『魚島高校定時制の日常』
県立魚島高等学校には職員室が二つある。一つ目は、その名も第一職員室。収容人数(キヤパ)が五〇の、ごくありふれた職員室だ。対して、第二職員室は収容人数(キヤパ)一五である。なぜ職員室が二つ必要かというと、ここ魚島高校には、二つの課程があるからである。第一職員室を使用するのは全日制課程、そして、第二職員室を使用するのは定時制課程の職員である。定時制の職員総数は教頭・教諭・常勤講師・養護教諭・校務員合わせてもたった一一名である。第二職員室は一般的な教室ほどの大きさしかない。そこに、東西に二つの島型対向式レイアウトでデスクが配置されている。東は教頭、教務部長、総務部長など七つのデスクからなる、通称『教頭の島』。西は、生徒指導部長、進路指導・人権部長など八つのデスクからなる、通称『指導部の島』。
『指導部の島』の西側の北から三列目が内田翔太の席である。
「で、昨日はそのまま出勤したんスか? 行ったんでしょ、キャンプ」
翔太のデスクの右隣、保健体育科教師の桜井天真が、担任する一年生の出席簿をチェックをしながら聞いてくる。
「いや、朝九時くらいに一回帰ったよ。んで、風呂入って着替えて昼前に出勤」
定時制高校の一日のスタートは遅い。一般的な全日制高校では教員の勤務が大体八時からで八時過ぎには生徒が登校し始めるのに対し、定時制高校では教員の勤務は午後一時から始まり、生徒が登校するのは午後五時過ぎである。つまり、授業のあとに放課後がある全日制とは異なり、授業開始前に四時間ほどの時間(便宜上『放課前』と呼ばれる)があるわけだ。従って、翔太はキャンプ終わりに風呂に入ってからでも、十分出勤時間には間に合うのだ。
「ふへー。よくやりますね」
桜井は基本的には知的でスマートな印象の爽やかイケメンだが、短髪と意志の強そうな太い眉毛だけはしっかりと体育会系をアピールしている。元々、大学卒業後は別の仕事をしていたらしいが、教師を目指して一念発起、昨年から魚島高校定時制で常勤講師として勤務しながら教員採用試験に挑戦している。体中から発散される明るいはつらつとした雰囲気と熱い情熱から、『太陽のような男』という表現がぴったりくる。ものすごく若く見えるが、実際は翔太と同じ二七である。『教職歴が長いから』という理由で翔太に対して敬語を使っている。
「内田さんってどの辺に住んでるんですっけ」
「魚定(うおてい)と東岸壁の間くらい。どっちに行くにも歩いて一〇分くらいかな」
『魚定』とは魚島高校定時制の通称である。愛称といってもいいが、なんだか食堂の昼のサービスメニューみたいな響きなので、生徒たちはあまり気に入っていない様子。ちなみに、全日制の方の通称は『魚高』である。
「魚鷹フェリー乗り場までも一〇分な」
魚鷹フェリーとは、魚島と本州の鷹頭(たかとう)を約三〇分で結ぶフェリーのことである。
「オレん家はほとんど島の反対側ですからね。バイクで二〇分はかかるかな」
桜井は島の出身で、今も実家から通っている。卒業高校も魚高である。ちなみに乗っているバイクはヤマハのSR400。
桜井が時計を見上げる。
「あ、そろそろ生徒が来だしますね。校門立ちますか」
校門で立ち番をしていると、ぞろぞろと生徒がやってくる。自転車に乗ってくる者、歩いてくる者、色々である。原付で登校する者もいる。県内の公立高校は一九七〇年代から盛り上がった『バイクの免許をとらせない』『バイクを買わせない』『バイクに乗らせない』という社会運動、いわゆる『三ない運動』の名残で、原則としてバイクの免許取得や運転、所持を認めないという校則を持つが、魚定では例外的に、原付の所有及び通学使用を認めている。なぜなら島内で仕事を持つ生徒は数十㎞離れた職場から学校まで移動せねばならず、魚島内の移動に関しては原付にでも乗らないと話にならないからである。なお、同じ理由で高校在籍中の車の免許の取得も認めている。もっとも、在校生のほとんどは一八歳未満であるため、車通学ができる生徒はごく限られる。
そのとき、ぶぉん、と排気音を轟かせながら、堂々たる車体のクルーザータイプのバイクが校門をくぐった。長く角度を寝かせたフロントフォークにリアサスはリジット、ペラペラのシングルシートというロー&ロングのお手本のようなスタイル。見たところタイヤもフレームもフルサイズで、おそらく全長は二.五メートル近くあるだろう。しかし、バイクのリアにつけられたナンバーは原付のそれである。つまり、この巨大なバイクは排気量が五〇CCのれっきとした原動機付自転車だということだ。一見して車種がわからないのは、フレームは自作、タンク、フロントフォーク、スイングアームやホイールは他車種(その多くは大型バイク)からの流用という超・超カスタムバイクだからだ。登録車名はなんとホンダ・エイプ。本来は全長一.七メートルほどのこぢんまりとしたストリートタイプの原付である。
バイクを駐輪場に駐めてゴーグルとダックテールヘルメットを取り去り、オールバックになでつけた長髪をかき上げて校門の方へ向かって歩くのは、バイクの持ち主にして魚高定時制四年、矢沢琢磨(やざわたくま)である。切れ長の三白眼、整髪剤でなでつけた長髪、今日は綺麗に剃っているが、気分次第でひげを生やすその外見は、乗っているバイクも相まっていかにもワル、という風貌だが、その性格が存外真面目で、素直でかわいいところがあることを翔太は知っている。
「うぃーす」
立ち番の教員に声をかけ、琢磨は校門の外に出て、ポケットからくしゃくしゃのマールボロを取り出し、一〇〇円ライターで火をつける。大きく一吸いし、西に傾きかけた太陽に向かって煙を吐き出す。
魚島高校定時制は卒業までに四年を要する。最高学年である四年生の矢沢は、入学時点ですでに一七歳、いわゆる過年度生だった。現在二一歳の矢沢に対してはもちろん喫煙の権利が認められている。もっとも、高校は敷地内禁煙だから校門の外に出てもらう必要はあるのだが。
「今日は仕事どーやった」
オイルで黒く汚れたつなぎを着た琢磨に桜木が声をかける。魚定に制服はない。学校が始まるギリギリまで仕事をしており、仕事着のまま駆けつける生徒も珍しくない。
「宮本さんが見たことない外車のRV持ち込んでさ。オイル漏れするっつーんで見たらオイルパンが割れてやんの。ガレ場でも走ったのかな、あのおっさん。こんなの島内修理できないってんのに、宮本さんが『タクちゃん頼む、なんとかして』ってごねて大変だったよ」
鼻から煙を吹き上げ、トン、と灰を落とす。ちゃんと携帯灰皿を持ち歩いているから見上げたもんだ。
琢磨は昼間、島内唯一の自動車整備工場で働いている。勤務態度は良好で、工場長の親父さんからも常連客たちからもタクちゃん、タクちゃんとかわいがられているらしい。溶接板金塗装整備何でもござれで、先のクルーザーバイクは全て自身でカスタムしたという。もっとも、整備士の資格はまだ持っていないから、お客さんの車をいじるのにかなり制約があり、高校卒業後は自動車整備の専門学校に進む予定だ。
「へー、んで結局どうしたの」
「本州のディーラーに問い合わせたらオイルパン単体で部品が出ねーっつーからよ。シリンダーブロックのパーツセット(ASSY)ごと取り寄せ。部品代だけで一三万、送料六万。バカかって話」
琢磨と同じくバイク乗りの桜井は、ときどきこうやって二人にしかわからない話を楽しそうにしている。聞けば、桜井のSRも、琢磨が整備しているらしい。
と、遠くから明らかにサイレンサーつけてません、という感じの直管サウンドの爆音バイクが二、三台近づいてくる音が聞こえてきた。翔太はよく知らないが、コールというのか、独特の調子をつけてアクセルを煽っている。
「あれってめちゃくちゃエンジンにダメージくんだよなー。かわいそーに」
長く煙を吐いて、酷使されるバイクに同情する琢磨。
思わず耳を塞ぎたくなる爆音とともに姿を表したのは、三段シートにアップハンドル、バカみたいに長細いロケットカウル、極めつきは旭日旗に特攻服の、コスプレか? と思うほどベタな昭和暴走族ルックの少年たちだった。もちろん、全員ヘルメットなどしていない。
いや、違った。先頭二台の中型バイクに乗る六人(なんと、それぞれ三人乗り!)はそうだが、後ろを蛇行運転する二台の原付スクーターは、ヘルメットをしていた。翔太は目を剥く。なんと翔太のクラス、二年生の生徒だった。
左側、きたねぇ紫色に自家塗装されたヤマハ・ジョグZRに乗った金色の半ヘルが、赤井亮(あかいりよう)。ヘルメットのあごひもは留められずにぶらついており、事故ったら〇.一秒で吹っ飛んでいくだろう。かぶってる意味はあるのか。
右側、どこで転けたのか、遠目にも左半分がガビガビに傷ついているのがわかるシルバーのホンダ・ライブディオZXに乗った黒い半ヘルが、青山優作(あおやまゆうさく)。こちらはあごひもをちゃんと留めている。留めているが、ヘルメットは頭に乗せず、パーカーのフードよろしく後頭部から後ろにずり落ちている。あごひもはがっつり首にかかっており、ある意味これはノンヘルよりも危ないんじゃないのか。
『魚島の赤青コンビ』といえばこの二人のことを指すが、『バカあほコンビ』とも呼ばれていることに、果たして本人たちは気づいているのか。
「ごるぁああ! お前ら! 待たんかいごらぁ!」
ゴリラのごとき雄叫びを上げながら、逃げ出すノンヘルバイク二台をバタバタとサンダル履きで追いかけるのは生徒指導部長・鬼谷巌(おにたにいわお)だ。一目で体育教師とわかる風貌のこの筋肉ゴリラ、御年五二歳にして独身、しかも正規採用されていない常勤講師である。なぜ結婚しなかったのか。なぜ採用試験に合格しなかったのか。その経歴は謎に包まれている。単にがさつで無能なばかりに、したくてもできなかったのだ、というのが身も蓋もない翔太の見立てである。
何食わぬ顔で校門をくぐるバカあほコンビに、担任として一言もの申してやらねばなるまい。翔太は駐輪場に原付を駐める二人のところへ歩いていく。
「おいお前らっ、あんなんとつるんでたらな、お前らもそのうち警察に補導されるぞ!」
優作は翔太に一瞥をくれるも、亮の方は完全に無視。翔太の頭に血が上る。
「おい待てこらっ!」
亮の歩く先に回り込む。亮が舌打ちし、立ち止まる。目からレーザー光線でも出るのかというほど、翔太をにらみつけてくる。
「ヘルメットもちゃんとつけろよ。あんなかぶり方で事故のときに役に立つと思ってんのか」
亮が無言で右脇を通り過ぎようとするので、右に一歩踏み出してガード。逆に左脇を通り過ぎようとするので、もちろんそちらもガード。
「っとうしいなっ!!」
吐き捨てるように亮が言うと、優作が翔太をにらみつける。
もちろん、二人とも感情に任せて殴りかかってくるほどバカではないが、爆発しそうになる感情をうまくコントロールできるほど利口でもない。
亮が優作にアイコンタクト。二人して、踵を返して駐輪場の方へ歩いていく。
「おい、ちょっとどこ行くっ!」
翔太があとを追う。
「帰る」
亮が振り返りもせず短く答え、携帯電話を取り出して電話をかけた。相手はすぐに出る。
「おう。学校だるいからふけるわ。走りに行こうぜ」
「待て待てっ! せっかく来たんだから授業受けていけよ!」
優作が立ち止まり、振り返って翔太をにらみつける。
「お前どうしたいんだ。なんで俺らにそんな絡むんだよ。めんどくさい。ほっといてくれ」
「からっ……!」
翔太としては教師として当然の指導をしているつもりである。それを『絡む』と表現されてはたまらない。
「お前らこそ! 授業受けるために……卒業するために学校来てるんじゃないのかよっ! まだ五月なんだぞ。一年のときとは違うんだ。こんなことばっかしてたら、絶対進級なんかできねーかんな!」
亮、優作は、翔太のことは無視して、原付のメットインからヘルメットを取り出す。
と、そのとき、
「内田先生、一限授業でしょ? もうすぐチャイム鳴りますよ。行ってください。僕話しときますから」
桜井の声。
一瞬、自分のクラスの生徒のことだから、自分で最後まで面倒を見ないといけないのではないか、という考えが頭をもたげたが、それよりも亮、優作とこれ以上話をしているとこちらがキレてしまいそうな予感がしたので、翔太は素直に桜井に任せることにする。
「そう? なんかすんません。こいつらいっつも迷惑かけて……。もう、帰すなら帰してもらっていいからね。ほんまめんどくさい……」
思わずイライラが口から言葉になって出てしまう。優作が一瞬こちらをきつくにらみつけるのを視界の隅でとらえたが、翔太は気がつかなかったふりをして黙ってその場を立ち去る。
あの二人、赤青コンビがどうにもかわいくない、憎らしくてしょうがない、というのが目下の翔太の悩みである。
クラスの生徒は好き嫌いなく、公正公平に扱わなければならない、との思いが翔太にはある。しかし、そう思えば思うほど、亮、優作の扱いにくさが先に立つ。一方で、桜井のようにうまくコミュニケーションをとれている教員だっているのである。正直、自信をなくしてしまう。
◎
五時半から始まる一時間目と二時間目の間には、二〇分のホームルームがある。一日の授業は四時間目まで。明日に備えて帰る者、遊びに出かけるもの、部活動に精を出す者など、みな思い思いに放課後を過ごす。
本日の一時間目、翔太は四年生に地学基礎の授業をした。最近はどうにも仕事が忙しすぎて、授業準備がまるで回っていない。かろうじて準備してきた付け焼き刃の内容を、薄く引き延ばして命からがら五〇分を駆け抜ける自転車操業だ。もっとも、生徒にしても大学受験をするわけでもなく(卒業生のほとんどが就職か、専門学校への進学である)、しゃかりきになって授業を進める意味も薄い。ある意味WINWINの関係ともいえる。もっとも、こちらの無気力さが伝わっているのか、生徒の授業態度は寝る、私語する、携帯電話を触るなど、もはやなんでもありである。四年生なんかはまだ、目の前に卒業というでっかいにんじんがぶら下がっているのでこちらの言うこともある程度聞いてくれるが、一年生や二年生になると、ときには騒ぐ生徒を注意するだけで一時間が終わってしまうことすらある。
とはいえ、今日の一時間目は特に問題なく終わってくれた。さすが四年生。
二〇分のホームルームのため、翔太は担任する二年生の教室へ急ぐ。
ホームルームでは通常、生徒の正確な出欠をとり、様々な連絡をし、気になる生徒とコミュニケーションをとる。しかし魚定では、定時制ならではの特徴がある。
給食があるのである。
パン一個に牛乳のみの簡単なものだが、先述の通り仕事場から直行で空きっ腹を抱えて授業を受けている生徒も多い。みんな、実にうまそうにパンを食べる。
翔太の担任する二年生は、一クラスのみで人数は二四人。元々、一年から四年までを含めた全校生徒が六九人の、小規模な学校である。さて、今日は何人の生徒が登校してくれているだろうか……。
翔太が二年生の教室の扉を開けると、入れ違いに五名の生徒が飛び出ていく。すれ違いざま、翔太の抱えているカゴから、給食のパンと牛乳を抜き取っていく。その先頭は、赤井、青山である。あいつら、結局授業に出たのか。さすが桜井先生だな、と思う。
ふと見ると、赤井がパンを二個持っている。
「あっ! こら! 一人一個だ、バカ!」
追いかけようとするも、教室内から声がかかる。
「翔太、はよパンくれよ!」
翔太は自分のクラスの生徒から『翔太』と呼び捨てされている。一年目の最初の一ヶ月は呼ばれる度に注意をしていたが、今ではすっかり諦めてしまっており、むしろ親愛の証だと自分に言い聞かせている。
仕方なく、追いかけるのを諦めて教室に入り、群がる生徒を押しとどめて一人ずつパンと牛乳を手渡す。幸いというべきか、四名登校していない者がいて、パンが足りない、という事態は回避。ゴールデンウィーク明けとしては、まずまずの出席率だといえるだろう。
最初に出て行った五名の行方が気になる。ホームルームにいないのでは、大事な連絡ができない。何よりも、こうしてホームルームの間、抜けた生徒たちがどこで何をしているか、である。大抵、三時間目の頭に少し遅刻しながら帰ってくるときには、全員が煙の匂いをまとわせている。校外ならともかく、敷地内、下手をするとトイレなどの校舎内で喫煙している可能性すらある。そうなると、法令違反、校則違反だけではなく、火災の心配さえ出てくる。
「先生、パンもう一個食べてもいい?」
一応、翔太のことを先生、と呼んでくれる生徒も、少数だがいるにはいる。今、二つ目のパンを所望しているのは野田芽衣(のだめい)という女生徒である。長い前髪もひっつめてポニーテールを結んでおり、広い額とつり上がった細い眉、鋭い三白眼が特徴的。思いついたことは口にしないと気が済まない性格で、根は明るいが友人は選ぶタイプ。実際友人は少なく、少なくとも翔太の見る限りでは、今も隣にいる関亜香梨(せきあかり)以外と話しているところは見たことがない。
「ねえ。いい? わ、三つもあんじゃん。ラッキー亜香梨も食べるよね」
勝手に二つのパンをとる芽衣。亜香梨の意思は確認しない。いつもこんな感じだ。亜香梨は自分の意見を積極的に口にしないタイプで、常に周囲に合わせて行動しているイメージだ。もっとも、そんな亜香梨だからこそ、我の強い芽衣とうまくやっていけるのかも知れない。
そんなことより、給食だ。今、出席が確認できない四名は、欠席連絡が入っていない。つまり、遅刻で登校する可能性がある、ということだ。
「ちょっと、だめだめ。遅刻で来たら困るから。置いといたげて」
芽衣は引き下がらない。
「えー、でも、ホームルームまでに登校しない方が悪いじゃん。それに、さっき見たけど、赤井も二つとってたし」
う。それを言われるとつらい。
「わかった、じゃあせめて、他にも欲しい人がいないか聞いて、いたらじゃんけんにしよう」
芽衣はさっとパンを三つ取り上げて、
「パンのおかわり欲しい人!」
と大きな声を出した。教室にまばらに散らばった生徒は、一瞬芽衣の掲げるパンを見るが、名乗り出る者はいない。
「よっし、決まりね」
と、芽衣の前に濃い紺色の作業着を着た男が立った。藤堂仁(とうどうじん)。背が高い。芽衣も女子としてはかなり背の高い方だが、並んで立つと芽衣が随分小柄に見える。過年度生として入学した仁は、二年生にしてすでに十八歳で、体の大きさは魚定一である。肩まで伸びた長髪。前髪に隠され、顔は半分も見えない。昼間は鉄工所で働いている。顔の皮がひび割れるほど日焼けしているのは、アーク溶接の紫外線による溶接焼けらしい。無口な男で、入学当初は唯一、友人と呼べる同級生がいたが、一年生のときに事件を起こしてすでに退学しており、現在はクラス内で仁と口をきく者はほとんどいない。
「何、藤堂さんも欲しいの? でも、ちょうど三つだからよかった」
余ったパンの行き先も平和に決まり、一安心。しかし、こうも生徒がバラバラになっていては、連絡をしていいものか……。まあ、連絡事項を黒板に書いておけば、ここにいない連中もあとで見るか。そう思い、翔太は教室の後ろの黒板にいくつかの連絡をチョークで書き付ける。
「ざっす」
「うっす」
「おはよう」
「ざいますっ!」
突然、クラス内に挨拶の声が上がる。普段、人に対して挨拶をしない生徒も多い。そういう生徒も、例外なくしっかり挨拶をする相手がいる。
翔太は連絡を書く手を止め、教室内を振り返る。
織田洋介(おりたようすけ)がいた。
魚定二年生のスクールカースト、ヒエラルキーの頂点に君臨する男。
でかい。身長は仁の方が大きいが、体重は明らかに洋介の方が上である。脂肪も乗っているが、明らかに筋肉量が違う。その胸板の厚さ、肩幅の広さは圧倒的な戦闘力を体現している。まさに、戦わずして己の強さを相手に伝える体だといえるだろう。実際、戦っても無敗であるらしい。その体格と粗暴な性格から、陰で『おりた』ならぬ『ゴリた』、もしくは単に『ゴリ』と呼ぶ者もいるが、本人の耳に入れば確実にくびり殺される。短く刈りそろえた金髪が、周囲を威圧するように今日も雄々しく逆立っている。
洋介の後ろに、『虎の威を借る狐』を絵に描いたような腰巾着が二人、何が嬉しいのか、ヘラヘラと調子に乗った表情をしている。金髪ピアスが沢村一樹(さわむらかずき)、金髪デブが寺西祐樹(てらにしゆうき)。
三人は自席に荷物を置くと、翔太の方へ歩いてくる。
「おい」
洋介は翔太のことを『先生』とも『翔太』とも呼ばない。一年生の頃から折り合いが悪く、翔太の指導に対して洋介は反発ばかりしている。名前も口にしたくないほど、嫌われているのかも知れない。赤青コンビに加えて、この金髪トリオも翔太はかわいいと思えず、対応に苦慮していた。
「おはよう。遅刻でも、よく来たな」
翔太としては、精一杯ポジティブな声かけをしたつもり。ちなみに魚定では、『こんばんは』の時間でも慣例的に『おはよう』を使う。確かに、学校に『こんばんは』は馴染まない。
洋介がチラリと空のカゴを見て、言う。
「俺らの給食は」
翔太は瞬間的に頭に血が上るのを感じる。
急いで芽衣、亜香梨、仁を見るが、すでにパンは跡形もない。亜香梨だけが、気まずそうに目をそらす。
金髪トリオがそろってじっとこちらを見つめてくる。翔太は努めて平静を装いながら、頭はフル回転。
考えろ。どうする。他の学年の余りを回してもらうか? いや、欠席連絡の入っている分は、すでにおかわりで消費され尽くしているだろう。素直に謝る? 足下見られるだけだ。芽衣のせいにするか? バカ、んなことしたら担任としての信用が地に落ちる――
洋介は何も言わず、じっと翔太の目を見つめる。その視線を意識して、翔太の頭の回転はどんどん空回りになっていく。
コンビニでパンでも買ってきて許してもらうか? ふざっけんな、なんで俺がゴリの分のパンを買わなきゃなんないんだ。そもそもこいつらが遅刻したのが悪いんじゃねぇか――
「おいおいもしかしてないのか? こんなこと許されるのかよ」
金髪ピアスの一樹が、挑発するような調子でわざとらしく大きな声を出す。反射的に、翔太はたった今考えていたことを口にしてしまう。
「そもそも、遅刻するのが悪いじゃないか。給食が欲しいなら、ちゃんと一時間目から登校しろよな」
場の空気が一変する。しまった。地雷を踏んだか。
「だとこらぁ! 一時間目から登校しろ? 給食のあるホームルームにはちゃんと登校してんだろーが! なのになんで給食がねぇんだってんだよ! こっちは給食費払ってんだよ。金返してくれんのか、ああ?」
金髪デブの裕樹が口の端に泡をためながら、翔太に食ってかかる。
その裕樹をずい、と押しのけ、洋介が一歩踏み出した。さらに場の空気が重くなる。洋介はむしろ穏やかな口調で、
「俺ぁ確かに遅刻したけどよ。だけどな。ちゃんと理由があんだよ」
どうせ大した理由ではあるまい、と翔太は高をくくる。
「ちゃんとした理由? 何だよ言ってみろよ」
翔太の態度を見て後ろの一樹が色めき立つ。
「マジでなんなんだよお前! なんでそんな偉そうなんだよ!」
少なくともお前よりは偉いよ、と思いながら翔太は一樹をにらみつける。
「洋介さんも、言ってやってくださいよ!」
焚きつけるように裕樹が言う。
しかし洋介は淡々と、
「俺は今日、バイトだったんだよ」
だからどうした、そんなのみんな一緒だよ、という言葉を翔太は努力して飲み込む。これ以上怒りの炎に油を注ぐのは得策ではないことくらい、翔太にもわかる。ちなみに、金髪トリオは島内唯一のラーメン店でアルバイトをしている。金髪でも採用される飲食店が信じられない。翔太は一度もそのラーメン屋には行ったことがないし行きたいとも思わない。
「夜のシフトのバイトが風邪で休んで、仕込みの人数が足りなかったんだ。んで、いつもは四時半には上がるところ、店長にせめて六時まで残ってくれないか、って頼まれたんだよ」
洋介の低い声は次第に太く、大きくなっていく。
「俺は、一人で残るから、お前らは行け、って言ったんだ。だけど、こいつらも残ってくれた。いつもは食ってくるまかないも、今日は食えずに来てんだよ。腹すかせて、それでも学校にこれ以上遅れちゃいけねぇ、って真っ直ぐ飛んできてんだよ。んで給食がねぇだと? 遅刻する方が悪いだと? ふざけんじゃねぇよ。ふざっけんじゃねぇ!」
最後の叫びは雷鳴のように教室中に響き渡った。
再び静まりかえる教室。翔太はすでに自分の発言と態度を後悔していたが、もうあとには引けなかった。
「なら、事前に学校に連絡を入れておくんだったな」
ここまでくれば、こちらとしてもあくまで正論で叩き潰すしか道はない。
洋介は手近な机を思い切り蹴倒した。幸い誰にも当たらなかったが、大きな音を立てて机と椅子がいくつか倒れる。
「おいっ! なんで物に当たる――」
翔太が言い終わる前に、洋介が翔太の胸ぐらを思い切りつかむ。足は浮かないまでも、すさまじい膂力を感じる。鼻と鼻とがくっつきそうなほどの距離。洋介が大声で怒鳴る。
「こっちはなぁ! 延長がわかった時点で! ちゃんと電話してんだよ! 知りもせずに適当なこと言ってっと殺すぞてめぇ!」
翔太は完全に思考停止。校門での立ち番から授業、そしてホームルームまで、ずっと職員室にいなかったから、その間に入った生徒からの遅刻連絡を知らなかったのだ。それなのに、連絡を入れていないことを確定事項のように断言してしまったのは、明らかな失策だった。
しかし、翔太の正論モードは止まらない。ほとんど自動的に、対教師暴力、対教師暴言だ!と叫びそうになったところで――
教室の扉が乱暴に開かれた。
「そこまで! 離れて離れて!」
桜井が駆け込んできて、洋介と翔太の間に割って入る。誰かが通報したか、大声を聞きつけてきたか。一気に場の空気が弛緩する。
途端に、一樹と裕樹が桜井に甘えた声を出す。せんせー、こいつマジむかつくんだよぉ。俺らのことなんにも知らねぇくせに偉そうに決めつけてバカにしやがってよぉ。しかもパンねぇってなんなんだよ。こんなの納得できっかよぉ。
洋介は黙って翔太を見つめている。その視線に、怒りよりも哀れみが多く含まれているような気がして、翔太はカッとなる。
「桜井先生! 対教師暴力ですよ! ほらこのボタン見てよ胸ぐらつかまれてちぎれたんだよ! しかも『殺す』って! 立派な暴言じゃないですか! おかしいですよ! なんで教師がこんなこと言われなきゃいけないんだよ! なんなんだよこの学校!」
◎
四時間目、魚島高校第二職員室、指導部の島。
翔太は安物のオフィスチェアをギシギシ言わせながらだらけている。両足を投げ出し、お尻が座面からはみ出るほど浅く腰掛け、全体重を背もたれに預ける。
あのあとすぐ、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。とてもじゃないが授業ができるような状況ではなかったが、幸い、次の授業は翔太が担当する化学基礎だった。しかも、桜井は授業がない空きコマ。桜井に間に入ってもらっての話し合いは一時間続いたが、翔太に対して暴言を吐いた金髪トリオ、パンを食べた芽衣、亜香梨、仁、亮、そしてパンを食べる許可を出した翔太が相互に謝罪することでなんとか丸く収まった。腹立たしいのはことの発端を作った亮である。あいつが最初に無断で二つのパンを持っていかなければ、こんなことにはならなかったのだ。ホームルームを抜けていた五人は、二時間目開始から一〇分ほど遅刻して帰ってきた。もちろん、煙草の匂いを体中からプンプンさせながら。だったら喫煙で指導すればいい、と思うかも知れないが、甘い甘い。やつらは目の前でまさに煙草を咥えている現場を押さえない限り、やってません、知りません、の魔法の言葉で逃げ切ってしまう。匂いだけでは物的証拠にはならないのだ。では、遅刻したことを咎めて指導すれば、とも思うが、今度は、お腹が痛くてトイレに行っていました、だ。嘘だと決めつけるわけにも行くまい。
もう幾度目か知れないため息をつく。
右隣、桜井は現在一年生の保健の授業中である。翔太はぼんやりと天井を見上げながら、桜井が不在でよかった、と思う。今は桜井に対して、感謝と尊敬と妬みと嫉み、ポジティブな感情とネガティブな感情が混沌と渦を巻いていて正直、どんな顔をすればいいのかわからない。
職員室に戻ると、翔太は教頭の浅井から叱責を受けた。
「せんっ、そんなんでは困るでっ! なんでその場で勝手な判断をするんや。学校のシステムでは、そういうトラブルがあったときは必ず個別に話を聞かなあかんねや。それが生徒指導の鉄則やで。トラブル起きたら当事者を引き離して複数の教員で話を聞く。それで集めた情報を元に、指導委員会が指導方針を決める。前にもおんなじこと言ったやろ、せんっ、勝手に動いたら、あかんで! そもそも、トラブルがあった時点で私と指導部長に報告やろっ! せんっ、『ほうれんそう』って知ってるか。報告連絡相談や。しっかりしてや。そんなんでは困るでっ!今回はたまたま桜井せんがうまくまとめてくれたけど、そんなんぎりぎりの橋ですわ。教諭の内田せんがもっとちゃんと現場を仕切ってもらわな、困るでっ」
そう。そうなのだ。翔太は教員採用試験の狭き門を突破した、県に正式採用された『教諭』なのである。対して、桜井先生は単年度契約の臨時職員、『常勤講師』である。通常は、正規の職員である『教諭』が、臨時の職員である『講師』をサポートしてしかるべきなのだが、翔太と桜井ではその関係が完全に逆転してしまっているのである。
ため息。
「随分堪えてるみたいね」
翔太の自席の左隣、中村紗季穂(なかむらさきほ)が翔太に声をかける。
翔太は視線だけ中村に向け、
「なんか、自己嫌悪で……」
「教頭のことはあんま気にしなくていいんじゃない? だって、報告したらしたで、あの教頭と指導部長じゃ、まともな判断なんてしてもらえるとは思えないじゃん」
中村は養護教諭、いわゆる『保健室の先生』である。しかし、保健室を開けると授業をサボって入り浸る生徒が大量発生するので、普段は保健室を施錠しておき、こうして職員室で待機している。体調不良者やけが人が出たときに、保健室を開けて対応するのである。
「桜井先生に任せるのが最善策だって、うちも思う」
中村の言葉がぐっさりと翔太に刺さる。やっぱり、桜井先生のサポートなしじゃ、俺は駄目なのか、とさらに落ち込む翔太に、
「そもそもパン、なんで食べさせたんよ。そんなん誰が考えてもトラブルの元じゃん」
とどめを刺しに来る。
非常にサバサバした性格で、歯に衣着せぬ物言いが生徒に人気の中村だが、翔太は正直苦手なタイプだった。女性はもっと奥ゆかしくて穏やかな、優しい感じが好き。例えば、同期採用の国語教師、三年担任の山崎愛理(やまさきあいり)みたいなタイプが好みである。もっとも、山崎は奥ゆかしいというよりは、ほとんど人間不信なのかな、と思うくらい無口である。でも、ブスッ面で黙っているわけではなく、基本的にいつもニコニコ笑顔でいる。それがいいのだ。
「なんでニヤニヤしてんのよ。意味わかんない。休日出勤するくらいなら、そうやってぼーっとしてる時間を減らしたらいいんじゃない? 先週渡した文化祭の企画書ベース、ずーっと待ってんですけど。まだチェック終わってないの?」
高校では通常、養護教諭は校務分掌でがっつり仕事を割り振られることはない。保健部という部署を単独で持つのが普通である。しかし、定時制など、職員定数の少ない学校では、一人が複数の分掌をかけもったり、養護教諭ががっつり分掌で仕事を振られたりすることがある。中村もやはり、生徒指導部生徒会担当に割り当てられている。つまり、翔太と同じ分掌である。
「先生が目を通してくれないと、次に進めないのよね。できれば今日中にお願いします」
やっぱり、この人は苦手だ、と思いながら、翔太は体を起こす。
机の上に山のように積み上がった手つかずの書類の山から、件の企画書を発掘しにかかる。全くどこに何があるかわからない。誰かが勝手に置いたのか、見たこともない資料や依頼書がたくさん発掘される。
「ああっ! この県の提出、期限が明後日だよマジかやばい!」
『県の提出』とは『教育委員会へ提出する報告書』のことである。教員の仕事は授業とクラス運営だけだと思っていた時期が翔太にもあった。だが実際教師は、それに倍する時間を膨大な事務仕事に当てているのである。
「しまった! この資料作るのも忘れてる。えぐい。これどうしよう。会議いつだっけ」
「水曜日。つまり、明後日」
「えー終わらんやろう。徹夜か? やだー」
翔太は机の上の棚に立てかけてある業務日誌を開き、TODOリストに『県提出の書類作成』と、『会議用の資料作成』を〆切とともに書き込む。すでに書かれたタスクは二〇以上。今日の放課前に終えられたタスクはたったの二つ。
ため息。
休日出勤するわけだ、と自分でも思う。
◎
「おめぇそれで、また今日も休日出勤だったんかいっ。ええかげんにせなほんとに死ぬぞ!」
揺らめく焚き火の炎に照らし出される松田のひげだらけの顔は、率直に言ってアウストラロピテクスのようであり、控えめに言ってネアンデルタール人のようだった。
土曜日、東岸壁奥、マル秘プライベートビーチ。
そもそも、このポイントを開拓したのは松田である。初任者として新着任した翔太の指導教員となった松田が、四月の第一週の土日、出会って三日目に翔太をキャンプに誘い、連れてきてくれたのがここだった。
「仕事が多すぎるんですよ。常勤講師の仕事が全部こっちに回ってくるんだもん」
翔太は燗した日本酒をちびり、と飲んで、口をとがらせる。翔太の言うことは半分は真実、半分は言い過ぎである。実際、常勤講師という身分を理由に、担任業務に携われなかったり、分掌の仕事が減らされたりする例はある。魚定でも、その立場を理由に仕事を断り、クラス担任することを拒否し、悠々と定時退勤する年配の常勤講師もいる。しかし、例えば桜井のように、むしろ、若手の即戦力として教諭よりもバリバリと仕事をこなしている常勤講師だっているのである。
「大体、桜井先生が、スーパールーキー過ぎんだよ。おかげで比較される俺の評価は下がる下がる。総務の仕事をほとんど全部一人でやってて、一年担任もやってて、なんで定時で上がれるんだって話ですよ。残業だって休日出勤だって、ほとんどしてないじゃんか。俺なんかほぼ毎週土曜日出勤してるけど」
「んでおまけに、毎週金曜日はほぼ徹夜で仕事してる、ってか」
「そう! そうなんすよ。今日だって徹夜ですよ。昨日の一三時に出勤してから、今日の一六時まで、二七時間働きづめだったんですよ」
月曜日時点で二三あったTODOリストは、金曜日までで七個減り、一三個増えて全部で二九になった。そのうち、〆切がすでに過ぎているものと、〆切が月曜日のものを徹夜で終わらせ、やっとの思いで一九まで減らしたのである。
「俺、頑張ってますよね」
「ああ。ほんと、よく頑張ってるよ」
松田は腕ほどの太さの薪を、小ぶりの鉈で器用に四つに割って、焚き火に放り込む。
小さな砂浜の奥、崖のえぐれたところを選んで焚き火を燃やしている。ほとんどキャンプファイアーと言ってもいいほどの規模で炎が上がっているし、崖で熱が反射するため、上着がいらないくらい暖かい。
「しかしあれだな。お前、冗談じゃなく年々仕事が増えてねぇか」
ため息。
「……実際、増えてますよ。一年目は初任者研修と初めての授業だけでいっぱいいっぱい、去年は一年生担任と生徒指導部兼任でてんてこ舞いだったのに、今年は二年生担任、生徒会担当に加えて進路指導部長兼人権部長ですからね。学年会計と生徒会会計と、さらに職員会会計までやってんですよ。もうわけわかんないです」
「そらぁきついなぁ。なんだってそんなことになってんだよ。そもそも、学年会計は担任じゃなくって副担任の仕事だろーが。副担任は何やってんだ」
「だって、副担任は生徒指導部長・鬼谷巌先生ですよ。細かいお金の計算やパソコン仕事なんて、任せらんないですよ」
「うーん。そもそも、生徒指導部長と副担任が兼任ってのが終わってるなぁ。生徒指導部長ってのは嫌われ役だろ。それでどうやって担任の細かいサポートや生徒のフォローをやるってんだよ。教員の仕事なんて、役割分担が八割だっつうのに」
松田はナリこそこんなだが、現役のときはかなり頭脳派で、論理的・合理的な指導をしていたとベテラン教員から聞いたことがある。
「名ばかりの副担任ですよ。ほとんど機能はしてません」
「職員会会計だって、普通はもっとベテランがやるもんだよ。教頭は何やってんだ。ちゃんと仕事振らなきゃ駄目じゃねぇかよ」
「いいように使える教諭が俺しかいないんスよ。年配の人は仕事したがらないし。講師に無茶なことはさせられないし。妻子があって本土から通ってるような教諭と、独身で島内居住の俺となら、どっちが使いやすいか。こき使うには最適な人材だと自分でも思いますよ」
「ひでぇ話だなぁ。それでお前、事務仕事はともかくよ。生徒対応はうまくなったんかい。初任のときは大変だったけどよ。去年の一年生担任でも随分苦労したんだろ?」
翔太だって、一流とはいわないが、ちょっと名のある国公立大学を出ている。頭には自信があるし、松田から伝授された論理的・合理的指導論はしっかり理解している、はずである。しかし、実際の指導は全然うまくいかない。むしろ考えれば考えるほど、結果はひどくなっていっているような気さえする。
松田に嘘をついても仕方がない。翔太は、思った通りを口にする。
「いやぁ。むしろひどくなってるような気がしますよ。考えれば考えるほど、正解がわかんなくなるというか。裏目を引くっていうか。その点、多分桜井先生なんかは、ほとんど考えずに瞬時の判断で動いてるんじゃないかなぁ。それで、きっちり正解を選べるんだから、正直俺はどうしていいかわかんないっス」
松田は言うか言うまいか迷うような沈黙のあと、
「……そうかぁ。おめぇはまだ、正解を追っかけてるレベルか」
いい感じに熱燗が回ってきている、というのもあったのかも知れない。松田のその一言が、ものすごく気に障った。翔太は飲みかけた熱燗のお猪口を傍らのローテーブルにコツ、と置き、松田に向き直る。
「なんスかそれ。どういう意味ですか。じゃあ松田さんや、桜井先生はどういうレベルにあるってんですか」
松田は感情の色のない真っ直ぐな表情と真っ直ぐな声で、
「怒んじゃねぇ。別におめぇをバカにしたわけじゃねぇよ。指導の成熟の段階のことを言ってんだ。俺だって通ってきた道だ。何も正解を追うってのが悪いっつぅ話じゃあねぇ」
翔太は松田の色のなさに毒気を抜かれつつ、
「どうせあれでしょ、『学校のテストとは違う。生徒指導に一つの正解などないのだ』ってやつでしょ」
お猪口を持ち上げ、熱燗をすする。やや冷めてきている。徳利を焚き火の方に寄せる。
「いやぁ、俺の言い方が悪かった。正解を追っかける、ってのはな。ある選択が正しかったどうかの判断が、今すぐにできると思っている、って意味だよ」
「? ……どういう意味ですか。正解だと思ってた選択が、覆ることがあるって話ですか?」
翔太はあちち、と言いながら焚き火のそばから徳利を取り上げ、お猪口に熱燗を追加。
松田はウェストポーチからシガリロの缶ケースを取り出し、パカリと開ける。
「その通りだよ。吸うか?」
「いや、いいっス。ありがとうございます」
松田はシガリロを一本つまみ上げ、焚き火の燠に先端を押しつける。火種ができた頃合いで口元に運び、静かに大きく吸った。口を開け、ふわ、と濃い煙を吐く。口腔喫煙。葉巻特有の甘いような香りが、翔太の方まで漂ってくる。
「……それって、話としてはわかりますよ。指導の成果は長期的なスパンで判断すべき、って。でも、現実問題として、いくつかの選択肢の中から一つを選んでいく以上、最善と思える選択肢を選ぼうとするのは当たり前じゃないですか。それって間違ってるんですか? それに、実際選んだ選択で、さらにトラブルが発生するときだってあるんです。というかそんなことばっかなんですよ、俺は。このときの選択が間違いで、他に選ぶべき選択があったって考え方は、何がそんなにいけないんですか?」
松田は考えを整理しているのか、焚き火に視線を落として答えない。翔太はさらに言う。
「第一、毎日の指導を、一週間や一ヶ月やの長いスパンで評価する、なんて不可能でしょう。じゃないと、自分の行動を再評価する、という姿勢そのものをスポイルすることになりますよ。それじゃいつまでも進歩なんてしないじゃないですか。それともあれですか? 長期スパンで考えないと正解かどうかなんてわかんないんだから、変に昨日今日の自分の行動を後悔したり自己評価を下げたりするな、っていうメンタル的なアドバイスですか?」
松田はシガリロを咥え煙草にしたまま、薪をいくつか割り、焚き火に追加していく。そうして、やっと口を開く。
「……一週間や一ヶ月なんて、長期スパンたぁ言わねえよ。おめぇ、教育効果が現れるのに、どれくらいかかると思ってんだ」
「どれくらいって……。場合によるけど、早ければ数分じゃないんですか? 例えば今、松田さんの話を聞いて、理解した俺がたちどころに成長するってこともあるじゃないですか」
「確かにな。じゃあ、この数分で起こるおめぇの変化が、確かに成長で、確かにおめぇの人生にとってプラスだった、て判断は、一体どこでするんだ?」
「それは……」
翔太は答えられない。
「今日ここで起こるおめぇの変化が、何十年ってスパンで考えれば、おめぇの周りの人間関係を変えたり、おめぇの寿命を変えたり、下手したらおめぇの子孫にまで影響を及ぼすかも知れねぇんだぞ。その変化、影響が、必ずいいものだって今、言い切れる根拠はなんかあんのかよ。俺が言いてぇのは、そういうことよ」
「……でもそれじゃ、教育の効果を評価しようと思ったら、何十年、下手したら百年以上のスパンで考えないといけない、ってことですか? そんなの、そんなの……」
「無理、だよな」
松田はシガリロを一口吸い、そのまま焚き火に放り込む。
「そうなんだよ。無理だ。『教育の効果は正しく評価できる』ってのは、ただの思い上がりなんだよな。そういう思い上がりを、俺は正解を追っかけてるレベル、って言ったんだ。いいか。今ここで施されてる教育が、正解かどうかなんて、誰にもわかんねぇんだよ。だから、自分の教育にも、誰か別の人の教育にも、等しく敬意を持って、その上で各人が、自分の思う最善の教育をやる、ってことが、あるとすれば教育の正解なんだと、何十年も教師やってきて、今俺は思ってるよ」
翔太は、それでも納得いかない。
「でも、国の教育施策や教育研究は、基本的に教育成果は評価できる、という立場に立ってやられていませんか?」
「それが、一番悲しいとこだよ。現場の教師も、国のお偉方も大学の先生も、みーんな、思い上がってやがんだよ。つまりこうだ。教育とは社会人生産工場の生産ラインだと。出てきた製品の不良品率や製造効率は定量的に評価できる。商品の売れ行きで、完成した商品が市場のニーズを満たしてるかどうかも判断できる。だから、より効率よく、より売れる商品を、できるだけ安価に手軽に大量生産しよう、と。そういう視点で教育を見てんだよ、みんな」
「消費経済的な考えで教育を見ている、と」
「そう、まさにそれだ。悲しいことに、生徒だっておんなじなんだな」
「……どういうことですか?」
「考えてもみろよ、生徒の態度を。先生は授業で、面談で、進路指導で。どんな商品を提供してくれるんですか。それが素晴らしいものなら、こっちは見返りに、ちゃんと言うことを聞いたり、ちゃんと授業に臨んだり、ちゃんと学校に行ったり、という『対価』を支払ってもいいですよ、とな。きっちり、『賢い消費者のマインド』を会得してんじゃねぇかよ」
「なるほど。……確かに。腑に落ちました。例えば英語の小テスト。もちろん、魚定では小テストなんてやりませんが。あれも、同じ合格点をとるならより少ない勉強時間でとった方が賢い、とみんな思ってますもんね。なんなら、ノー勉で合格するヤツが一番スマートだって。こんなん、完全に消費者マインドですもんね。できるだけ努力という『対価』を支払わずに、『成果』だけを得ようとする。そうか。それは俺も同じですね」
翔太も、大学時代、ほとんど授業に出席せずに単位をとった話などを、まるで武勇伝のように語ったことがあった。翔太も完全に消費者マインドに毒されていた、というわけだ。
「まあ、いいさ。ある意味資本主義社会では当たり前の考え方かも知れんしな」
松田はシガリロをもう一本取り出す。焚き火で火をつけながら、
「これはわしの持論だがな。教育も『多様性』ってやつを失うと、制度的な欠陥をカバーできなくなるんだ。生物界では生態系の多様性や遺伝的な多様性が多くの生物の生存可能性を担保しているのと同じで、教育でも、いろんな教師がそれぞれでいろんなこと考えて、それぞれでいろんな言葉を生徒にかけて、それぞれでいろんな教育をすることが、致命的な失敗を遠ざけるのさ。もちろん、小さな失敗の数はむしろ増えるし、大きな成功も収められなくなるかも知れない。でも、教育の成果は軽々には考量できない、という前提に立てば、大きな成功が時間とともに大きな失敗になる可能性だって無視できない、ってわけだ。だからな、ほんとにいい教育ってやつをやろうと思ったら、一〇人の教師が一〇通りの教育を考えなきゃいけない、ってわしは思うのよ」
「他の先生のやり方はともかく、俺は俺の教育を考えて実践すればいい、てことですね」
論理的には納得できる話ではある。だが、煙に巻かれたような気分。翔太はその思いを改めてぶつけてみる。
「でも、実際に俺は、複数あるやり方で選択を迷って、結果その選択を後悔することが多いんです。まして、さっきも言いましたけど、新たなトラブルの種を自分で作っちゃったり……。これって、『一人一人違っていいんだから、それでいいんだよ』なんて言葉じゃ誤魔化せない、現実的な悩みだと思うんです。松田先生、それについてはどうですか?」
ここまでストレートに腹を割って話ができる相手がいる、というのは、本当に恵まれたことだ、と翔太は思う。しかも、それが経験豊富なベテラン教員で、さらに自分の指導教員だなんて、信じられない僥倖だ。
松田は破顔し、煙を吸い、吐く。
「確かにな。どうも、話を『わしが話したいこと』の方に引っ張っちまった。そもそも、どうやれば後悔のない選択ができますか、っちゅう話だったな。ときに、質問だが……おめぇはその選択とやらを、普段どういう基準で考えて選んでんだい?」
徳利から熱燗をお猪口に注いでいた翔太は手を止めて考え込む。選択の基準か。考えたこともなかった。
「うーん。ちょっと待ってくださいね」
ローテーブルにお猪口を置き、腕を組む。
「……どうすれば一番トラブルが少ないか、かな。もしくは、教師としての正解は何か、か。もちろん、今は『正解』なんて求めるのはバカだ、とわかってますけど」
「なるほど、そりゃあ、しんどい」
「しんどい? どういうことですか?」
「おめぇ、生徒とトラブルになるとき、『前言ってたことと違うじゃねぇか』みたいな話にならねーか?」
「……よくなります」
「なんでだかわかるか?」
「……教頭なんかには、よく『指導の一貫性がない』なんて言われますけど……。よくわからんのですよね。一貫性のある指導ってなんですか? そもそも毎回状況が違うのに、一貫性なんて持たせられるわけないじゃないですか。俺だってトラブルがやだから、自分の指導に一貫性を持たせよう、とは毎回思って考えるんですけど、それでも駄目なんですよね。これって、なんでなんですか?」
「はっはっはっは」
松田は声を上げて笑う。
「バカおめぇ、『指導の一貫性』ってのはな、『行動の一貫性』とは違うんだよ」
「? ……どういう意味ですか?」
「おめぇは、ある場面でAという選択をした人間が、同じような場面で同じAという選択ができることが、一貫性だと思ってんだろ」
「……違うんですか?」
「あのな、『指導の一貫性』ってのは、『指導方針の一貫性』って意味なんだよ。つまり、求められてるのは『判断基準の一貫性』なんだ。だからおめぇ、そんな風に毎回毎回うんうんうなって考えて、ひねくり出した『正解』で行動してりゃ、一貫性なんてぐだぐだになるに決まってんだよ」
「えー? 全然わからん……。つまりどういうことですか?」
「おめぇ、教師としての正解ってさっき言ったけどよ。その正解って、誰にとっての正解なんだよ」
「誰……。それは……みんなにとっての、じゃないんですか。世間にとっての。自分にとっての。学校にとっての。管理職にとっての。同僚にとっての。生徒にとっての。そう思って、やってきましたけど」
「そこだな。というか、そこだけだな。おめぇの指導がうまくいかなかったのは、その考え方ひとつだけがまずかったからだ」
松田は短くなったシガリロを焚き火に放り込み、ローチェアの背もたれから体を起こした。
翔太に正対し、真剣な顔つきになって言う。
「正解ってのはな、立場によって変わんだよ。まずはそこを認識するこった」
「正解が、変わる?」
「例えば、わしの話をするけどな。学校としての建前と、担任としての建前と、わし個人の本音と、生徒の本音と、生徒の保護者の本音と、全てが異なるような状況が、いくらでもあったぜ。そんなときに誰にとっての正解を優先するかを、毎回コロコロ変えてるとな、『指導がブレてる』って叱られたもんさ。そこで俺は、毎回、選ぶときの基準を固定したんだ。それが『役割』さ。担任として話してるとき。部活動顧問として話してるとき。学年主任として、教頭として、校長として。そのときどきで、自分が負ってる『役割』としての正解を優先させることに決めたんだ。そうしたら、随分楽になったよ。トラブルも激減した」
「なるほど」
「あ、勘違いすんなよ。『役割』を基準にする、ってのはあくまでわしのやり方よ。おめぇがそのまま真似して、うまくいく保証なんてねぇんだからな。おめぇはおめぇの基準を考えて、やってみろ、って言ってんだぜ」
「……わかります」
翔太は夜空を見上げて考える。
翔太にとっての基準ってなんだろう。松田のいう『役割』ってのは、非常に合理的でいい判断基準に思える。
そこで思い当たる。きっと、桜井も自分なりの基準をはっきりと持っているのだろう。だから、その場で瞬時に正解に見える選択をすることができるのだ。今度、何を基準にしているのか聞いてみよう。
松田が焚き火を崩しながら言う。
「そろそろ寝よう」
「なんか、色々ありがとうございました」
「んなこたぁいいんだよ。俺はおめぇの指導教員だぞ。そんなことより明日は朝まずめからキス狙うぞキス」
「はい!」
翔太は自分のテントの寝袋に潜り込みながら、思う。
そういえば、この一週間、忙しすぎて全くクラスの来者のことを意識してなかったな、と。案外、そんなものかも知れない。正直、何に気をつけないといけないのかもわからない。
改めてクラスのメンバーを思い浮かべてみる。どいつもこいつも、人間といえば人間のようだし、来者といわれればそんな気もする。
とりあえず、赤青コンビと金髪トリオ、それに一匹狼の藤堂仁は要チェックだな、と思いつつ、翔太は眠りに落ちていった。
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