彼女、あるいは僕の

詩野聡一郎

 僕には自分の部屋がない。

 いや、正確にはそう呼称されるものはあるんだけど、その部屋の所有権は僕にないんだ。

「……」

 脱ぎかけの学生ズボンの中でスマホが鳴ったのに気づき、その画面を無感情なまま確認する。

『帰るから部屋空けろ』

 兄からの連絡だ。

「はいはい」

 僕が住むマンションの狭い一室には、子供部屋が一つしかなかった。

 だから、その部屋は当然のように年上である兄に与えられ、僕は親と同じ部屋で生活をせざるを得なかった。

 そして何年かして兄が家を出ていき、ようやく僕は子供部屋を与えられたわけだ。

 表向きは。

「さてと」

 自分の眠るベッドを少し奥にズラして、空いた床のスペースに布団を敷いておく。

 こうしないと後々面倒だし、どうやらこれは僕の役割らしいから。

「あと、は」

 読みかけの小説一冊と、まだ一ページも読んでない小説をもう一冊。

 加えてスマホの充電ケーブルと予備のアダプターを手に取って、部屋を出る。

 兄が一度この部屋に入ると出るのは早くても夜だし、運が悪いと翌朝になる。

 だから、ある程度暇潰しを用意しておかないといけない。

「ん」

 居間を経由し、親の部屋に入ろうかというタイミングで、ガチャリと聞き慣れた音が聞こえた。

 玄関の扉が開いた音だ。たぶん、兄が来たんだろう。

「――さ、入って入って」

 兄が、いつも通りの余所行きの声を出す。

 僕に対しては高圧的で、家族に対してもぶっきらぼうな兄だけど、他人――特に女性の前では驚くほど優しい声音で話している。

 まあ兄はそこまで悪い人ではないんだけど、普段の兄を知っていると「結構露骨だなあ」と、どうしても思ってしまう。

「なんもない家だけど」

「……はあ」

 女性の呆れたような相槌が聞こえてなんとなしにふと目をやると、困ったことに相手と目があった。

「あ」

 驚いて声がもれてしまったのは、相手が同じ高校の制服を着ていたからだった。

 顔見知りというわけじゃないけど、学校で何度か顔を見たことはある気がした。

 とはいえ、耳が少し隠れるぐらいのありふれた髪の長さだし、似た誰かと勘違いしてるだけかもしれない。

「え」

 相手もこちらに何か感じるところがあったらしい。

 僕はもう部屋着に着替えてしまったから、制服という記号で僕のことを判断はできないけれど、反応があるということは本当に顔見知りだったんだろうか。

 まあ、僕の兄と一緒にいるところを他の人に見られて気まずいとか、そういうものかもしれない。

「ああ、すみません」

 と口で言って親の部屋に入るけれど、実際は特に申し訳ないと思ってはいなかったりする。

 兄が連れてきた女性と顔を合わせることなんていうのはこれまで何度もあったし、ここが僕の家なんだから居合わせちゃうのはもうどうしようもない。

 このぐらいは慣れたもんなので、特に気にせずに読みかけの小説を開く。

「……」

 空気を伝って感じ取れる気配だけで、兄と女性が部屋に入ったのがわかった。

 開いた小説は、大体半分が過ぎた頃。いわゆる濡れ場というやつで、男視点で女性とのやり取りが記述されている。

 純文学と言うものだから、何か高尚なものかと思って手を伸ばしてみたんだけど、読むもの読むものこんなのばかりでうんざりしてきた。みんなこういうシーンを挿し込まないと気が済まないのか?

 何より、今のこの状況にマッチしすぎていて、どうしても部屋の中でなにが起きているのかを想像してしまう。

「はぁ……」

 兄は悪い人ではない。悪い人ではないと思うんだけど、どうにも女性関係にはだらしないところがある。

 家を出てから、兄の女遊びが始まった。弟である僕の目から見ても普通にイケメンでスポーツマンな兄はモテるらしく、連れてくる彼女は定期的に変わっている。

 そして、僕の部屋はもっぱらホテル代わりに使われているようだ。

 兄からしたらいまだに所有権は自分にあるのだろうし、親もそこで行われていることを知ってか知らずか、兄が帰ってくる時は僕に部屋を空けるように言ってくる。

 要するに、あの部屋は僕のものではないのだ。

「……ん?」

 気のせいだろうか。ドタドタと大きめの音がした気がしたので、ひょいと居間のほうに顔を出して、廊下越しに僕の部屋の方を眺めてみる。

 僕も、部屋の中でなにが起きているのかがわからない年齢でもないんだけど、それにしたって物静かに、僕にわからないようにやって欲しいと思う。

 そんな僕の気持ちに反して、聞いたこともないような大きな音で部屋のドアが開け放たれた。

「――最っ低。信じられない」

 怒った様子で、女性が出てきた。

 僕とまた目が合ってしまったけど、感情のまま睨みつけられてしまって怖いので、思わず萎縮して親の部屋にすっこんでしまう。

「待って待って」

 慌てた兄の声と、追いかけるような足音が聞こえて、バタンという大きな音と共に玄関のドアが閉まる。

 やけに物静かになったので、ろくに読めなかった小説を開いたまま床に置き、廊下の方へと様子を見に行ってみた。

「……いない」

 なんだったんだろう、あれは。

 兄が家に連れてくる女性は基本的に彼女だったから、こんなのは初めてなんだけど、あの子は彼女じゃなかったんだろうか。

 たまに話を聞く限りだと、僕と同い年ぐらいの女の子はどうも年上の大学生とかが好みのようだから、てっきりそういうものだと思ったんだけどな。

「まあいいや」

 なんであろうと、僕には関係ない。

 とりあえず敷いたばかりの布団を畳む。これで布団が濡れていたらさすがに嫌な気持ちになるので、そうでなくて一安心だった。

 しかし、兄からの連絡がない限りはまださっきの子を連れて帰ってくる可能性もあるから、片付けるまではしないでおこう。

 本当は部屋のベッドでゴロゴロしたいけど、兄が連れてくる女性と鉢合わせたら面倒だ。

(とりあえず様子見かな)

 そう思って僕は居間に戻り、そのまま親の部屋に入って、前よりもほんの少しだけ開いてしまった本のページに指をかける。

 そして、すっかり忘れてしまっていたけど、今まさに読んでいるのが嫌いな濡れ場のシーンであることを思いだして、うんざりした。

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