、
「せんっ、せんっ、ええか、あいつは要注意やで。次は二人以上の教員で、確実に吸ってるとこ現認せんと、また逃げられると思った方がええで。それより心配は、同じやり方で言い逃れしてくる輩が増えへんか、ってことやな。要注意や!」
現に、その三週間後にも洋介は、ほとんど同じ状況で喫煙の現場を押さえられながら、ほとんど同じロジックで言い逃れをしている。
全ての聴取を終えて、保護者連絡をし、翌日の指導委員会用の資料を作成して、翔太が再び校門を出ることができたのは午前一時一五分だった。
ふと足下を見ると、何かが落ちている。
くしゃくしゃに丸められたセブンスターの箱と、一〇〇円ライターだった。箱の中にはまだ二、三本、煙草が入っている。
やられた。どうやら、翔太が三人を学校に連行する途中で、洋介がポケットから煙草と喫煙具をそっと放棄したらしい。まんまと証拠隠滅を許してしまったわけだ。
それ以降、翔太は問題行動を起こした生徒を連行する際は、必ず生徒の後ろを歩き、一挙手一投足から目を離さないようにしている。翔太だってやられっぱなしではない、学習するのだ。
◎
「だ――――――! 終わった――――――――――――――――!」
夏休み、最後の三者面談を終えた翔太は、玄関で保護者と生徒を見えなくなるまで見送り、その場で思わず歓喜の雄叫びを上げてしまった。
長く、つらかった一学期が、やっと、やっと、やっと終わったのだ。
すでに昨日、面談を終えている桜井がニコニコしながら近づいてきて、
「内田先生、お疲れ様でした。本当に長い一学期でしたね」
翔太は思わず涙ぐみそうになる自分に驚く。相当、参っていたようだ。
桜井だって、苦労は負けていない。結局、一学期の間に翔太の担任する二年生は計一七件、そして桜井の担任する一年生は計一〇件の特別指導案件があった。一見、一年生の回数が圧倒的に少ないように感じるが、考えてみれば、入学してきたばかりの四月、五月は生徒は猫もかぶるし互いに牽制もするわけで、その中で早くも二桁の特別指導というのはなかなか立派な数字だった。
「明日は土曜日だし、内田さんもさすがに休日出勤はしないんでしょ?」
「たりめーだ。夏休みまで休日出勤なんてやってられっかよ」
授業がない分、夏休み中の教員はかなり仕事にゆとりができる。しかし、もちろん休みになるわけではなく、翔太の場合はここまでの仕事の負債がバカでかいせいで、お盆を超える当たりまではまだまだ多忙な毎日になりそうだった。とはいえ、休日出勤や徹夜をしなければ仕事が回らないようなギリギリの状態はとりあえず脱することができる。これで、夜は眠れるし休日はキャンプに行ける。
桜井がキラリと目を光らせる。
「んじゃ、久しぶりに、元気屋、行きませんか?」
「お、いいねぇ。じゃあ今日は夕方に年休とって、最終便で帰ってこられるように行こうぜ」
元気屋とは、本土にあるラーメン屋であり、二人の行きつけだった。
「最後に行ったのいつだ。二ヶ月以上行ってないじゃねぇか。お互い、忙しかったからなぁ」
「いやいや、忙しかったのは主に内田さんですよ。本当にお疲れ様でした」
◎
本土までは、魚鷹フェリーで約三〇分。通常、片道一〇〇〇円だが、島内に住民票を置く人は『魚島パス』というものを持っており、これを提示することで乗船料が半額になる。
魚鷹フェリーは、フェリーと名はつくものの、実際は車は乗せることのできない旅客船『クイーンうおしま』と『クイーンたかとう』を主力船としている。乗用車を四台まで運べるカーフェリー『第六魚鷹丸』はほとんどその出番がない。実際、定期便として運航されるのは全てクイーンの方で、魚鷹丸は乗客から要望があったときのみ、臨時で運航している。
「天(てん)ちゃん久しぶりだね。元気してんの」
クイーンうおたかの舵をとる、魚鷹フェリーの若大将、日部藤吉(くさべとうきち)が桜井に声をかける。島出身の桜井天真は島内に顔見知りも多く、天ちゃん天ちゃんと慕われている。
「元気元気。日部さんも元気そうで。なかなか景気も良さそうじゃん」
ぐるりと見渡せば、定員一二四名の『クイーンうおしま』はほとんど満席だった。
「そりゃあおめぇ、島ったって、人口は九〇〇〇人以上いるんだぜ。その人たちの足を支えるのがこの魚鷹フェリーよ」
「今日も安全運転で頼むよ」
たかがラーメンを食べるのに、往復一〇〇〇円か、と思うだろうが、実際は魚島の島民はことあるごとに本土に出かける。例えばボウリング場なんかは島にはないし、若者向けのこじゃれた店も少ない。やれお祝いだ、やれ遊ぶぞ飲むぞと、ちょっとした用事で気軽に船に乗るのが魚島人である。実際、その権利は正式に認められており、魚島高校に勤務する職員はその住所が島内であっても『離島手当』という名のお足代が支給される。その額は微々たるものだが、月に数回ラーメンを食いに船に乗るくらいは許してくれる。
◎
元気屋は鷹頭町にある創作ラーメン店である。フェリー乗り場から北に真っ直ぐ大通りを歩くとすぐに、東西に伸びる魚袋(うおたい)商店街のアーケードが見えてくる。商店街を東に折れてしばらく進み、からあげ専門店の角を曲がった細い路地の中程に、元気ラーメンはある。古くて目立たない、昔ながらの中華そば屋、といった風情の店構えであり、あまり流行りそうもない雰囲気。が、見た目に騙されてはいけない。先代の作るラーメンは確かに、どストレートにザ・中華そば、というなんのことはないただの醤油ラーメンだった。しかし、先代が亡くなり、代替わりした途端、元気ラーメンは元気を取り戻した。二代目は創意工夫をこらし、他の店では絶対食べられないメニューを次々と考案。そのことごとくが名のあるラーメン専門誌にて高い評価を得て、テレビや雑誌の取材は現在も引きも切らない。ファンは県外にまで及ぶ。なんと言っても、看板メニューが『濃厚豚骨からあげ元気ラーメン背脂まみれ』である。ちなみにこのラーメンには先述の魚袋商店街のからあげ専門店で揚げたからあげが使用されている。
元気屋に着いたのは六時前だったが、それでも行列ができていて、ようやく案内されたのは七時前だった。四人がけのテーブル席が二つの他は一〇席ほどのカウンター席があるばかり、というさほど広くない店内は厨房の熱を殺すためか、冷凍庫のようにキンキンに空調が効いていた。夕方の暑気に汗ばんだ体に、冷たい空気が心地いい。入り口のすぐそばの天井近くに、昔ながらのブラウン管テレビが吊り下げられており、翔太が子供の頃から続く、少年漫画原作のアニメが流れている。デジタルチューナーを導入してまでブラウン管テレビを使い続ける物持ちのよさに頭が下がる。店内を暖かく照らすのはLEDではなく古ぼけた裸電球、特に有名でも人気でもない相撲取りのポスターは色あせ、床やテーブルは毎日拭き掃除をしていてもペタペタとくっつく感じ。まるで昭和にタイムスリップしたかのような店内だ。
二人が案内されたのはL字に折れ曲がったカウンター席のちょうど角の二席。まるで、対談番組のソファのような角度で向かい合うことになり、顔を見合わせて笑う。
二人とも、メニューを見ずともすらすら注文できる常連客だ。
「からあげダブル、もやし大盛り、背脂まみれで。それから、ミルクトッピングね」
桜井の頼んだからあげダブル、というのは『からあげ元気ラーメンの麺ダブル大盛り』を意味する。ちなみに、もやしは無料で大盛りに変更できる。トッピングのミルク、とは生クリームのことである。豚骨に生クリーム? と思うだろうが、これが絶妙にマッチするのだから不思議である。元気屋だからこそできる、奇跡のメニューだ。
「和風ダブル、バタートッピングのBセットね。それと、瓶ビール。グラス二つ頂戴」
翔太は元気屋では和風、つまり『濃厚和風醤油ラーメン』と決めている。Bセットにすればラーメンに麦とろろご飯がつく。
翔太と桜井は早速出てきたビールで乾杯。サービスの高菜をつまみに、一杯目は瞬く間に干される。
「かぁー。最高ですね」
「いやぁ、四月から頑張ってきてよかったぁ」
「ほんと、お疲れ様でした。内田さん、マジで大変だったから、疲れ、たまってるでしょう」
「桜井くんこそ、きつかったんじゃない」
桜井はグラスを傾けて遠い目。
「オレの場合、前の仕事のときがブラックすぎて、今がすげー楽に感じるんですよね」
「へぇ、それは初耳。教師も大概、ブラックだって巷でも話題になんのにね。前ってなんの仕事してたんだっけ」
「ベンダー補充スタッフってやつっス」
「自販機の補充? そんな大変なんだ。全然イメージないけど」
「会社によりますけどね。オレのいたとこは、かなりノルマがギリギリで。一日のスケジュールを分刻みで管理しなきゃ仕事が終わらんのですよ。それが、トラックの荷台の扉を閉めたら、運転席まで走って戻らなきゃならないくらいタイトなスケジュールで。しかも、トラックはデジタルタコグラフで、出した速度もぜーんぶ記録されるから、下手に飛ばすわけにもいかない。信号なんかで一分削られるだけで、もうめちゃくちゃ焦るんです。そういう細かい一分の積み重ねに何度も昼休み食い潰されたり、漏れる寸前までトイレ我慢したりして。ああ、思い出したら気分悪くなってきた」
「そらぁ、きつそうだな。そうかぁ。そうだよな。自販機はその辺にあふれかえってるけどあれ全部、誰かが補充してくれてるんだよなぁ」
「会社に帰ってきたら、タイムカード切って、それから次の日のスケジュール組むんです。スケジュール組むのは仕事じゃない、ってんで、サービス残業でやらされるんですよ」
「で、たまらず転職した、と」
「一応、二年は頑張ったんですけどね。かなり仕事も効率化して。スケジュール立てまで時間内に納めるところまではいけたんです」
「すごいな。話聞いてたらそんなん不可能に思えるけど。どうやったの?」
「考えてみれば簡単なことですよ。一日中、分刻みのスケジュールに追いまくられて帰ってきたら、体の芯まで疲れた状態でしょ。しかも、そっからの仕事はサービス残業なもんでモチベーションも地に落ちてる。集中力もないままだらだらと立てたスケジュールが、再び翌日の地獄を招く。駄目なスケジューリングが全ての元凶だったわけです。それはもう、めちゃくちゃに無駄があって。そのせいで、余計に時間がなくなってたんですよ」
翔太は、なんだか今の自分の仕事のやり方を咎められているような気がしてくる。
「で、休日に、落ち着いた状態で、一週間分のスケジュールを全部立ててみたんです。わかってる範囲で、ですけど」
「一週間分! すごいな」
「実は、先輩に相談したんですよ。仕事がきつすぎる、って。そしたら、お前それやり方が悪いわ、って教えてくれたんですよね。で、やってみたら、毎日の仕事終わりが、それはもう楽で楽で。自分でも仕事の効率がどんどん上がってくのがわかりました。随分余裕ができたんで、毎日、終業後に翌日のスケジュールの再点検をするようにしたんです。そしたら、ほとんど完璧だって思ってたスケジュールの改善点が、まだまだ結構見えてくるんですよね。こっちを先に回った方が早いぞ、こことここのベンダートラブルの返金処理をいっぺんにやっちゃおう、とかね。最終的には、勤務時間中に翌週のスケジューリングまで完璧に終わるようになりました。ま、それでも、忙しいことは忙しかったですけどね」
「なるほどなぁ」
「からあげ元気お待ち。こっち和風のBね。ご注文の品はおそろいですか?」
「はーい」
「やぁ、ほんと久しぶりだな」
目の前のラーメンに、舌なめずりをする。
桜井の前に置かれたのが、からあげ元気ラーメンだ。魚介系、特にホタテからとった貝出汁をたっぷり効かせた濃厚豚骨スープに、背脂が浮いている。麺はコシのある中細ストレートの卵麺。小学生のげんこつほどもある柔らかな鶏もも肉のからあげが三個分、半分に切られてスープに沈んでいる。具材はからあげの他に、大盛りにしたたっぷりのもやし、スープと同じ味付けで炒めてある白菜、刻みネギ。さらに、トッピングの生クリームがやや色の濃いスープに白くにじんでいる。貝出汁とミルクがからむと、クラムチャウダーのような絶妙な味になるそうだ。
「いただきまーす」
桜井が早速ミルクをスープに溶かし込み、一口すする。
「あー、これこれ。やっぱうまいっスわぁ」
翔太も舌なめずりをしながら箸を割る。まずは、麦とろご飯から。おそらく醤油ラーメンのスープで炊いてある、味のついた麦ご飯に、箸でつまめるほど粘りが強い擂ったとろろ芋がかけられている。卓上に備え付けられた出汁醤油を回しかける。もっちりとした味付きご飯、しっかりした粘りがありながらさらりとしたのどごしのとろろ芋。押し麦のプチプチとした食感がいいアクセントになっている。
「あー、おいしいわ。幸せやぁ」
次は濃厚和風醤油ラーメンバタートッピング。この、バタートッピング、というのがポイントである。元気屋の和風醤油をそのまま食べるてるのは素人。あれは駄目。バタートッピングした和風醤油は、全く別物になるのだ。芳醇な醤油の風味と甘み、和風と名はつくが魚介系の出汁は控えめで、むしろ動物系の出汁でがつんと濃厚さを演出している。そこにほのかに香るごま油と味噌が隠し味で、これらにバターのコクとまろやかさが渾然一体となってえもいわれぬ美味を作り出すのである。スープによく絡む中細ちぢれ卵麺と、柔らかなバラ系厚切りチャーシューがたっぷり四枚、細切りにした大根と糸唐辛子、刻み海苔のみというシンプルな具材が、スープとバターのハーモニーを引き立てる。こんなラーメン、元気屋以外じゃ絶対に食べられない。
「涙が出そうだ。うまいわ」
しばし、無言でラーメンをすすり合う。
翔太がふと、
「でもさ、さっきの話だけど。そうやって仕事の効率上げて、一人前にやれるようになってきたのに、なんでまた教師に転職しようと思ったのさ」
桜井がラーメンを咥えたまま顔を上げる。ちゅるんと飲み込み、
「オレ、やっぱり人が好きなんですよね。ベンダー補充の仕事もやりがいがないわけじゃなかったけど、誰かとコミュニケーションとる機会は、ものすごく限られてたから……。じゃあ、一番コミュニケーションが必要な職業ってなんだろう、って考えたときに、最初に思いついたのが教師だったんです。幸い、保健体育の教員免許なら持ってたので」
「なるほどなぁ。偉いなぁ。そりゃ、いい教師になるわけだわ」
「でも、まだ教採通ってないんですよ。今年の試験も来週発表ですけど、きっと駄目です。一次の筆記がとれないんですよね。オレ頭悪いから」
教採、というのは教員採用試験のことである。専門とする科目にもよるが、採用倍率はおよそ一〇倍。これをパスしないことには、待遇面でも仕事面でも不利な常勤講師を抜け出せないのである。
「桜井くんが頭悪いわけないと思うけどな。仕事ぶりとか見てたら、絶対賢いもん」
「勉強は苦手なんですよ昔から。特に暗記がだめだめ。一般教養も全然ないし。内田さん、確か一流大学出てましたよね。教採も大学院卒業後一発合格でしょ。勉強のやり方、アドバイスくださいよ」
「一流ってか……俺の大学が? 微妙だなあ。二流とまでは言わんけど、一.五流、て感じ」
「またまた。そんな謙遜、オレからしたら嫌み以外の何物でもないですよ」
桜井が口をとがらせる。大学の話になると、どうも、翔太は普通の反応ができなくなる。自分の中の劣等感とプライドと、優越感がごちゃ混ぜになる感じ。あまり好きではない感覚だ。自覚はないが、もしかしたら、工学系で大学院まで出たのに教師になったことと関係があるのかも知れない。きっと、トップクラスの成績で大学を修了していたら、エンジニアになっていただろうと思うから。教師になったのは、工学系で一流のエンジニアになる道を歩む自信がなくなったからだ。『教師にでもなるか』と考えなしに教師になった連中と『教師にしかなれない』というような無能な連中をひとまとめに『でもしか教師』などと揶揄するが、ややもすると翔太もその類いなのかも知れない。
「いいよ。夏休み中にちょっと見るから、今度、勉強に使ってる参考書と、今やってるやり方教えてよ」
「マジすか、やった! よろしくお願いします」
再び、沈黙のラーメンタイム。
翔太はかなり早食いで、桜井が半分ほどを食べたあたりで、すでに麦とろ飯もラーメンも汁まで綺麗に平らげてしまった。手持ち無沙汰になった翔太は、水を何杯か飲み干したり、高菜をつまんだりしていたが、ふと天井のブラウン管テレビを見上げた。
いつの間にか少年漫画のアニメは終わっており、関西出身の薄ハゲたフリーのアナウンサーがコメディアンとコメンテーターのあいのこのようなテンションで司会をする報道番組が流れている。
大きく破壊された学校らしき建物のVTRにナレーションが重なる。
『このような大きな『暴走事故(TRA)』が起こるのには、どのような背景があるのでしょうか。アメリカが抱える社会的な問題を反映していると主張する専門家もいます』
スタジオに戻される。司会者が目をつぶって殊更に神妙に、低い声でつぶやく。
『今回も死者一名、負傷者は四六名と、大変な被害が出ています……。亡くなられた方のご冥福と、負傷された方の一日も早い回復をお祈りいたします』
カメラがぐーっと寄ったところで、かっ、と司会者が目を見開く。
『さて、私思うんですけど、ニュースになるような大きな『暴走事故(TRA)』は、アメリカで集中的に起きているようにも思えるんです。コーヴィーさん、実際のところはどうなんでしょうか。アメリカは、来者にとって暴走しやすい環境といえるんでしょうか?』
日本の大学でアメリカの教育史について教えている臨時助教授という微妙な肩書きのコメンテーターが、片言の日本語でアメリカ国内の来者問題と諸外国との差異について語り始める。
「あ、また暴走したんスね。今度はボストンかぁ」
翔太の視線に気がついた桜井が、テレビを見上げてニュースの感想を述べる。
「ついこないだ、六月だったかな。ニューヨークでもありましたよね」
「六月一八日。ニューヨークじゃなくてニューヘブンの中学校だな。コネチカット州の」
「へぇ、内田さんよく覚えてますね。さすが」
確かに、五月からこっち、来者に関するニュースには敏感になっている部分はある。
「オレ未だによくわかんないんですけど、来者って。内田さん、本物見たことあります?」
「いや。大体、暴走するってこと以外、ほとんど人間と変わらないらしいしな。例えば隣のテーブルでラーメン食ってたとしても、誰も気がつかないよ。なんなら、遺伝子的にもほぼ変わらないから、交接して子供を産むことさえできるとか」
「『交接』って表現が、いかにも内田さんらしいっスね」
「……どういう意味だよ」
「いえ。そもそも、暴走の意味がよくわかんないです。ネットなんかじゃ、『スクープ! 暴走中の来者の映像』、なんつって低解像度のぼけぼけ映像がよく出回るけど、『なんかでかいやつがすごい速さで動いてる』ってこと以外、なんの情報も読み取れないっスもん」
「俺も、メカニズムとかをちゃんと理解してるわけじゃないけど、まさに、普段は全く普通の人間と変わらない来者が、あるきっかけで『でかくなってすごい速さで暴れる』ってだけだよ。どんな風に、どのくらいでかくなるのか、それは来者によって随分違うらしい。正体をカミングアウトする来者が少なすぎて、系統立った研究が未だ進んでないらしいよ」
「あるきっかけ、ってのは?」
「これも、来者によってそれぞれ。感情が大きく関わってるらしい、というくらいの情報しか出回ってない」
「なんか、一説によると、政府が来者関係の情報は徹底して握りつぶしてるって話もありますよね。都市伝説なのかも知れないですけど」
「案外、事実かもな。『暴走事故(TRA)』がこんなに海外に偏る理由がないもの。ひょっとして、日本では来者の『暴走事故(TRA)』が起こっても、交通事故やガス爆発として処理しちゃうのかも。それこそ、パニックを未然に防ぐため、なんて適当な理由でさ」
「なるほど。ありそうな話っスね」
桜井は麺と具をあらかたかきこみ、どんぶりを抱えて汁を飲み干す。
「ぷはー。うまかった。ごちそうさま」
続けざまにコップの水も一気に飲み干す。
「出ましょうか。なかなかやばい時間になってきました」
魚鷹フェリーの平日下りの最終便は九時発である。一五分前には乗船券を購入する必要があるから、ちょっと急がなければならない。
「……ん、そうだな」
生返事を返しながら、翔太はテレビを見続けている。
◎
魚鷹フェリーの鷹頭港発の最終便は、乗客の事前連絡で旅客船からカーフェリーへと変更されていた。旅客船と比べると、カーフェリーは最高速度も乗り心地も格段に落ちる。
翔太と桜井はガソリン輸送車と軽トラックが輪留めを施される作業を尻目に、狭い甲板を通って階段を上がり、客室へと乗り込む。薄暗い蛍光灯にぼんやりと照らされた室内は狭く汚く暑く、前後の間隔の極端に狭い座席シートの表皮は所々破れており、安っぽい黄色のスポンジが顔を覗かせている。おまけにエンジンのガビガビした排気音と振動がどうしようもなく室内に反響しており、アイドリングでこれだとすると航行中は一体どうなってしまうんだろう、と気が滅入った。
「甲板で夜の海でも眺めときますか」
桜井の提案で、船室を出てすぐの通路の手すりにもたれる。
フェリーが離岸するとエンジン音が一層高まり、大声を出さないと会話もできなくなる。
「そういえば! もう一個聞きたいことがあったんだ!」
離れていく高頭港の夜景を見送っていた桜井が、翔太の方に向き直る。
「なんですか!」
「桜井くんは、生徒指導なんかのとき、迷ったりすることないの!」
ちょっと考えて、
「そりゃありますよ! いっつも迷ってます!」
海の上を吹き渡る風が、汗ばんだ体からいい感じに熱を奪ってくれる。
「でもさ! 俺から見てると、ほとんどノータイムで正解を選んでるように見えるんだよ! なんか、コツでもあったら教えてくれないか!」
桜井はちょっと困った表情。
「コツっていうか、迷ったときはいつも、『生徒のための一番は何か』ってことに立ち返って選ぶことにしてます! 正解とかはよくわかんないですけど、そうやって決めると、後悔が少ない気がして!」
なるほど、これが桜井の『基準』というやつか。
「生徒のための一番……か」
翔太はつぶやき、フェリーにかき混ぜられてごうごうと泡立つ真っ黒な海面を見下ろす。
「なんですか!? もう一度お願いします!」
「いや! なんでもない! それよりさ、勉強見てあげる代わりに、俺の仕事のやり方、アドバイスくれよ! ベンダー補充スタッフのノウハウでさ!」
桜井は嬉しそうに笑い、
「いいですよ! なんでも聞いてください! オレも、生徒指導で行き詰まったら、内田さんに相談しますね! また元気屋行きましょう!」
「もちろん!」
◎
よく勘違いされることだが、高校教師に夏休みはない。
いや、一般的な意味の夏休み、つまり五日間の夏期休暇は与えられているし、年休と土日をうまく併用すれば、お盆の一週間+αくらいは休むことはできる。
しかし、翔太が高校教師だと知っているアパートの大家さんなどは、
「いいねぇ、先生は。二ヶ月も夏休みなんでしょ」
などと勝手にうらやんだりする。その度翔太は半ば辟易としながら、
「いやぁ、確かに生徒は来なくなりますけどね。仕事自体は、夏の間も毎日あるんですよ」
と答える。大家さんは、目を丸くしながら、それでも『教師の夏は楽でうらやましい』という主張を簡単には手放さない。
「あら、そうなの。でも毎日学校で何するの? 授業もないんでしょ?」
「そりゃ、生徒が来ていた時期に比べれば仕事は減りますが。二学期の授業の準備をしたりとか、たまってる仕事をやっつけたりとか、会議とか研修とか、やることは色々とあるんですよ」
「ふうん。先生も大変なのね」
一学期は毎週徹夜でした。三日にあげず特別指導がありました。ストレスで一〇円ハゲが三つもできました。夏休みくらい好きに休ませてくれ。本当はそう言ってやりたい。だが、仕事の苦労自慢をしても始まらないし、何よりも教師は職務上知り得た個人情報などを外部に漏らしてはならない。特別指導の件数などは、結構重要な情報である。狭い島内でそんな情報が漏れればあっという間に広まるし、噂の出発点は一瞬で特定されてしまう。それに、魚定の評判を内部から切り崩すような真似をしたくはなかった。仕事のあと、ヘトヘトに疲れながらも毎日登校して、真面目に頑張っている生徒だっているのだ。
桜井と二人で元気屋に行った翌日。
生徒が夏休みに入ってからも三者面談で生徒と顔を合わせる毎日だったが、やっとのことで面談からも解放されて、本当の意味でのんびりできる、大家さんのうらやむ教師の夏がやってきたのである。
例年なら、翔太は一週間ほどかけてたまっていた仕事を片付けたら、あとは適当にサボったり、年休をとったりして、一学期の間に消耗しきった体と心を癒す時間に当てていた。
しかし、今年の翔太はひと味違う。
今年の夏は、自分の仕事に革命を起こすのだ、と翔太は決めている。
まず、机の上を片付けることにした。
テスト前になぜか部屋の掃除をしてしまう学生の心理と通じるものがあるかも知れない。だが、桜井の仕事ぶりと自分を比したときに、もっとも顕著な差の一つが、書類管理・机整理の差であるような気がしたのだ。相談した結果、桜井も賛成してくれた。机や部屋の状態は、頭の中の状態と相関する、という考え方があるそうだ。机や部屋がぐちゃぐちゃな人の頭の中は、整理されておらずぐちゃぐちゃである、と。逆に机や部屋が綺麗に片付き、あるべき物があるべき場所に整理整頓されている人の頭の中は、常に整理された状態で、持てる能力を一〇〇%引き出せる状態になっている、と。
片付けを始める前に、翔太の机の上の現状を紹介しよう。まず、机の奥には机と同じ幅で、奥行きと高さがともに三〇センチほどの低い棚が置かれており、そこには参考書の類いや学習指導要領、指導上参考になる一般図書などが詰め込まれている。次、棚の上には棚に入りきらなかった本と、いつの、なんの書類かわからないプリント類とがミルフィーユ状に重なった層が二〇センチほど乱雑に積まれている。この層が二〇センチ以上にならないのは、定期的に雪崩を起こすからである。雪崩が手前に来た場合は、被害を被るのは自分だけだからまだいい。向こう側に雪崩れたときは悲惨である。
ちなみに、翔太の向かいに座るのは、生徒指導副部長の鷲尾彰史(わしおあきふみ)である。牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけており、しゃべるときには吃音が出るこの男は、三九歳にして教職二年目、つまり翔太の後輩である。元々十年以上、一般企業でシステムエンジニアだかプログラマーだかをやっていたらしい。現在の肩書き、生徒指導副部長は名ばかりで、実際には生徒指導部の仕事はほとんどしておらず、その仕事のほとんどはなぜか総務部の桜井が引き受けている。鷲尾は生徒指導緒副部長の他にもう一つ、『ネットワーク管理者』という肩書きを持っている。つまり、校内のネットワークやICT機器の管理を一手に引き受けているのである。要は転職前とやっていることがほとんど変わらないというわけだ。生徒嫌い、というのがもっぱらの噂で、授業中にそりの合わない生徒とトラブルになることも多い。基本的に、トラブルの原因は柔軟性に欠ける一本槍の対応であり、キャパを超える事態に対してはオーバーヒートしてヒステリーを起こす。陰では生徒のみならず教師からも『頭の中が古いPCみたい』と評されている。そんな鷲尾がPCで作業をしている上に本とプリントの雨を降らせればどうなるか。スズメバチの巣をぶったたくようなものである。
話を戻そう。
棚の前には支給品のノートPCが据えられている。USBハブやら、外付けのテンキーやら、カードリーダーやらの周辺期が配線とともにPC周りに散乱しており、まるでPCが切腹して内蔵をばらまいてうずくまっているように見える。
PCの右側には、現在抱えている仕事に関連する資料が、重要度や〆切に関係なく、適当に重ねられて置かれている。ひどいときにはこの書類の山が数センチの厚さにまで積み上がり、中から覚えのない依頼書や、〆切がとうに過ぎた提出書類などがゾンビのように立ち上がってきて戦々恐々とすることもある。
PCの左側は割合片付いていて、インスタントコーヒーの粉の入った小瓶とマグカップ、ボールペンなどの文房具がいくつか置かれているだけである。なぜなら、ここは左隣の養護教諭、中村との境界に近いから。中村ほどきつい性格になると、書類だろうが文房具だろうが、越境するそばからそれが何かを見もせずにすぐ下に置かれたゴミ箱に捨てていく。
これだけでは終わらない。
机に乗り切らない書類は、足下に置かれた段ボールの中に放り込まれていく。引き出しは全て書類や文房具でパンパン。どこに何があるのか、翔太にもわからない。夏休みを迎えて余裕を取り戻し、冷静になった今は、こんな環境で仕事をしようと思ってもできるはずがないよな、と心の底から思う。
桜井は言う。
「先に言っておきますけど、『どこに何をしまうか』なんて考えちゃ駄目ですよ。どだい、この量の本や書類を収納するスペースなんて、ないんだから。それに、結局一月もすれば元通り、となるのがオチです。考えるべきは、『何を残すか』です」
「え、どういうこと。他は捨てちゃうってこと?」
桜井は腕を組み、目をつむって何度も頷く。
「いやぁ、でも、一応、置いておいた方がいいんじゃない? いつか、必要になるかも」
桜井は右目を開き、書類の山に手を突っ込んで一枚のプリントを抜き出す。
「これはなんですか?」
「え。これは……七月の球技大会の要項、だな」
「これは、いつ必要になりますか」
「え? そりゃ……いつだろ」
「百歩譲って、必要になるときがくるとして、それは約一年後、来年の球技大会の要項作成のときじゃないですか」
「そう、かもな」
「そのときは、どんな風に要項を作りますか」
「そりゃあ、去年のデータを編集して……あ」
「そう、データがあれば、紙ベースで資料を残しておく必要性は、皆無、ですよね」
「……はい」
「例えばの話で球技大会を挙げましたが、実際はほぼ全ての資料は、置いておく価値のないものです。特に、データがデジタルで残っている場合には、紙の資料は無価値です。置いておく資料が多くなればなるほど、意中の資料にアクセスするのが困難になりますからね。仕事の効率を上げる一番の方法は、本当に必要なもの以外を全て捨てる、ということです」
「そうなのか。なるほど、勉強になる。じゃあ、まず何から手をつけたらいい?」
まず、段ボール箱を六つ用意。業務用トイレットペーパーの入っていた、でっかいやつ。
そしてその箱に左から『ほぼ毎日使用』『一年以内に使用』『一年以上使用なし』『ゴミ』『過去の書類』『未来の書類』と黒マジックで大きく書き込む。
「この、過去の書類、未来の書類ってのはなんなの? どういう意味?」
「〆切や、記載内容が過去のものと、未来のもの、という意味です。つまり、七月の球技大会の要項は過去。九月の体育大会に関する生徒会活動予定表は未来」
「なるほど」
「では、机が空になるまで、分類をしていってください」
半日年休をとっていた中村が出勤し、机をひっくり返す勢いの翔太を見て一言。
「内田先生、転勤すんの?」
机の上と下、そして引き出しの中まで完全に空になるまでに、実に五時間を要した。
「だー、疲れたー!」
最後のプリントを段ボールに放り込み、翔太は机に突っ伏した。
自分でも驚いたのだが、『ほぼ毎日使用』の箱の中に入っている文房具が、えらいことになっていた。
まず、はさみが四つ。みずのり二本、ホッチキス三つ、ホッチキスの替え芯一六箱、シャーペン八本、鉛筆七本、小さな鉛筆削り三つ、OPPテープ六巻き、マジックペン黒四本、赤三本、などなどなど。全て、翔太の机から出てきたものだ。
心当たりは、ある。必要なときにどうしてもみつからず、ひとっ走りコンビニまで買いに行く、ということを何度かした覚えがある。
それにしても。
桜井が段ボール箱を冷ややかに見下ろし、高らかに宣言する。
「では、『ほぼ毎日使用』と『未来の書類』以外は、全てゴミです。捨てましょう。もちろん、かぶった文房具も各々一つずつに減らします」
翔太は驚愕。だって、『ゴミ』と『一年以上使用なし』は、結構悩んで分類したのである。なら最初から、『ゴミ』だけにしておいて欲しかった。
翔太の表情を正確に読み取った桜井が、意地悪な顔をする。
「だって、『ゴミ』と『残すもの』に分類したら内田さん、なんでもかんでも『残すもの』に放り込むでしょ。それじゃ駄目なんです」
「待てよ、『一年以上使用なし』はわかったけど、『一年以内に使用』もゴミとは、どういう了見だよ。ちゃんと、使ってるのに」
桜井は『一年以内に使用』の段ボールに手を突っ込み、ビジネス書を取り出す。
「これ、いつ、何に使いました?」
「え、ちょっと時間ができたときにぱらぱらと読もうかと……」
「読もうかと思って?」
「……読んでません」
桜井、無言で手にしたビジネス書をポトリと『ゴミ』に落とす。
「ああっ」
「というわけで、年一回しか使わないものは、基本的に使わない、もしくは他で代用できるものばかりです。どうしても必要なものでも、使用頻度は低いわけですから、個人ロッカーへ入れておくなり、自宅に保管するなりしてください。少なくとも、デスクに置いておく必要はないですね。どうしても捨てられないものは、段ボールへ入れてロッカーへ。一年間存在を思い出さなければ、捨てましょう」
「……はい」
「では、必要なものを再配置しましょうか。いいでですか、再配置は片付けよりもずっと神経を使ってくださいね。どこに何を置くか、ここでしっかり考え抜くことで、時間が経っても散らかりにくい机にすることができます。物の定位置が決まっていることが、片付けやすい机の条件なんです。そして、この配置が仕事の効率も決める。よく使うものほど取り出しやすい場所に配置する。書類の一時保管所、定位置のないものの一時避難先を確保する」
翔太は泣きそうな顔になる。
「そんな、いっぺんに言われても無理だよぅ」
桜井はため息をつき、
「では、今回はオレのお勧めの配置にします。でも最終的な調整は内田さんがするんですよ」
そこから、物の再配置に一時間をかけた。
驚くべきことに、翔太の机の上から棚が消えた。積み上げられた本も、乱雑に重ねられた書類も、何もない。ただ、PCとワイヤレスマウスだけが、机の上に乗せられている。もちろん、机の下の段ボールは跡形もない。
三段ある右の引き出しは、一番上が文具(厳選したので引き出しの半分にも満たない)、一番下が書籍と書類。真ん中は、普段は空にして行き場のないものの一時避難先とした。センターの広い引き出しは、抱えている仕事に関連する書類をまとめて置く場所とした。左半分は〆切が一週間以上先のもの。右半分は〆切が近いもの。
「はあー。これが俺の机……」
翔太は、すっきりと物が減り、向こう側が見渡せる机を、不思議なものでも見るような気持ちで見つめた。
「環境が改善されて、うちも嬉しい。これまでは、衛生的にもどうかと思ってから」
中村の辛辣な言葉に、翔太が口をとがらせる。
「どうも、ご迷惑をおかけしましたね」
桜井がパン、と手を打った。
「さあ。机が片付いたところで。奥でご飯でも食べましょう」
◎
第二職員室の西奥にある扉を抜けると、給湯室がある。そのさらに奥の扉の向こうには、休憩室兼応接室。部屋の真ん中に大きなついたてが置かれており、手前側の休憩スペースには古いテーブルと椅子のダイニングセット、向こう側の応接スペースには古い、しかし上等な本革ソファと重厚なテーブルの応接セットが置かれている。
桜井がダイニングセットの椅子を引きながら、
「あれ、内田さん、夏休みもカロリーメイトですか」
「うん、なんか昼はこれ以外食べる気がしなくって」
普段、あまりの忙しさに夕食を食べる時間がとないことが多いため、翔太はめったにお弁当やパンなどを用意することはない。カップ麺やカロリーメイトなら、時間がなくて食べられなかったとしても腐らないから、重宝している。それに、カロリーメイトならかじりながら仕事を続けることもできるし。
翔太はコーヒーメーカーに二人分のコーヒー豆を計り入れながら、
「ほんと、ありがとな。助かったよ」
と礼を言った。
「礼を言うのはまだ早いですよ。これから、効率的に仕事を進める極意を伝授いたします」
「おお、楽しみ。桜井くんも忙しいだろうに、なんかごめんな」
「何言ってんスか。内田さんに余裕ができたら、こっちの仕事も手伝ってもらえるでしょ」
「あはは、任せて、手伝う手伝う。ほんと、ありがとう。また元気屋おごるわ」
「やった、あざーす!」
レンジがチン、と安っぽい音を立てる。桜井が立ち上がり、暖めたコンビニ弁当を取り出す。今日のチョイスはチキン南蛮弁当。
「あちゃ、漬物もタルタルソースもあつあつになっちゃった。ま、いいや。いただきまーす」
翔太は立ったままカロリーメイトをかじり、窓の外に目をやる。夏の日差しの下、魚島高校全日制野球部の坊主頭が白球を追っている。
コーヒーのいい香りが漂ってくる。
「コーヒー飲むだろ」
「あ、すんません。いただきます」
食器棚からカップを二つ取り出し、翔太はコーヒーを注ぐ。このコーヒー豆は翔太が選んで碾いたものである。強めにローストしたブラジル産のロブスタ豆で、深いコクと、やや強めの苦みが特徴である。アラビカ豆に比べると少し雑味があるが、翔太はコーヒーの酸味が苦手なのでこの豆を好んで購入している。ちなみに、コーヒーメーカーも翔太の自前のものである。
翔太も椅子に座り、二人してコーヒーをすする。
「はあ」
「うまいっスね」
カキン、とバットの金属音。
カロリーメイトを咥えた翔太がおもむろに、
「……ははふへほふひほははひはへほ」
「はい? なんです?」
カロリーメイトをコーヒーで飲み下す。
「片付けの次の話だけど」
「はあ」
「仕事はさ、どうやって効率化すんの? なんか、教師の仕事ってあんましやり方とか関係ないんじゃねーの、とか思ったりもするんだけど」
「ええ、そういう仕事もあります。例えば、授業とか、授業準備とか。あんまり効率ばっかり求めるのも違うかな、って思います。ま、オレは保健体育なんで、授業準備も知れてますけど」
「そしたら、分掌の仕事は? これは効率化できるの?」
「ああ、それならかなりの部分まで、やり方次第だと思いますよ。内田さん、TODOリストって使ってますか?」
「ああ、一応。TODOリストってか、業務日誌にやらなきゃならないことをリストアップしてるだけだけど」
「スケジュールは? 何で管理してます?」
「管理……というほどの管理はしてないな」
「手帳とかカレンダーとか、使ってないンですか?」
「一応、手帳も持ってるしグーグルカレンダーとかも使ってはいるけど……。仕事の予定はほとんど入れてないよ。だって、仕事なんて〆切に近い順からどんどん終わらせていくだけだから。スケジュールもくそもないっしょ」
桜井は深いため息をつく。
「……内田さん、元気屋でオレが話した内容覚えてます? スケジューリングが諸悪の根源、スケジューリングさえしっかりやってれば、仕事は時間内に終わる、って、そう言ったじゃないですか」
「……言ってたねぇ。でも全然イメージ沸かんのよ。具体的に、どうやるんさ。教えて」
「ちょっと待っててくださいね」
桜井は食べかけのチキン南蛮を置いて席を立ち、職員室の方へ。程なく戻り、
「これ、オレがこの一週間で書いたTODOリストです」
桜井が差し出したのは、A4サイズのミスプリを裁断機で四分の一にカットしたものをクリップで束にしたものだった。非常にコンパクトだ。翔太はA4サイズの大判ノートを業務日誌として使っているが、それでもタスクが書き切れないことがあるのに、桜井は一体どんなマジックを使っているのか。受け取ったリストをパラパラと確認する。
「な、これって、ほんとにTODOリストなの?」
「? どういう意味ですか?」
「だって、やるべきことがほとんど毎日終わってるからさ」
桜井から渡された裏紙には、毎日、八~一〇個のリストがチェックボックスとともに書いてあり、全ての項目にすでにチェックが入っていた。
桜井が、我が意を得たり、という顔でにんまりと笑い、
「そこ、そこなんですよ! 内田さんの仕事のやり方で見てて一番気になるのって、タスクリストなんです。やるべきことをわざわざリストアップするのって、なんのためだと思います?」
「え? そんなの、忘れないようにするために決まってるだろ」
「ぶぶー。不正解。逆です、忘れるために書くんです」
「全く意味がわからん。タスク忘れたら仕事にならんじゃないか」
「いいですか、大事なことなんで、よーく聞いてくださいね。例えばですよ。内田さんが、誰かに買い物を頼まれたとします。八百屋でトマトとレタスとキュウリと白菜とタマネギ買ってきて、と」
「トマトとレタスとキュウリと白菜とタマネギ、ね」
「で、それを買いに行く途中、別の人に、また買い物を頼まれた」
「どういう状況だよ」
「いいから最後まで聞いてくださいよ。新しく頼まれたのは、肉屋で豚バラ肉四〇〇グラムと鶏もも肉四〇〇グラム」
「豚バラ四〇〇、鶏モモ四〇〇」
「この状況、さて、内田さんなら、どうします?」
「とりあえず、二人目には文句言うな。今、八百屋にお使い行くとこなんだ、って」
「そういう話じゃないです」
「はい」
カキーン。空調で閉め切った窓の外から、小さくくぐもった金属バットの音。
「で、どうします?」
「ま、普通にメモするわな。とても覚えてられないし」
「そこですよ」
「? どこ?」
「今、内田さんは『覚えてられないからメモする』って言ったんですよ。つまり、買い物リストを作成する目的は、覚えるためではなく、忘れてもいいようにするため。タスクリストも、全く同じなんです」
「うーん。しっくりこんなぁ」
「じゃあ、こう言えばわかりますか。内田さんの今の仕事のやり方だと、八百屋にいるのに肉屋の買い物リストもずーっと確認し続けてるようなもんなんです」
「ええー? そんなことしてないけどなぁ」
「内田さん、一回内田さんの業務日誌も持ってきてくださいよ」
むむ。結構、人に言えない愚痴なんかも書き殴っているから、見せるのは正直恥ずかしいのだが。とはいえ、見せないわけにもいかない。翔太は渋々日誌を持ってくる。
「ほい。あんま、関係ないとこ見ないでくれよな。結構変なこと書いてたりするから」
「どんなこと書いてんですか。逆に気になりますよ」
翔太は、無難そうなページを選んで開き、桜井に見せる。一ページを一日分として使っているため、見開きでは二日分のタスクリストが確認できる。
「ほら、これ見てどう思います?」
翔太は改めて自分のタスクリストをまじまじと見つめる。
「うーん。俺って、なんて忙しいんだろう」
左のページ、六月末の火曜日の日誌で、期末考査一週間前である。タスクリストとしては、球技大会の要項作成、夏休みの動静表作成、化学、地学、生物の考査作成、三者面談の日程表作成、特別指導の経過まとめ作成、夏休みの就職面接練習の日程を組む、体育大会の日程確認、などなどなど、実に二一の項目が書き込まれている。が、これでも少ない方だ。もっと忙しい日はいくらもあった。
「確かに、抱えているタスクの量は魚定でも一、二位を争うところだとは思います。ただ、気がつくところがありませんか? さっきのオレのタスクリストと比べて」
翔太は手にした裏紙の束と、自分の業務日誌を見比べる。気がつくところも何も、
「全然違う。タスクの量が」
「そう! それなんです」
「……駄目だ、全然わかんない。どれなんですか。ただ単に、俺の方が忙しい、ってだけじゃないの?」
「では、今度は一週間分、消化したタスクの量を比較してみてください」
数えて、翔太は愕然とする。
「ええ! なんで? 桜井くんの方が倍近く多いんだけど!」
「もちろん、タスクごとに作業量やかかる時間は異なるため、単純な比較はできませんが、一週間で『達成』できたタスクの量に、差があるのは間違いありません」
「え、ちょっと待って、ついていけない。俺が全然仕事できないヤツってこと?」
「もちろん、違います。純粋な能力で言えば、つまり全く同条件で比べれば、内田さんの方が格段に上だと思います」
「じゃあ、なんで、俺の方が仕事進まないんだ? じらさずに教えてくれよ。教師の悪い癖だよ。なんでもすぐ、クイズにする。授業じゃねぇんだからさ」
「あは、それもそうですね。すみません。結論を言うと、オレは大きな仕事をいくつかのタスクに分けて、分けたタスクを細かく毎日消化していっているんです。一日のタスクは、その日に消化したい、その日のうちに消化できる分量しか書きません。だから、今やるべきことに最大限集中できるし、一日一日やるべきことを終わらせていくことができるんです」
「……えーと、つまり?」
「つまりですね。内田さんのリストにある『球技大会の要項作成』。これ、ほとんど丸々一週間、消されずに書かれ続けてますよね。これは、ほったらかしにしているんですか?」
「いやぁ、忙しすぎて手が出せない日もあったけど、ほとんど毎日コツコツ進めてるよ」
「仮にオレがこの仕事をやるとしたら、タスクリストに『要項作成』とは書きません」
「なんで?」
「仕事が大きすぎて、一日では終わらないからです。この仕事は、実際にどういう手順で終わらせましたか?」
「ええと、去年の要項を参照して、保健体育科の意向を確認、生徒会の意見も聞いて、結局生徒アンケートをやることになった。アンケートの結果、球技を決定して、もっかい保健体育かに確認。場所と道具の確保を依頼して、審判等の配置を話し合って、それでどうしたかな。そうか、この辺で一回、校運で承認をもらったんだ」
校運というのは『校務運営委員会』である。要するに、管理職と各部部長で構成される、学校運営に関して話し合いをする組織のことである。
「当日の日程と、各競技の回し方を考えて、教員の配置を考えて、生徒の参加競技をLHR(ロングホームルーム)で決めてもらって、それから完成版の要項を作り始めた。要項は、『競技の進行』、『教員配置と役割分担』、『各生徒の競技別名簿』の三枚」
「膨大ですね」
「膨大だな」
「ざっと整理しても、『体育科との折衝』、『生徒会との折衝』、『役割、名簿関係の作成』、『競技の進行について考える』の四つの仕事がありますよね。オレは仕事をもらったときに、こんな風に『仕事』を『タスク』に分解していくんです。『体育科との折衝』はさらに、『ざっくりとした意向の確認』、『実現可能な競技、不可能な競技の確認』、『審判の依頼』、『場所と道具の確保の依頼』などに細かく分けられますよね。大体、一つのタスクが三〇分以内に終わるくらいまで細かくするように心がけてます。あとは、スケジュールに大まかな仕事の〆切を書き込む。そして、その〆切に間に合うように、細かいタスクを一日の中に入れていくんです」
「……なんていうか、ものすごい手間に感じるんだが……」
「まあ、しんどいですよ。ただ、オレも全ての仕事を分割して書き出しているわけじゃありません。慣れてる仕事なら、どれぐらいのタスクで構成されている仕事か、肌感覚で覚えていますし。ですが、初めて引き受ける仕事に関しては、しっかり時間をかけて計画を立てるようにしています」
「そんなことしてる暇があれば、さっさと仕事にかかった方がよかないか?」
「そこです。その考えを改めないと、いつまでも仕事は終わらないですよ。内田さん、ベンダー補充スタッフになったばかりのオレと同じことを言ってますよ。当時の先輩は、オレにこう言いました。『毎日丸太をのこぎりで切ってるヤツがいる。でも切れ味が悪いのこぎりを使っているので、ちっとも仕事が捗らない。『のこぎりを研いだらどうですか?』と声をかけたら、そいつはこう答える。『そんなことしてる暇があれば、ちょっとでも切った方がいいだろうが!』……どう思う?』って」
「あほですね」
「オレも、そう答えました」
「内田さんのリストを見ると、一週間の間ずーっと消えていないタスクが他にもいくつもありますよね。これが、細かく分解しなくちゃならなかった仕事です。どうすれば毎日少しずつでも進めていけたか、考えてみてください」
「なるほどなぁ。確かに、ずーっとおんなじタスクが二週間も達成されずにリストに居座り続けてるときがあるもんな」
「それは、ある意味最悪の状態ですよ。八百屋で野菜を一つ選ぶごとに、肉屋のメモも確認してるようなもんです。『やばい、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ』と気ばかり急いて、今やっている仕事の効率がものすごく落ちるんですよ。だから、実際に取りかかるまでは、むしろ他のタスクは忘れた方がいいんです」
「勉強になります。他には? なんか気づいたことある?」
「ありますけど……、内田さんって、本当にすごいですね」
「……? すごい?」
「ええ、すごいです」
翔太はわけがわからない。散々、仕事のやり方がまずい、という話をしているのに、何がすごいというのか。
「すごい……バカ?」
「ふふっ。違いますよ。自分の非を認めて、改善していこうという姿勢があるのが、すごい、って言ったんです。だって、普通は、自分の仕事のやり方が悪いと思っても、人にどうやったらいいか聞くのってすごく勇気がいると思うんです。特に、内田さんみたいに頭がいい人や、すでにものすごく頑張っている人って、そのやり方を否定されるようなことを言われると、存在そのものを否定されるような気になるじゃないですか」
「ああ、確かに悔しいな、とは思うけど。でも、なんだろう。桜井くんの言い方がうまいのかな。俺のことを下に見てたり、バカにしてたりっていう空気を全然感じないから。むしろ、俺のためにすごく時間を割いてくれているし、親切にわかりやすく説明してくれるし」
「だから、それは内田さんがものすごく穏やかに、誠実に話を聞いてくれるからですよ。内田さんがちょっとでも嫌そうな顔をしたり、不機嫌になったりしたら、オレだってお節介焼くのやめようかな、って思いますもん」
「机の断捨離は、すごく嫌そうな顔でやってたと思うけどな」
「ははは、確かに」
そこで、桜井はふと真面目な顔になった。
「先生は、すごいです。尊敬します」
翔太はくすぐったい。
「よせよ、恥ずかしいじゃんか」
しかし、やはり嬉しい。腹の底がじんわりと暖かくなるような感覚。
翔太は思う。こういう真っ直ぐなところ、誠実なところが、桜井が生徒たちに好かれる一番の理由なんだろうな、と。ただの真っ直ぐではない。ただの誠実ではない。『生徒にとっての一番を考える』という、確かな『基準』が、それらの美点にしっかりとした芯を持たせるのだ。
翔太は思う。自分にも、『基準』が欲しいな、と。
「で、他に気になるところ、っての、教えてよ」
「いいですよ! ……内田さん、リストの中から、どういう順番でタスクに手をつけていきます? つまり、優先順位の話なんですけどね――」
◎
ヒグラシの鳴く声がする。
断続的な沢の水音に、ざぶり、ざぶりと川の中を歩く足音が二人分。
前を行く松田を見上げ、翔太は感嘆する。さすが沢登りの玄人、きっちり浮き石を避け、苔の浮いた岩は踏まず、高低差の少ない最も疲れにくいルートを自然に選び取って歩いていく。足取りは軽く、翔太は離されないように意識してペースを維持する必要がある。今年で六五歳のはずだが、嘘なんじゃなかろうか。技術だけではない、明らかに二〇代の翔太よりも体力がある。なんと言っても渓流釣り歴五〇年の大ベテランである。翔太は松田のあとを追い、綺麗にトレースすることだけを考えれば、最適な沢歩きを体で覚えていくことができる。
チラリと時計を見ると、午後五時を回ったところだ。日暮れにはまだ間があるが、谷間を流れる渓流の日暮れは早い。それに、上空にせり出すように木々の枝葉が覆い茂っており、木漏れ日がわずかに届くだけの渓流は、すでに夕闇の匂いを漂わせていた。
ずる、と足を滑らせて、翔太は立ち止まる。危ない。
松田が立ち止まり、振り返る。
「大丈夫かぁ」
「はい、平気です」
翔太は沢靴と呼ばれる、滑りにくくぬれてもすぐに乾く沢登り専用の靴を履いているが、気をつけていても、苔でぬめる川底はどうしたって滑る。
しかし、松田は滑らない。それはもう、信じられないくらい、滑らない。翔太は何度も渓流へ一緒に釣行しているが、足を滑らせているところを一度も見たことがない。本人は、
「担任した生徒は、受験で随分滑らせたがな!」
がはは、と笑う。親父ギャグでは見事に滑っている。
足の裏、そして左右の脚の荷重の分配が最適化されている、というのは大きい。まさにベテランの技である。加えて、履いているものが特殊である。なんと、地下足袋に本物の藁で編んだわらじを履くのである。昔の渓流師や鮎師はみんなこのスタイルだったらしい。
「結局、これが一番滑らねぇよ。一日で駄目んなるんで、みんな敬遠しちまうがな」
ちなみに、わらじは松田が自分で編んでいる。今回の釣行では、予備も含めて八足のわらじを準備してきていた。
「ここらで野営の準備して、釣りして飯にすっか。そろそろ暗くなりそうだ」
松田が、ちょっとした河原に上がりながら言う。
渓流でのキャンプは、テントの設営場所に気を遣う必要がある。少しの雨でも鉄砲水などの可能性があるため、川に近すぎては危険だからだ。
当面は雨の予報ではなかったが、松田と翔太は少し歩き、川床から一メートル以上高くなっている場所をみつけた。テントを二張り張るにはかなり狭い小場所だが、贅沢は言えない。そもそも、渓流の最上流域には河原らしい河原はほとんどなく、どうにもテントが張れずに木々に渡したロープでタープだけを張ってその下で寝ることもあるくらいだ。今回はテントを張るスペースがあるだけまだましだろう。
手早くテントを立て終えた松田が、
「テン場はここでいいけどよ。焚き火はもっと川のそばでやろうや」
と言い、腰を伸ばした。松田のテントは『ツェルト』と呼ばれる登山用の簡易テントで、基本的には三角柱のテントの形をしたただの防水布である。自立させるような骨組みなどは一切ない代わりに、畳めば五〇〇ミリのペットボトルよりも小さく収納できるし、何より軽い。しかしその分設営の難易度は非常に高い。立木や倒木、ロープをうまく組み合わせて、ただの布をテントの形に張っていくのである。
「相変わらず、すごい手際ですねぇ。惚れ惚れします」
松田は、その高難易度テントを、翔太の安物のドームテントとほとんど変わらないくらいの時間で設営し終えてしまった。つまり、一〇分程度である。これはすごい。翔太も、ツェルトが欲しいな、と思った時期はある。しかし、うまく設営できる気がしない。今はまだ、ぼろのドームテントで十分である。死ぬほど重く、持ってくる荷物の約半分を占めるほどかさばるが。
「じゃ、釣りますか」
渓流ではリールを使わない延べ竿と呼ばれる釣り竿を使うことが多い。竿、糸、針だけのシンプルな仕掛けに、ごく軽い錘をつけて釣る。糸に目印をつける場合もあるが、松田も翔太も目印なし、手元でアタリを感じる脈釣りが好きだった。松田に至っては錘さえ一切つけない。餌の重みだけで魔法のように仕掛けを振り込んでいく。
未明から一〇時間以上登り続けてやっと到達したここは渓流の中でもかなり山深い場所にあたり、近年は渓流釣りをする人が減っているということもあって、人が入った形跡はなかった。
魚は、面白いほどによく釣れた。しかもどれも型がよく、丸々と肥えていた。
三〇分ほどで夕食はもちろん、翌朝の分まで十分に食材が確保できたので、まだ暗くはなっていないが、焚き火を始めることにする。
乾いた枯れ木を集める。川そばにごろごろと落ちている手頃な岩でかまどをこしらえる。木にナイフで何度も薄く切れ込みを入れて毛羽立たせる、フェザースティックという火口を作る。メタルマッチで着火。渓流では頭から水をかぶることも珍しくない。ぬれたら使えないような着火用具は心許ない。その点、メタルマッチはぬれていても軽く拭いてやれば問題なく火花を飛ばしてくれるので重宝する。
辺りが暗くなり、火が落ち着いたところで一息つく。翔太の入れたコーヒーを二人で飲みながら、水音に耳を澄ませる。。
「こないだ電話で言ってたな。なんか、仕事がうまく行き出した、ってよ。いい感じか?」
松田が焚き火に薪をくべながら言う。
「もう、劇的ですよ。聞いてくださいよ。ほんとに、変わりました」
机の大整理をした日から、間にお盆休みを挟んで二週間以上経っていた。
「カレンダーを活用するようにしたんです。それから、優先順位の付け方に注意しました」
「ほう」
松田はこう見えて、相当の聞き上手である。こちらが話をしている間、絶対に遮らない。絶妙なタイミングで相槌を打ち、的確な質問でこちらの話題を引き出してくれる。
翔太は自分の仕事ぶりがどう変化したか、一息に話した。
まず、時間のかかる仕事については細かいタスクに分解する癖をつけ、カレンダーにタスクごとの〆切を記入した。そして、業務日誌に書き込むタスクは、勤務時間内で終わる分だけにセーブした。
たったそれだけでも、全く仕事の進み方が違った。今までは、やってもやってもタスクが消えない、終わらない、という泥沼のような状況だったが、一日のタスクを厳選するだけで、本当に平均で一〇~一五もタスクをこなせるようになった。もちろん、授業のない夏休みだからこその数だとは思うが、去年の夏休みを振り返っても、ここまで仕事が捗ったという印象はない。そして、それがどんなに簡単なタスクだとしても、達成したタスクにチェックマークを入れるのは、快感だった。自分が仕事をコントロールしているんだ、という実感があった。その快感が、その実感が、もっとタスクをこなしたい、というモチベーションにつながった。
今思えば、今までの翔太のタスクの優先順位ははっきり言ってめちゃくちゃだった。
桜井のアドバイスにより、優先順位は『緊急度』と『重要度』で決めるようになった。
緊急度、重要度ともに高いものがもちろん第一優先。例えば、〆切が翌日に迫った学校行事の要項作成や特別指導案件への対応などがそれだ。
次に、緊急度が低くて重要度が高いものを第二優先にする。これは、〆切がまだ先の重要書類とか、授業の準備のブラッシュアップとか、生徒一人一人の指導方針を考える、などである。どれも重要ではあるが、今日やらないといけない理由はない。特に意識をしないと、緊急度が高くて重要度が低いもの、例えば従事時間申告書や長期休暇の動静表などのどうでもいい書類作成などを先にやってしまいがちだが、これらはあえて後回し。
そして、緊急度も重要度も低いタスクをできるだけしないように気をつけた。例えば、教育活動に一切関連しない無意味な雑談や、目的のないネットサーフィン、メールやSNSをチェックする時間などである。
机の中もPCの中も整理整頓されていて、欲しい資料に一〇秒もあればアクセスできる状態が維持できている。持っていない資料は一秒で「持っていない」と言えるようになった。すると、頭の中も整理され、業務日誌もシンプルで無駄のない状態が維持できるようになった。毎日のタスクが確実に消化されていき、終わらないと思っていた大量の仕事が、いつの間にかどんどん片付いていく。残業も休日出勤もなくなった。
まるで、生まれ変わった気分だった。桜井には感謝しかなかった。
八月、お盆前。一週間ちょっとで、山積みになっていた仕事の大半を片付けることに成功した翔太は、余裕を持って二学期の授業準備をした。この時期に先々の授業準備をしているなんて、今までの翔太では絶対に考えられなかった。
「なるほどなぁ」
「ほんと、桜井先生には感謝ですよ」
松田はウェストポーチからシガリロを取り出し、一服つける。甘い煙が辺りをたゆたう。
「そらおめぇ桜井もだが、ほんとにすげぇのは、内田、おめぇだよぅ」
翔太は目を丸くする。松田が桜井と同じことを言ったからだ。
「なんでまた。俺なんか、全然すごくないですよ」
「おめぇ今年でいくつんなる」
「え、えーと、二八になる歳です」
「二八ったらおめぇ、社会人として、ぼちぼち一人前になる歳じゃねぇか」
「そうですね」
なのに、やっとまともな仕事のやり方を覚えた、と言って喜んでいるのである。次元が低いな、と少し悲しくなる。
「普通よぉ。世の中の二八なんてのは、大学出て、ちょっと社会を経験してよ。酸いも甘いもかみ分けた、みたいな顔してるヤツが多いんさ。『結局、世の中はさ』とか、『畢竟、人間ってやつは』なんてことを訳知り顔で語るんだ。まだひよっこに毛が生えたような若造がだぜ」
「はあ」
話が見えない。
「そこいくとおめぇは、真顔で『自分なんてまだまだ』と言える。人に教えを請える。臆せず自分を変えていく勇気を持ってる。詰まるところ、成長していく人間と、停滞する人間の差ってのは、そこにしかねぇんだわ。自分はまだまだだと思って変化していけるかどうか。おめぇは、自分の変化を止めるつもりは、全くねぇだろ?」
翔太は黙って頷く。
「おめぇみてぇのが職場にいると、なんつうのかな。風通しがよくなるんだ。新しい空気を呼び込んでくれる。特に、教育なんてめちゃくちゃ惰性が強いからな。ちょっと油断すると、すぐに空気が淀むんさ。そうすると、教師も生徒も腐ってく。自分たちでも気づかないくらいゆっくりな。覚えとくといい。人でも組織でも、現状を維持しようとすると、ちょっとずつ悪くなってくんだ。常に今以上を目指して変化し続けるヤツにしか、現状維持はできねぇんだよ」
翔太は目を輝かせて膝を打つ。
「あ、それはわかる気がします。生命維持の基本は新陳代謝、ってことですよね。常に新しい細胞に入れ替わることが、現状維持の条件だと。動的平衡ってやつです。なるほどなぁ!」
「んー? なんか全然違う気もするが……、ま、そういうことにしとくか」
「変化、新しいことへの挑戦、か。なんだか、やる気が出てきました! ようし、九月の体育科大会は、一発なんか新しいことをぶち上げてやろうかな!」
「おー、いいじゃねぇか。それでこそいい体育大会になるってもんよ」
松田がシガリロの吸い殻を焚き火に放り、そろそろかな、と手近な焼き魚の串を手にとる。
「そういえばおめぇ、桜井ってのに、勉強は教えたんかい」
翔太も魚に手を伸ばし、
「あれ? 俺、そんなことまで言いましたっけ?」
「電話で言ってたぜ。仕事教えてもらう代わりに勉強教えるんだ、って」
「いやぁ、勉強教えるってほどのことは何も。ちょっと暗記のコツを教えただけです」
「なんて教えたんだい。興味あるな。聞かせてくれよ」
「……なんか、釈迦に説法な気もしますが……」
外見からは全く想像できないが、松田は実は、日本でもトップレベルの超一流大学を卒業している。教師としてのキャリアも比べものにならない。勉強法など、翔太より余程詳しいのではないかと思えるが……。
「わしの場合は……やり方を言葉にして他人に伝えるのが下手なのよ。担任してるときはそれで随分苦労したよ。もどかしくってなぁ。しまいには『先生は特別だから俺の気持ちなんてわかんないですよ』なぁんて言われたりな。で、教えてくれよ。暗記のコツ」
「ええと、俺のやり方は、とにかく復習する、ってやつです。当たり前すぎてアレですけど」
「いいじゃねぇか王道で。どんな風にやんだい?」
「まず、覚えたいものを五分くらいで復習できる分量に分割するんです。実際、俺は単語帳なんかはバッサリ裁断して一ページずつバラバラにしてました。んで、そいつをレターボックスに入れるんです」
「レターボックス?」
「よく事務用品売り場で見かけるスチール製の五段のやつです。んで、上から順に『毎日』、『週一回』、『二週間に一回』、『月一回』、『覚えた』ってシールを貼るんですよ。あとは、覚えたいものを『毎日』の段に入れて、毎日見る。覚えてきたら『週一回』の段へ。で、どんどん復習の頻度を減らしていくわけです。最終的に『覚えた』に入ったものは、節目節目に総復習する、と」
「なるほどなぁ。分散学習、ってやつだ」
「ぶんさん? なんです?」
「最新の教育理論だよ。エビングハウスの忘却曲線は知ってるだろ」
「ああ、翌日には八割くらい忘れてるけど復習することで定着度が増す、ってあれですね」
「そうだ。あれに関連した研究でな。一定時間集中して勉強する集中学習と、短時間ずつ分散して勉強する分散学習、どちらが定着率が高いか、という実験をしたわけさ。そうしたら、同じ時間だけ勉強するなら、分散学習の方が定着率が高かったそうだ。つまり、定期的に復習してやることが、暗記の基本ってこったな。考えてみりゃあ当たり前のことだが」
「先生、本当に人に伝えるの苦手だったんですか? ばっちり理論武装できてるじゃないスか」
「バカ、こんなの生徒相手に効くかよ。エビングハウスだ、分散教育だ、なんて言ったって、生徒は『はぁ?』ってなもんよ。生徒に届く言葉ってのは、難しいよ。理論武装して話すより、一つの経験談を臨場感たっぷりに語った方が、ずっと効果あんだよな」
「そんなもんですか。俺は、今のとこは定時制でしか教えてないんで、まだちょっとよくわからんですね。でも、だったら、先生の経験談を話したらいいじゃないですか。駄目ですか?」
「……俺は古い人間だからよ。勉強なんて根性、暗記はひたすら繰り返し、口に出す、紙に書く。問題集は一冊を三周、四周……。そんな体育会系な勉強法、今の生徒は見向きもしねぇよ。レターボックスでもなんでもいいからなんか、そういうキャッチーなもんがあるとよ、生徒も『やってみようかな』なんて思うんさ」
「レターボックスがキャッチーかどうかは意見が分かれるところだとは思いますが……」
パチッ、と焚き火の中で薪が爆ぜる。ぱっと舞う火の粉が美しい。
上を見上げれば、左右からせり出した木々の枝葉の形に切り取られた夜空に、信じられない密度で星々が輝いている。
渓流を流れる水の音。そこかしこから聞こえる虫の音。時折はっとするほど涼しい風が吹き、木々の葉がさわさわとこすれる。
松田が低く、心地よい声で、教育について語る。
翔太は頷き、負けじと熱く語り返す。
焚き火を囲む教育談義の終わりは見えない。
渓流の夜は更けていく。
◎
魚島高等学校の、第二職員室がある第二普通教室棟は、通称『定時棟』と呼ばれる。その名の通り、定時制課程の授業で使われる教室が集まっているからである。一階には東から第二職員室、応接室、給食室、生徒指導室、職員用トイレがある。
生徒指導室というと物々しい感じがするが、実際は名ばかりで、普通教室と同じサイズの教室に長机とパイプ椅子を詰め込んだだけのごく普通の部屋だ。しかも、半分近くのスペースが書類棚で区切られて倉庫として使用されており、入学式の看板やいつ何に使ったかも知れない巨大なひょうたんの張りぼてなどが所狭しと置かれているため、非常に雑多な印象を受ける。
善良な生徒がそろう進学校などでは、生徒指導室がこういう状態になっているのはよくある話である。使用機会がめったにないからだ。下手をすると、生徒指導室という部屋そのものがなかったりする。
では、魚定の生徒指導室はなぜ、こんななのか。
答え。生徒指導が多すぎるから。
生徒指導の基本は、『複数の教員による聞き取りを個別に、そして同時に行う』である。単独で対応しては、『言った』『言わない』の水掛け論になってしまうし、同時に聴取しないと口裏合わせをされる危険もある。日常的に生徒指導案件が起こる魚定では、事情聴取は複数同時に行われるのが茶飯事で、それはつまり、複数の部屋が同時に生徒指導室としての役割を果たさなければならない、ということでもある。生徒指導室以外にも、例えば給食室、応接室、職員室の片隅、図書室、保健室など、他の生徒を閉め出せる場所でありさえすれば、即、生徒指導の現場に早変わりするのが魚定である。従って、むしろ職員室やHR(ホームルーム)教室からも遠く、使い勝手の悪い『生徒指導室』が、どんどん『倉庫』になっていってしまうのは自然の摂理と言っていいかも知れない。
夏休み最終日、生徒の登校しない魚定における生徒指導室は今、『会議室』になっている。
「そもそも、なんで去年から変える必要があるんですか。例年通りなら、職員も生徒もみんな慣れてるし、トラブルが起こる可能性も低いでしょう? 私の知る限り、この五年間はずっと同じプログラムでやってますよ。徒競走、リレー、綱引き、大縄跳び。これで勤務時間内にしっかりトラブルなく終えられることがわかってるんだから。なんで変えるんです? まず、指導部が変えたい理由を言ってくださいよ」
浅井教頭の隣、パイプ椅子にふんぞり返るように発言したのは高田修二郎(たかだしゆうじろう)である。白髪交じりの髪をきっちりと整髪した五〇がらみのベテラン社会科教師。総務部長を務めており、職員会議の司会進行役でもある。
高田の隣、英語教師で教務部長の東間大輔(あずまだいすけ)が挙手。人差し指で眼鏡を直しつつ、
「じゃあ、変更の意図を聞きましょうよ。生徒指導部としては、どうして変更したいと考えているんですか」
東間の向かいに座る翔太は反射的に発言しそうになる。が、求められているのは生徒指導部の見解である。生徒指導部長が答えるのが筋だろう。翔太はチラリと鬼谷に視線を送る。
「えーとそれはその」
野太いガラガラ声で情けない声を上げ、翔太に横目で助けを求める。
確かに、新競技の導入を発案したのは翔太である。でも、指導部会議では鬼谷も賛成していたではないか。胸を張って、しっかりと変更理由を答えてやって欲しいものである。
「……楽しい……から?」
今、会議で諮られているのは、『魚定リレー』という新種目を体育大会に導入するか否か、という議題である。魚定リレーの中身は完全に小学生の障害物競走である。パン食い、借り物、小麦粉の中から手を使わずにあめ玉を探す、などなど。翔太が夏休みの後半を返上して考えた肝いりの新種目であったのだが……。
東間がもったいぶった口調で、
「……楽しい。……楽しい、ね。あのね、体育大会は楽しいとか楽しくないとか、そんな理由でコロコロ種目を変えたりしないんですよ。そもそもうちは体育大会であって体育祭ではないんです。体育の一環でやる学校行事であって、楽しければいい、というもんじゃぁないんです。つまり、鬼谷先生の領分ですよ。体育教師なんだから。普段の体育で培った力を披露する場ととらえれば、楽しいから種目を変えたい、なんて話にはならないと思うんですけどね」
「でも!」
思わず翔太が声を上げる。
「確かに、体育の一環としての体育大会、ととらえれば、そういった考え方もできるかも知れません。しかし、昨年、一昨年の生徒の参加率を鑑みれば、内容を再検討してもよい時期に来ているのではないかと私は思います!」
ちなみに、昨年、一昨年ともに、体育大会当日の生徒出席率は六割に届かなかった。もちろん、普段の出席率もいいとは言えない状況だが、これは目に見えて低い。
東間が少しひるむ。が、高田がすかさずフォロー。
「走るのが嫌だという理由で欠席する生徒が、小学生並のくだらない新種目で出席意欲をかき立てられるとは思えないね」
「くだらないって言わないでください!」
突然、大声を出したのは、中村だった。生徒指導部生徒会担当として、翔太と一緒に新種目の案を練ってきた。
「くだらないなんて、言わないでください……! 私たちは真剣に、もっといい行事にしようって、一生懸命考えてるんです。あなたたちみたいに……去年と一緒でいいや、なんて腐った考え方してる方がよっぽどくだらないっ!」
怒りと悔しさから声が震えている。最後の一言は明らかに言い過ぎだが、翔太は嬉しくなる。
高田が顔を真っ赤にして言い返そうとしたその一瞬前に、山崎愛理(やまさきあいり)が口を開いた。
「あ、あ、あの……」
国語の常勤講師二六歳の山崎は、三年生を担任している。
高田、そして東間が、教務部の常勤風情が何を言う気だ、という視線で殺しに来るが、山崎は気づかない。長い前髪と眼鏡で視線を隠している。
「あ、あ、あたしは、楽しい行事、好き……でした」
一瞬、場にいる全員が、きょとんとした。
自分が高校生のときには楽しい行事が好きだった、という山崎の愚にもつかない発言を、一瞬、全員がどう扱っていいかわからなかったのだ。
翔太は山崎のその発言を、援護だととらえた。
「ね、そうですよ! やっぱり、行事は楽しくないと! 生徒のモチベーションアップを狙うことが、結果として、体育の一環としての体育祭、違った、体育大会のクオリティを上げるのにもつながりますよ、きっと!」
東間もあとに引かない。机をばんばんばんと叩きながら、
「だ・か・ら! 小学生レベルの新種目が生徒のモチベーションアップにつながるのか、って話ですよ!」
「そんなの、やってみなきゃわからないじゃないですか!」
「やってみました、大失敗でした、では済まないんだよ、教育ってもんは!」
「生徒のことも考えないで、どの口が教育を語るんですか! 毎年毎年『例年通り』で一体どんな教育効果が見込めるってんですか?」
「おう、言いやがったなこのやろう。てめぇ、おれぁ今年三九だぞ、なんだって一〇コ以上したの若造に、そんななめた口きかれなきゃならねんだ!」
「仕事に年齢なんて関係ないでしょ! 年上なら年上らしく、含蓄のあるいい意見を言ってくださいよ! 二言目には小学生並、ってあなたの発言が小学生並じゃないですか」
「おーおー、もう怒ったぞ。いいよ、やるならやれよ、そんかしおれぁ一切手伝わねぇかんな」
「あーもー、なんでそうなるんですか! それこそ小学生じゃないですか!」
議事進行を担当する高田か、管理職である浅井教頭が止めるべきなのだ。
しかし、高田はもっとやれ、という顔で野次を飛ばしているし、浅井は汗をかきかき、ひたすらことの成り行きを見守っている。
ちなみに、生徒指導室にはクーラーなどという気の利いたものは存在しない。全開の窓と大きな工場扇だけが暑さに対抗する手段である。
そもそも、今日の議題に関しては、昨日の校務運営委員会で事前に協議されており、浅井教頭と生徒指導部長の鬼谷はもちろん、総務部長の高田と教務部長の東間もすでにこの体育大会新案には一定の了承をしているはずなのだ。きっと、新案が気に食わなかった高田と東間が、職員会議の場でひっくり返してやろうと画策したに違いない、と翔太は思う。だったら、校運で反対すればよかったのだ。それをしなかったのはきっと、校長の手前、校運でもめるのは避けたかったのだろう。本当に器が小さい。
いつものこと、ではある。
基本的には、会議で発言する人間は限られている。ここまでヒートアップすることはまれだが、高田、東間、そして翔太が『よく発言する人間』であり、故に『よく衝突する人間』でもあった。保守派とでも言うべき高田、東間に対して、大した経験も知識も実力もないまま、生の疑問を容赦なくぶつけていく若手の翔太は、いい意味でも悪い意味でも目立っていた。今回は特に、翔太は引く気がない。自分が引いてしまっては、生徒指導部の虎の子、体育大会新案が潰されてしまうのだ。
喧々諤々の議論が続き、何も決まらないまま会議開始から二時間以上が経過した。
教頭に促された議事進行の高田は、時間だから、というバカみたいな理由で、議論が煮詰まらないまま採決。
結果、六対四で新案が採用された。反対者は高田、東間、桜井、鷲尾。ちなみに教頭の浅井は投票していない。生徒指導副部長でありながら反対した鷲尾は重大な裏切りをしたことになるが、『頭の中が古いPC』と揶揄される彼のことだから、体育大会を新しくアップデートする容量がなかったのだろう。それよりも翔太が気になるのは、桜井である。ずっと隣で翔太や中村が一生懸命、新案を作り込む作業を見てきたはずである。まさか、反対されるとは思っていなかった。
会議終了後、職員室までの道すがら桜井に声をかけようとした翔太だったが、高田と東間に先を越された。桜井は二人に挟まれ、曖昧な笑顔を浮かべたまま、高田と東間の新案に対する不満に相槌を打っている。
桜井が一瞬、翔太に視線をやり、そして、ひどく傷ついたような表情になった。
翔太は、はっとする。ひょっとして、自分は今、ものすごく攻撃的な表情を浮かべていたのではなかろうか。
慌てて表情を改めて、翔太は桜井を見やる。が、桜井はすでに元の笑顔に戻っており、その視線は二度と翔太に向かなかった。
その日はその後、自席に戻っても、桜井と話すことはなかった。
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