サシ族の求愛行動の記録、または言葉の通じない獣人に拾われて溺愛されて結婚する話

くれは

サシ族に保護された女性の話

 ある時、気付いたら知らない場所にいたし、自分のことも、ぼんやりとしか思い出せなかった。

 そんなわたしを助けてくれたのが、母さんと、父さんと、兄さん、今のわたしの家族。

 でも、これはわたしが勝手にそう呼んでいるだけ。みんなからどう思われているかは、わたしは知らない。

 わたしには、みんなの言葉がわからないし、わたしの言葉もみんなには伝わらないから。






 木々の緑がぐっと濃くなる頃のこと。

 部屋の中で毛の織物に包まって、わたしは髪に飾る飾り紐を編んでいた。

 みんなの体には、背中と両腕と脛に立派な毛がある。立派な、ふわふわとした尻尾もある。わたしにはそんな毛も尻尾もなくて、つるんとした皮膚が見えてしまっている。だから、いちいち暖かな毛や羽毛に包まっていないと、体が冷えてしまう。


 それだけじゃない。みんなの体はとても大きくて、力も強い。でも、どうやらわたしは力が弱くて、体もこれ以上大きくならないみたいだった。

 だから、わたしはあまり、みんなの役に立つことができない。

 こんな風に、飾り紐を編んだり、織物を織ったり、それだってすぐに疲れてしまう。


 どうやら、わたしはみんなとは全然違うものらしい。 


 隙間風に気付いて、手を止めて顔を上げた。部屋の入り口に何重にも吊り下げられた織物が揺れて、兄さんが入ってくる。

 兄さんは、わたしの前にあぐらをかいて座ると、わたしの手から飾り紐を取り上げた。わたしは口を尖らせる。


「もうちょっとで出来上がりだったのに」


 わたしの言葉は、みんなの言葉とはずいぶん違うみたいで、多分この言葉も兄さんには通じてない。でも、兄さんはきっと、わたしの表情でわたしの言いたいことがわかるんだと思う。

 わたしとみんなは、体の特徴は全然違ったけれど、顔立ちはどうやら、そんなに違わないみたいだ。笑ったり、悲しそうな顔をしたり、そういう表情はお互いに察することができた。

 兄さんの手が優しくわたしの髪を撫でて、それから何かを言う。


 みんなの話す言葉は、本当に、何もわからなかった。それはわたしには、言葉じゃなくて音にしか聞こえない。そこに意味があるように思えない。

 真似て音を出すこともできなかった。みんなも、特に兄さんは、わたしの言葉を真似ようとしていた時期があったけど、それも難しいみたいだった。

 それでわたしたちは、お互いの声の調子や表情から、お互いの感情を察して会話をしている。困っていないわけじゃなかったけど、それでもみんなが優しくしてくれているのがわかったので、なんとか大丈夫だった。


 兄さんの手は、わたしの髪を丁寧に撫でて、ついでのようにわたしの耳の形もなぞる。

 耳も、わたしがみんなと違っているところだった。みんなの耳は、頭の上の方に付いていて、山のような形で毛が生えている。

 わたしの耳は、顔の横に付いている。毛もなくて、丸い形で、でこぼこと変な形をしている。兄さんは、わたしの変な形の耳が面白いらしく、時々こうやって耳を触る。

 その度にわたしは、自分も兄さんのような耳と尻尾が欲しかったと思ってしまう。なんだか、自分がみんなと違うものだということが、とても寂しい。


 そして兄さんは、わたしの首筋に鼻先を付ける挨拶をした。わたしも、それに応えて兄さんの首筋に鼻を付けた。


 兄さんは、わたしに小さな赤い実を持ってきてくれた。親指の爪ほどの大きさのその実は、口の中で潰すととても甘く弾ける。

 今日は、小さな黄色い花も添えられていた。

 少し休めって言ってくれているんだと思う。


「ありがとう、兄さん」


 わたしの言葉は通じてないと思うけど、兄さんは優しく笑ってくれたから、きっと気持ちは通じてる。






 兄さんが採ってきてくれた赤い実を二人で食べた。

 わたしは体が小さいからか、兄さんに子供扱いをされている気がする。兄さんはよく自分の手で、わたしに食べさせたがる。


「子供扱いしないで」


 そう言って兄さんを睨み上げるけど、でもきっと、力の弱いわたしは、兄さんからしたら子供みたいなものなのかもしれない。

 しぶしぶと口を開けると、兄さんの指先が口の中にその実を押し込んできた。舌先で実を潰す。とても甘い。

 わたしを見下ろす兄さんの顔は、目を細めていてとても嬉しそうだ。


 どうやったら大人になれるのだろうかと、よく思う。

 こんなに弱い体じゃなくて、もっと大きな体になることができたら、みんなに心配をかけずにいられるのだろうか。

 それとも、みんなと同じ言葉を喋ることができたら?

 ある日、わたしにも尻尾が生えてきたり、わたしの耳の形が変わったり、みんなと同じように綺麗な毛が生えてきたり、しないだろうかなんて想像してしまう。


 でも、きっと駄目。

 みんなの毛並みは、雪の色だ。瞳はキラキラと輝く琥珀の色。兄さんの毛並みは特に、兄さんの動きに合わせて空の色になったり氷の色になったり、とても綺麗だ。

 それに比べて、わたしの髪の毛は真っ黒。前に水に映った自分の目を見た時には、瞳だって真っ黒だった。そんなわたしに尻尾が生えたところで、きっと真っ黒だ。みんなみたいに、綺麗にはならない。

 結局わたしは、どうやっても大人になれない。兄さんとだって、同じになれないんだ。






 わたしが飾り紐の続きを編む隣で、兄さんは寝転んでいた。こういう時の兄さんは、眠っているようで眠っていない。尻尾がゆらゆら揺れているから、すぐにわかる。

 最後にぎゅっと硬く縛って、飾り紐を編み終える。それを持ち上げて出来栄えを眺めていたら、兄さんが体を起こした。

 そして、何事かを言って、自分の頭をわたしの方に差し出してくる。これもいつものことだ。


 わたしが編んだ飾り紐を、兄さんは全て自分のものにしてしまう。

 最初に飾り紐の編み方を教えてくれたのは兄さんだった。わたしは兄さんの手本を見ながら、頑張ってそれを真似した。

 初めてのそれは、もちろん不出来だったのだけど、兄さんはまるで上出来だと言うような笑顔になった。そして、その飾り紐は兄さんの髪に結ぶことになった。わたしの髪には、兄さんが編んだ飾り紐が結ばれた。

 母さんと父さんは、わたしと兄さんの飾り紐にすぐに気付いて、兄さんに向かって何かを言っていた。強い口調で、もしかしたら怒っているみたいだった。わたしは怖くなって、兄さんの腕にしがみ付いた。

 しばらくその言い合いは続いていたけど、最後に母さんがわたしをぎゅっと抱き締めて、何かを言いながらわたしの髪を撫でて、それで終わりになった。

 父さんは、心配そうな顔をしていた。

 兄さんを見ると、大丈夫だよと言うように笑っていた。


 それからずっと、兄さんはわたしが飾り紐を編むと、自分の髪にそれを結ばせる。

 わたしは最初のうちは、母さんや父さんにもあげようと思って編んでいたのだけど、あるいは自分の髪に結ぼうと思ったりもしたのだけど、兄さんは飾り紐が出来上がる時には必ず隣にいたし、出来上がると自分の頭を差し出してくる。

 一度、自分の髪に結びたくて、兄さんの頭に結ぶのを嫌がったら、兄さんはとても悲しそうな顔をした。それこそ、今にも泣き出しそうな。

 それ以来、わたしの飾り紐は全部兄さんのものになった。兄さんは時々、わたしに飾り紐を編むための糸をくれる、それは、わたしに新しい飾り紐を編んで欲しいということだ。


 だから、この飾り紐も兄さんのためのもの。

 わたしは兄さんの輝く髪の毛に指を滑らせる。兄さんは、結びやすいようにわたしに背を向ける。それでわたしは、今日はどこに結ぼうかと考える。

 今日の飾り紐は、冬の丸い月の色。前に編んだ、濃い夜の色の紐に重ねようと思って、その毛の束を手にとる。

 兄さんの立派なふわふわの尻尾がゆらりと揺れて、わたしのつるんとした腕を撫でた。わたしはくすぐったくて笑う。


「くすぐったいよ」


 そう抗議すると、今度はわたしの腰に巻き付くように揺れた。


 わたしが飾り紐を結び終えると、今度は兄さんが懐から飾り紐を出した。それでわたしも兄さんに背を向ける。飾り紐はずっと、わたしと兄さんの交換だ。

 兄さんは、飾り紐を編むのもわたしよりずっと早いから、いつも先に出来上がってしまう。それでも、わたしが編み上がるのを待って、こうやってお互いの髪に結び合う。


 わたしの髪には、兄さんが編んだ飾り紐がたくさん結ばれている。

 この真っ黒な髪も、いろんな色の飾り紐で飾られたら、少しは綺麗に見えるだろうか。






 それからいくつかの木で葉っぱの色が変わって、落っこちて、食べられる木ノ実がたくさんになった頃。

 わたしと兄さんの髪には、もうたくさんの飾り紐が結ばれていた。


 母さんと父さんは、その日は一緒に出かけていて、わたしは兄さんと二人で家の前で硬い木ノ実の殻を割っていた。

 割るのは兄さんの仕事で、わたしは割れた殻に細長い匙を差し込んで、中の食べる部分だけを取り出すのが仕事。

 家の中でもできる仕事だったけど、天気が良かったのと、細かく砕けた硬い殻をあとで拾い集めて掃除するのは大変なので、こうやって外でやっている。

 風は少し冷たかったけど、お尻の下に敷いた毛の敷物はふかふかだったし、兄さんがくれた毛織物の上着は兄さんの毛と同じ色で、まるで兄さんに守ってもらえているみたいで、とても暖かかった。

 そうやって、兄さんと二人、いくつもの木ノ実を割って、その中身を取り出した。たまに、二人でこっそり摘み食いをして笑ったりもする。


 普段、わたしはあまり家の外に出ないで過ごす。

 わたしには体を守る毛がないから、すぐに傷がついて血が出てしまう。みんなそれを心配してくれているんだと思う。いつも、柔らかな織物や毛や羽毛に守られて過ごしている。

 それでも、時々は外に出て、今みたいに木漏れ日を浴びる。そんな時も、必ず誰かが側にいてくれる。兄さんだったり、母さんと父さんだったり。

 子供扱いされているとは思うけど、わたしがみんなと違うから、仕方ないんだと思う。


 何度目かの摘み食いをした時に、兄さんが鼻の頭にシワを寄せて、視線を動かした。

 兄さんの視線の先を見ると、女の人がいた。とても綺麗な真っ白な毛並みと、立派な山の形の耳、ふかふかと柔らかそうな尻尾の、女の人。

 服の背中の切れ目は他の人よりも一層大きくて、その美しい毛並みを自慢しているみたいだった。わたしとは違って、とても綺麗な人だ。

 その人がわたしと兄さんとを見比べる。わたしはその視線に、体を強張らせた。

 それがなんなのかわからない。けれど、とても怖いと思った。


 兄はわたしの方を見て、いつものようにわたしの髪の毛と耳を撫でて、何かを言った。いつものように優しい顔で、わたしは少しほっとする。

 それから、兄は立ち上がってその女の人に近付いてゆく。そのまま、二人で木立の向こうに行ってしまった。木々の向こうに、兄の尻尾や女の人の毛並みが見える。

 それでも、声は聞こえないし、表情は見えない。二人が何をしているのかがわからない。


 わたしは手を止めて、じっと兄さんを待っていた。兄さんが殻を割ってくれないと、何もできないから。

 さっきの視線の怖さがまだ残っていて、わたしはとても不安になった。

 あの女の人は、兄さんになんの用事なんだろうか。二人はよく話すのだろうか。

 わたしは、家族以外とはあまり話さない。顔を合わせることも少ない。

 いつも兄さんや母さんや父さんに守られていて、みんなと一緒に暮らしているけど、知っていることはほとんどない。

 そのことが、なんだか急に不安になった。


 わたしは、このまま、ずっと子供のまま過ごすのだろうか。そんなわたしは、いつまでみんなに守ってもらえるのだろうか。

 兄さんは最近、体がますます大きくなって、逞しくなって、まるっきり大人の人みたいになってしまった。わたしは、いつまでも子供のままなのに。


 やがて、兄さんが戻ってきた。女の人はどこかに行ってしまったみたいだった。

 戻ってきた兄さんは、わたしの顔を見て、木ノ実を割る仕事をやめて家に戻ることにしてしまった。

 きっとわたしが、浮かない顔をしていたせいだ。わたしはやっぱり、兄さんにとっては手間のかかる子供なんだ。






 その日、兄さんは出かけていたけど、家には母さんも父さんもいた。

 わたしは、家の奥、部屋の奥で織物をしていた。けれど、溜息ばかりでなかなか進まない。どうやったら大人になれるのだろうかと、そればかり考えてしまう。

 兄さんばかり、どんどん大人になってしまって、わたしは一人で取り残されている気分だった。

 兄さんがもっと大人になったとき、わたしが子供のままだったら、それでもわたしは兄さんと一緒にいられるのだろうか。


 隙間風に顔を上げると、母さんが布の間から顔を覗かせて、何かを言う。これは、わたしを呼んでいる声だ。

 わたしは、あまり進んでいない織物にまた溜息をついて、織り機を体から外して、向こうの部屋に行った。


 そこには、母さんと父さんと、それから家族じゃない男の人がいた。

 曇り空のような毛並みの、男の人だ。体の大きさは兄と同じか、少し大きいか。


 わたしは困って母さんを見た。母さんは、少し離れて何も言わずにじっとわたしを見ている。父さんを見た。父さんも、何も言ってくれない。

 もう一度、目の前の男の人を見る。毛並みも、琥珀のような瞳も、兄さんの方が綺麗だと思った。

 男の人は、わたしに飾り紐を差し出した。その人と同じ曇り空の色の飾り紐。そして、わたしに向かって何かを言う。でも、わたしにはその意味がわからない。

 母さんと父さんは、やっぱり何も言ってくれない。わたしは困って、ただ首を振る。それでも、その人は飾り紐を差し出したまま、何かを言っている。

 わたしはどうすることもできずに、ただ差し出された飾り紐を見ていた。そうしたら、その人はわたしの髪に手を伸ばした。兄さんの編んだ飾り紐が結ばれた、わたしの真っ黒い髪。


「やだ」


 なんだか恐ろしくて、わたしは一歩下がる。男の人は、なんだか少し悲しそうに、耳と顔を伏せた。

 わたしは、もう一歩下がる。何が起こっているのか、全然わからない。

 母さんも、父さんも、いつもだったら守ってくれるのに、どうして今日は何も言ってくれないのか。兄さんだったら、わたしが何も言わなくても、助けてくれるのに。


 部屋に戻ってしまおうともう一歩下がった時、空気が大きく揺れて、兄さんが帰ってきた。

 兄さんは身体中の毛を逆立てて、曇り空の毛並みの男の人に跳びかかった。

 ぐ、る、る、と低い声が響く。いつも優しげな兄さんの、初めて聞く声だった。

 辺りのものが飛び散るのも構わずに、兄さんは歯をむきだして、その男の人にのしかかっていた。いつも優しげな兄さんの、初めて見る顔だった。

 兄さんが、大きな歯で噛み付く前に、父さんがそれを止めた。父さんに引っ張られても、兄さんはまだ低い声を出していた。

 母さんがわたしのところへ跳んできて、わたしをぎゅっと抱きしめた。わたしに何かを言っているけど、わたしにはやっぱり何もわからない。ただ、わたしの髪を撫でる手付きは優しくて、わたしに何か意地悪をしたかったわけじゃないってことだけは、わかった。

 曇り空の毛並みの人が家を出ていって、父さんはようやく兄さんを放した。兄さんは跳ねてわたしのところにくる。そして、わたしを抱きしめている母さんから、わたしの身体を引きはがした。

 わたしはそのまま兄さんに抱き上げられて、奥の部屋に連れていかれてしまった。

 母さんと父さんが何か叫ぶけど、兄さんは何も言わなかった。






 奥の部屋で、兄さんはわたしの髪の毛の飾り紐を全部外してしまった。それを丁寧にひとまとめにして、それから櫛でわたしの髪の毛を梳かす。

 抜けて櫛に絡まった髪の毛は、一本一本外して、それも丁寧にまとめていった。そうやって長いこと髪を梳かして、やがて抜け落ちたわたしの髪の毛は、黒い糸の束のようになった。

 兄さんはその糸の束の端を結んで、また丁寧に脇に置いた。


 それから、わたしにその櫛を渡してくる。わたしがその櫛を受け取ると、今度は自分の髪の毛をひと束持ち上げた。わたしにも、同じようにやれということだろうか。

 わたしが、その髪の毛から飾り紐を外し始めると、兄さんはにっこりと笑ってわたしの髪を撫でた。兄さんの言いたいことがわかったのが嬉しくて、わたしは頑張って飾り紐を外した。

 外した飾り紐を丁寧にまとめておいて、今度は兄さんの髪を梳かす。

 兄さんの髪は、とても綺麗だ。空を映す雪の色。光を透かすつららの色。冬の凍りついた湖の色。抜けた髪は、一本ずつ丁寧に外して、まとめておく。

 キラキラと輝く兄さんの髪は、わたしの真っ黒い髪と違って、まるで朝露が輝く蜘蛛の糸のよう。


 そうして、兄さんの髪も糸の束のようになったら、兄さんは今度は自分の髪糸の束を持った。わたしには、わたしの髪糸の束を持たせる。そして兄さんは、自分の髪で飾り紐を編み始めた。

 これはきっと、わたしにも同じように編めと言っているんだと気付いて、わたしも編み始める。わたしはやっぱり兄さんから遅れがちになるけど、兄さんはわたしを待って、時々手を止めてくれた。

 兄さんと並んで飾り紐を編んでいるうちに、わたしはなんだかとても楽しくなってきて、笑ってしまった。わたしが笑うと、兄さんは驚いたようにわたしを見て、それから兄さんも笑った。


 やがて、二人の髪色の飾り紐が出来上がる。

 兄さんはいつものように、わたしに向かって頭を近付けてくる。今日は後ろを向かずに、左耳の下の髪をひと房持ち上げた。顔のすぐ脇の、髪のひと房。


「ここに結ぶの?」


 そう聞いてから、やっと気付いた。

 そうだ、母さんの髪の毛の同じ場所には、父さんの毛並みと同じ色の飾り紐がいつも付いている。父さんの髪の毛の同じ場所には、母さんの毛並みの色。

 つまり、この飾り紐は、そのためのものなんだ。


「わたしと兄さんは、母さんと父さんみたいになるの?」


 つまりそれは、どういうことだろうか。

 手が止まってしまったわたしに、兄さんが何か言う。とても優しい声で、静かに。兄さんは、いつものように優しい顔をしていたけれど、少し不安そうでもあった。

 そのまましばらく兄さんと見つめあって、また気付いた。


 いつも、わたしは兄さんの言うままに、兄さんの言う通りにしていたけど、それは兄さんがわたしにさせていたわけじゃない。

 わたしが兄さんを選んで、自分でそうしていたんだ。だから兄さんは今も、わたしに選んで欲しくて、こうやってわたしを見ているんだ。


 わたしは、思わず笑ってしまった。兄さんの尻尾がくすぐってきた時のように、なんだか胸の奥がくすぐったかった。

 もしかしたら、さっきの人も、わたしに選ばれたかったのかもしれない。兄さんは、わたしがあの人を選んでしまうかもしれないって思ったんだろうか。


 わたしは、自分の髪で編んだ飾り紐を兄さんの顔の横の髪に結び始めた。わたしの真っ黒な髪を結んでしまうのは、兄さんのせっかくの綺麗な髪が少しもったいないような気がしたけれど、でもこれは、わたしが兄さんを選んだということなんだと思う。

 兄さんは、ほっとしたように目を細めて、わたしの髪を撫でた。


 わたしが結び終えると、今度は兄さんがわたしの髪をひと房持ち上げる。わたしの顔の脇、耳の横の髪だ。

 そして、わたしに何かを言う。何を言っているかはわからなかったけれど、それは問い掛ける調子だったから、またわたしに選ばせてくれたんだと思う。

 兄さんの琥珀色の目を見上げて、わたしはにっこりと笑った。


 そうやって、兄さんの髪の飾り紐がわたしの髪に結ばれた。髪を少し持ち上げれば、兄さんの毛並みの色が見える。

 わたしは嬉しくなって、兄さんに飛びついた。兄さんはわたしの体を受け止めて、わたしの首筋に鼻先をくっつけた。わたしもお返しに、兄さんの首筋に鼻をつける。

 お母さんとお父さんがよくやっているこの挨拶も、そういうことなんだ、と気付いた。そうか、と思って嬉しくなって、もう一度兄さんの首筋に鼻をくっつけた。


 長いこと飾り紐を編んで疲れてしまったわたしは、眠くなってそのまま眠ってしまった。

 兄さんはわたしの体を優しく抱き込んで、一緒に眠ってくれた。わたしの体が冷えてしまわないように。






 次の日、お日様が登ってから、わたしと兄さんは二人で母さんと父さんの前に立った。お互いの髪色の飾り紐を結んだまま。

 父さんは大きな溜息をついた。母さんは、またわたしをぎゅっと抱き締めた。


 兄さんが、母さんと父さんに何かを言う。母さんと父さんは、わたしの顔を見て、それから二人で顔を見合わせて、それから兄さんに向かって何かを言った。

 よくはわからなかったけど、兄さんが嬉しそうな顔をしてわたしの手を握ったので、きっと大丈夫だと思った。


 それから、兄さんは忙しそうにしている。毎日、日が昇るとどこかへ出かけて、日が沈む頃に帰ってくる。

 母さんと父さんは何も言わないから、きっと大丈夫なんだと思うけど、わたしは兄さんと離れている時間が長くなって、寂しかった。


 それと、あの曇り空の毛並みの人がまた来たけど、わたしの髪に結ばれた兄さんの色の飾り紐を見て、何も言わずに帰っていった。

 これを結んでいると、わたしが兄さんを選んだことが、他の人にも伝わるみたいだった。兄さんもわたしの髪を結んでいるから、きっと兄さんがわたしを選んだことも、他の人に伝わっているんだ。

 そう思うと、また胸の奥がくすぐったい気持ちになった。






 風が随分と冷たくなった頃、わたしと兄さんは初めて見る服を着た。胸に葉っぱや花の色の布を巻く。腰にも大きな布を巻く。いつもは体が冷えないように、もっと厚い織物や毛の服を着るから、なんだかまるで何も服を着ていないみたいで落ち着かない。

 兄さんの方は、やっぱり葉っぱや花の色の服を腰回りにだけ着ていて、上には何も着ていなかった。


 そのまま、わたしは兄さんの髪に飾り紐を結んだ。いつもと違って、兄さんの髪の毛を持ち上げて頭の上にまとめるように結んでゆく。母さんの手が教えてくれるままに、わたしは兄さんの髪をまとめていった。これまでわたしが編んだ、たくさんの飾り紐で。

 そうやって髪を上げると、兄さんの背中の綺麗な毛並みがキラキラと輝いて見えた。

 左耳の下のひと束だけ、わたしの髪色の飾り紐が結ばれて、顔の横に長く下がっている。


 次には、兄さんがわたしの髪に飾り紐を結ぶ。これまで兄さんが編んだ、たくさんの飾り紐で。わたしの髪も、いつもと違って高い位置にまとめられてゆく。そして最後に、兄さんはわたしの頭にふわりと、大きな白い布を被せた。

 母さんと父さんが何か言う。わたしは布から顔を出して、母さんと父さんを振り返って、でも何も言えなくて、にっこりと笑ってみせた。

 兄さんは、わたしの顔と体を隠すように、またわたしに布を被せ直して、わたしを抱き上げた。わたしが慌てて兄さんの首にしがみつくと、兄さんは家を出て走り出した。


 兄さんが、森の中を駆ける。

 風は冷たくて、布を羽織っただけのわたしは寒くて、兄さんにますますしがみついた。服を着ていないのに、走っているからか兄さんの体はとても熱い。

 駆けながら、兄さんは顎を持ち上げて、あおおと高い声を上げた。長く、長く、声を響かせながら、兄さんは走る。兄さんのその声に、わたしの心臓はどくどくと音を立てた。

 そして、どのくらい走っただろうか、岩場を少し登ったところにある小さな入り口。

 かがんで中に入ると、小さいけれど、過ごしやすそうな家だった。さらに奥に入れば、乾いていて清潔そうな寝床がある。

 兄さんはとても嬉しそうに笑っていて、わたしの首筋に鼻を押し付けてきた。






 雪が積もって外に出られない間、わたしと兄さんは、その小さな家で、ずっと二人きりで過ごした。

 それでわたしは、兄さんはこれまでもずっと、わたしのことを大人だと思っていたのだ、と気付いた。それがいつからかはわからないけど。

 大人というのはつまり、そういうことで、わたしはとっくに大人だったのだ。






 相変わらず、前のことはぼんやりとしか思い出せない。兄さんと言葉が通じることもない。わたしにわかることは少ないし、できることもほとんどない。

 それでも大丈夫だと思うのは、わたしが兄さんを選んだからだし、兄さんがわたしを選んだから。わたしと兄さんは、本当に家族になったのだから。






--------


 この二人の話はここでおしまいです。

 再度になりますが、語り手の彼女が「兄さん」と呼んでいるだけで、血の繋がりはありません。実際には「兄さん」の方が歳下だと思います。


 次のページの話は、ネタバレというか設定集のようなものです。サシ族の文化や風習にご興味がある方はどうぞ。

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