承
結局、兄はそのまま帰ってこなかったので、僕は表向き自分の部屋とされているが実際は違うあの部屋で眠ることができた。
という説明は非常に面倒なので、いつかはちゃんと「僕の部屋」が欲しいところだ。
「相沢、ちょっと」
「え?」
昨日あのまま流し読みをしてようやく濡れ場を抜けて最終盤に差し掛かった純文学小説を休み時間に読んでいると、誰かに肩を叩かれる。
一緒にかけられた声の方へ視線を向けると、後ろの席の阿部くんが僕の隣に立っていた。
「呼ばれてるよ」
「え? 誰に?」
「ほら」
阿部くんの視線を辿ると、そこには昨日二度も合ってしまった目が二つ、こちらを見ていた。
「友達だったん?」
「いや。名前も知らない」
「なんだそれ」
阿部くんが笑うのは最もなんだけど、実際そうだからなぁ。
どうして呼ばれているのか予想がつかなさすぎて怖いけど、自分の机に籠城したところで学校の教室というものには逃げ場なんてものはなく、自分の席の前まできて無理矢理連れ出されるのがオチだから、観念して自分の方から行ってしまう。
「なにかよ――うっ」
とりあえず決まりきった挨拶から入ろうとしたら、胸倉を掴まれてしまった。
え、なにこの子。初対面でいきなり胸倉掴むなんてヤンキーか何かなんだろうか。
ああ、そうか。そういえば初対面じゃなかった。
いや、それでもおかしいことには変わりないんだけど。
「ついてきて」
「……はい」
随分と気が強い子だなぁと思いつつも、言われるがままに彼女についていくしかなかった。
ただ、彼女が僕の胸倉を掴むというパフォーマンスをしてしまったせいで、後ろの教室が騒がしくて、それはなんだか嫌な気分になる。
「ここでいいか」
廊下を抜けて、階段の前まできたところで満足したようで、彼女はようやく僕の制服を掴んだ手を緩めてくれた。
彼女はそのまま非常用の防火扉に背中を預けて、毅然とした態度と視線を僕に向けてくる。
「話があるんだけど」
「うん」
「あんたの兄貴、なんなの?」
「……なんなの、と言われてもなぁ」
「はあ?」
思ったままを正直に話したところ、正気を疑っているかのような声音で返されてしまう。
その声を聴きながら、僕は冷静に「ああ、これは僕の苦手とするタイプの子だな」と考えていた。
「あんた兄弟でしょ?」
「兄弟でしょと言われても……そもそも、君が何を聞きたいのかよくわからないし」
「そんなこともわかんないの?」
あーあー女の子の怒った声ってどうしてこんなに怖いんだろう。
お願いだから穏便に話して欲しい。ビクビクしちゃうから。
「あんたの兄貴、私に手を出そうとしたんだよ?」
「ああ……まあ」
それは知ってる。というか、それ以外の理由で兄は実家に帰ってこないし。
「確認したいんだけどさ」
「なに?」
「君って、兄さんの彼女じゃないってことでいいのかな?」
「は? そんなわけないでしょ」
「ああ……うん」
随分とキレてるなぁ。それもそうか。
付き合ってもないのにそういうことをしようとされたら、そりゃあ心底怒るよね。
兄はそこまで悪い人じゃないと思っていたんだけど、この分だと「そこまで良い人じゃない」と認識を改めないといけないかもしれない。
「それは本当にごめん。僕の方からも母さんに言っておくから」
「え、なに謝ってんの?」
「え?」
「あんたがしたわけじゃないでしょ」
「いや……まあ」
えー、今の会話って僕を代わりに謝らせる流れじゃなかったのか?
この子、何が言いたいのかイマイチわかんないなぁ。
「それよりさ」
「うん」
「あんたに頼みがあるの」
「え?」
「お姉ちゃんがさ、あんたの兄貴と付き合ってんだけど」
「え?」
「別れさせたいんだよね」
「え?」
「いや、えっえっじゃなくて」
「ええ……」
うわあ、付き合ってる恋人の妹に手出そうとしたのか。
さすがにかなり引く。双方同意の上でならいくらでも好きにすればいいと思うけど、同意でない上に恋人の妹はさすがに……。
「で、あんたに協力して欲しいんだけど」
「それはいいんだけど……一応、理由を聞いておきたいかな」
「は? わざわざ言わなくちゃわかんないの?」
いや、さすがに予想はつくけどさ。きちんと確認しないと、間違ってたら怖いし。
何より君、間違ってたら後で死ぬほど怒りそうだし。確認しただけでも怒ってるけど。
「このまえ街に出かけたら、あの男、別の女と歩いてたんだよね」
「……」
「あ、疑ってる? ちゃんと腕組んでるのも見てたんだから」
「いや……うーん」
疑っているわけじゃないんだけど、ちょっと予想を超える速度でデッドボールが飛んできたのでうずくまりそうになってしまった。
家族の不貞の話を聞くのがこんなにも辛いとは……そして兄の女遊びもまさかここまで酷いとは……。
もはや僕の中での兄は「良い人じゃない」を越えて「悪い人」に入りつつある。さすがに弟でも全くフォローできない。
「で、別れてくださいって話をしようと思ったら、ああなったってわけ」
「……はぁ」
「どしたの?」
「いや……大丈夫」
さすがに聞いててちょっと気分が悪くなった。
でも、今は話をきちんと進めないといけない。
「とーぜん、協力してくれるよね?」
「ああ、うん。もちろん」
「よかった。あんた気弱そうだし、兄貴に逆らえないタイプかと思ってた」
「ははは」
それは当たってるし、基本的に兄のことは嫌いじゃなかったけど、さすがにこんなことになってしまったら愛想も尽きてくるというもんだ。
「それで、具体的な方法なんだけど」
「あのさ」
「なに?」
「僕に考えがあるんだけど」
「お、言って言って」
「兄さんと他の女性が一緒にいるのを、カメラで撮るとかどうかな?」
「気が合うね。私も同じこと考えてた」
本当かよと思いつつも嘘を吐く子ではないように思うから、彼女の言葉を信じるなら、僕たちはこの点に関してだけは気が合うようだ。
「じゃあ、私が囮になるから、よろしくね」
「ああ、う――――え? いやいや」
「え?」
なに言ってるんだこの子。気が強いにもほどがあるんじゃないのか?
「い、いい……の?」
「なにが?」
「いや昨日、怖かったんじゃないの?」
「まー、怖くなかったと言えば嘘になるけど」
「じゃあ」
「でも男ってさ、蹴り上げたらあっさり倒れるじゃん」
「いや……まあ」
彼女が言ってることが何の話であるのかは、さすがにわかる。
「でも、さすがに危ないよ」
「うっさいなぁ。一刻も早くお姉ちゃんと別れさせなきゃいけないんだから、もうこの方法しかないんだって!」
「ええ……」
本当に大丈夫かなぁ、とどうしても思ってしまうけど彼女が焦る理由もわかるし、この子の気の強さは僕には制御不能だから、彼女の言う通りにするしかなさそうだ。
「そんなに心配なら、危ない時はあんたが助けてよ」
「……本気?」
「本気も本気」
この子の考えはよくわからないなあ。
でも、家族のやらかしたことという意味では僕にも責任はあるから、できる限りは頑張ってみよう。
「わかった。でも、今のままだと不安だな」
「どういう意味?」
「ちょっと準備したいから、放課後また会える?」
「うーん……」
彼女は顎のあたりに指をあてて、斜め上を眺めている。
「いいよ。放課後、また教室に行くね」
「ありがとう。じゃあ――」
名前を呼んで別れようとして、僕は彼女の名前を知らないことに気がついた。
だけど、そんな僕には気づかないまま、彼女は手を振って、
「じゃあね、相沢」
「うん」
手を振り返して、別れる。
そのまま教室に戻ると、僕の席に座った阿部くんが、ニヤニヤして僕を見ていた。
「奈良坂に告白でもされた?」
「奈良坂? ……ああ」
彼女の苗字はどうやら奈良坂というらしい。
うーん、聞き覚えがあるような、ないような……。
「そういうのは何もなかったよ」
「本当か?」
「本当に本当」
阿部くんはまだ興味がありそうだったけど、そろそろ休み時間も終わりそうな時間だったので、そのまま後ろの席に座った。
僕はというと気疲れしてしまい、目を瞑って次の授業の先生が来るのを待つぐらいしかできそうになかった。
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