第二話 或る歌人の遺言 其の壱

 嗚呼、また貴方様にお逢いできるなんて、まるで夢のようです。あのときから何年経ったでしょう、今までお体の方はいかがでしたか。私のことを、少しでも覚えていらっしゃいますでしょうか。

 私の声はお聞き苦しいかもしれませんがどうかご理解ください、私はもう自分の体すらも、思うように動かすことができないのですから。


 この暗い座敷牢の中で、私の体には刻一刻と終わりが近づいてきております。床は見ての通りどろどろと腐って濁り、細かく軽やかで粉のような虫が、震えるような音を立ててそこかしこに舞っています。


 義兄が私を外に出して下さらないから、私はここに帰ってきてからずうっと、牢の片隅でぼんやり過ごしていたのです。何やらよく分からない残飯を口にして、体を猫のように小さく丸めて座っていたのです。


 ですが先刻から、ぐったりと寝ころんで力を抜いても、全身がぼんやりと締めつけられるように痺れてきました。貴方様の前にあって起き上がることもできない無礼を、どうかお許し下さい。


 私の命は、おそらくあと少しで潰えるでしょう。脳が軟らかくゆるり、どろりと融けて、肉も削げてなくなり、汚物にまみれて、路地裏にうち捨てられたぼろきれのようになって死にます。


 そうしたらこの座敷にもようやく、薄らんで青白くなった月の光が差すでしょう。その光はこの部屋の中で一等綺麗な貴方様の本を、つやつやと照り輝かせるはずです。もう手垢やら何やらでインキのように真っ黒くなって、目を凝らさなければ部屋の影に溶け込んでしまう表紙も、きっとあのまるい大きな月の中では艶やかに煌めくのでしょう。あのねとりとした涙のような光が貴方様の頬に流れれば、貴方様の脳裏も私の影が覆い尽くしてくれるのでしょうか。


 そんなくだらない妄想をすることだけが、私をこの世に繋ぎ止める唯一の救いでした。


 貴方様は優しい徳のあるお方に見えてそれだけではない、人を人とも思わないような残酷なところがあることを、私はよく存じておりますよ。その意地悪で歪んだ貴方様の性格を、私は全て知った上で愛していたのですから。


 ですからきっと、貴方様が私を思い出すことすら、今までもこれからもないでしょう。だからこそ今、私は貴方様にこのお話をすることにしたのです。本音を言えばもう一言だって声を出す度体が軋むのですけれども、この拙い夜咄が貴方様のお耳に届き、ほんの一時だけでも私の姿をその瞳に写して下さることだけが、今の私の望みですから。

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