金剛と石炭

霜月悠

第一話 或る小説家の戯言 其の壱

 ああ、あの日のことならはっきり覚えています。あの雪が降った夜のことでしょう。僕は何だか眠る気分になれなくて、せっかく珍しい天気だし、と外を散歩していたんですよ。後で聞いたんですが、あの日ってあのご主人の義妹さんがお亡くなりになった日だったんですよね。


 え、その取材ですか。そんなこと記事にしてどうすんですか。でもまあいいですよ、まだ原稿の締切には余裕がありますから。じゃあそこの喫茶店にでも入りましょう、ここじゃあ寒いですよ。


 ええと、何でしたっけ。ああそうそう、あの義妹さんの話でしたね。あの家の周りは薄く嫌な臭いがしたので、近所の人は嫌っていました。その臭いがし出したのは彼女が帰郷して来てからのことだったので、彼女は気が触れた人間なのだと、近所でときおり話題にのぼっていたんです。


 でも、僕はご本人を見たことはありませんでしたよ。彼女はここ数年来、外に出てすらいないはずです。きっと家から出たくなかったんでしょうね。もしかすると、家から出してもらえなかった、の方が正しいかもしれないですけど。あそこのご主人怖いですから。あっ、これご本人には絶対に言わないで下さいよ。ご近所付き合いが悪くなるのはごめんです。


 まあ、いつもは恐ろしく静かな家なんですけど、あの日は微かな、今にも消えそうな声がしたので、好奇心が湧いてしまったんです。ええもちろん、肝が縮み上がるくらい怖かったですよ。草木も眠る丑三つ時、得体の知れない声がこう、ぼそぼそと聞こえるんですよ。当然でしょう。でも怖いもの見たさって言葉もあるでしょう、まさにそれに尽きますね。


 僕は生垣の前に突っ立って、誰の声か、何を言っているのか、そっと耳をすませて聞いていました。もしこのときご近所に見つかっていれば、僕は今ごろ人の家を覗き込む不審者野郎、なんて扱いを受けていたでしょうね。


 ああすいません、話を戻します。その音はどうやら女の呻きか何かのようで、言葉がかなり曖昧でした。今思えば、それは彼女が死に際に遺した遺言だったんでしょう。蔵とかにいたんですかね、こう、声がかなり反響して、焦点がずれたみたいに音の輪郭がぐらついていました。初めは僕、何て言っているのか分からないどころか、その僅かな音を捉えること自体が大変でした。

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