第7話 スノードロップアネモネ

 晴れた日だった。

 澄みきった青空が地平線の彼方まで伸びている。みずみずしい青葉はアーチとなって、七色の日の光と共にまっすぐな道を指し示している。


 本の内容を熟知したわけではなく、花の仕組みすべてを知悉ちしつしたとも言い難い。それどころか、フィーネのお爺ちゃんに話しかけられ、結局のところ門外漢にも程遠い知識しか得ることができなかった。


 でも、十分すぎる収穫だった。


 それを伝えたくて、渡したいものがあって、私はあの森へと急いだ。知り得た情報を忘れないよう、何度も心の中で復唱しながら、ただがむしゃらに走り続けた。


 きっとフィーネもそこにいる。

 あそこで待っている。


 そんな私の願いが届いたのか、フィーネが1人佇んでいた。

 木陰の下で目を閉じ、体を預けて光と調和している。あのときと寸分変わらない光景がそこには広がっていた。


 運命を感じた。

 心が通い合ったような気がして、もうすでに涙が流れそうになるのをぐっとこらえた。


「フィーネ……」


 声に気づいて、フィーネがこちらに振り向く。

 私の姿を見ると、喜びとも悲しみとも言えない微妙な表情をした。もう魔獣と会うなという兄の言葉が、胸をかすめたのだろう。


 安心して、フィーネ。これが最後だから。


 私はそう心の中でつぶやくと、溢れそうになる涙を払うように勢いよく彼女の手を掴んだ。


「名前はアネモネ・シルベストリス!」


「えっ?」


 突然のことに何がなんだかわからないといった顔をする。


「フィーネの髪飾りの花の名前、調べたの!」


「……アネモネ」


 言葉の意味を飲み込もうと、フィーネが繰り返す。


「そうだよ、アネモネ!」


 フィーネが理解したのを見計らうと、私はポケットから新しい白い花の髪飾りを取り出した。


「……これって?」


「うん、フィーネの髪飾り」


「すごい! アルテナが作ったの!?」


「一応……。同じようにプリズマの力を使って結晶化しただけだけど……」


「ううん、十分すごいよ! 付けてみていい?」


「もちろん!」


 白い花が光照らされて可憐に咲き誇る。

 本当にフィーネの銀髪にはこの花がよく似合う。


「花言葉は清純無垢って言うんだよ。フィーネにぴったり!」


「そ、そんなことないよ!」


 フィーネは照れ臭そうに頬を赤らめた。


 その仕草が可愛くて、愛おしくて、たまらなく抱きしめたくなる。


「ありがとう。もう壊さないよう、大切にするね」


 フィーネはいとおしむように髪飾りをそっと撫でた。

 だが、瞳には寂しさが灯り、悲しみの色が宿っている。

 やはりどこかでこのままでいいのか、迷っているのだろう。


「壊れないよ!」


 そのフィーネの不安を断ち切るがごとく、私は叫んだ。


「絶対に壊れない。だってこれは私とフィーネの、2人の大切な証だから!」


 急な大声に驚いたのか、フィーネはすこし体をこわばらせたが、すぐに柔らかな表情になり、こくりとうなずいた。


「それにこれ花じゃないんだ。花びらみたいに見えるけど、ホントは“がくへん”っていって、葉の外側にある保護的なものなんだって。花びらはいつか散ってしまうって、フィーネは言っていたけど、“がく”はずっと残るものもあるみたい。だから、フィーネの花もいつまでも咲いてる。けして散らないんだよ!」


「強引すぎじゃない」


 フィーネは茶化すように笑った。


 たしかに自分でも無茶苦茶だと思う。

 でも、正解じゃなく間違っていても、私はフィーネの発言を否定したかった。


 心の奥底ではわかっていた。

 魔獣と人間が相交わることなど、けしてないことを。


 それでも、私はフィーネとずっと一緒にいれる理由を探していた。

 だから、散らない花があれば、現実ではありえないことがあるのなら、私たちもずっと2人で笑っていられる、そう信じたかった。


 でも、それは幻想でしかない。

 花びらじゃなくても、いつか枯れてしまう。

 私たちの関係も不変ではない。


 それでも、もう終わりだとしても、いまの一瞬だけは永遠を願いたかった。


「……ありがとう」


 そんな私の想いを汲み取ってくれたのか、フィーネは微笑んでくれた。


 感情が決壊し、堪えていた涙がとめどなく流れた。

 悲しい顔を見せてはダメだと急いで目をこする。それでも、ひっきりなしに生じる涙を拭いきることはできなかった。

 私はもうあきらめて真っ赤になった目のまま、フィーネに思いの内を伝えることにした。


「それとね、この花には別名があるんだ」


「別名?」


「うん、スノードロップアネモネ!」


「すのー、どろっぷ……?」


「雪のしずくの花っていう意味」


 わかりやすくフィーネに説明する。


「花はね、みんな別名があるんだよ」


 そう、どの花も2つ名前を持っている。


「フィーネはお爺ちゃんがつけてくれた大切な名前。本当の名前はまだわからないけど、きっと両親の想いがこもったステキな名前。フィーネは自分のホントの名前がわからないって言っていたけど、どっちも正しいんだよ。花に別名があるように、人に名前が2つあってもおかしくないんだよ!」


 フィーネの手を掴み、ぶんぶんと振り回す。そのたびに彼女の小さな体が左右に揺れた。


「だから——」


 これからもずっと元気でいてね。


 言葉にすることができなかった。

 涙が止まらない。

 離れたくない。


 でも、別れなければいけない。

 魔獣と人間は関わるべきじゃない。

 これ以上はたくさん迷惑をかけてしまう。いっぱい悲しい思いをさせてしまう。


 私はフィーネに笑顔でいてもらいたい。

 ずっと笑っていてほしい。


 ——だから。


 顔を上げ、正面からフィーネを見た。

 フィーネはあのときのように、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


 いつも他人想いで、自分のことをかえりみないで、どんなときだって優しい。


 そんなフィーネのことが、私は世界一好きだ。


「ちょっとの間だけだったけど、友達になってくれて……ホントにありがとう。あたし、フィーネのこと忘れない。ずっと、ずっと忘れない」


 花は散ってしまう。

 それでもこの髪飾りが存在している限り、私たちの友情は思い出のかけらとなって存在する。


「何言ってるの、アルテナ!」


 繋いでいた手をほどこうとしたとき、フィーネの荒げた声が聞こえた。涙で歪んだ瞳に、吊り上がった眉が映る。


「これからも、わたしたちはずっと友達でしょ!」


「えっ……」


 意外なセリフに慌てふためく。


「でも、フィーネは人間で、あたしは魔獣だし。あたしと一緒だとフィーネにたくさん迷惑がかかるし。それに、フィーネの兄貴が……」


「お兄ちゃんの言うことなんて知らないもん!」


 フィーネは頬を膨らませた。


「ホント言うとね、私もすこし迷ってた。このままアルテナと一緒にいていいのか。でも、この髪飾りを見たとき、そんなの全部吹き飛んじゃった。人間とか魔獣とか、もう関係ないよ!」


 そう言うと、フィーネは屈託なく笑った。初めて会ったときの、無邪気で心底嬉しがっている、そんな表情だった。


 止まったはずの涙がふたたび溢れ出す。

 くしゃくしゃになった顔で嗚咽おえつを漏らす私を、フィーネはそっと撫でてくれた。


 あたりの発光する植物が緑色の淡い光を放っている。

 いくつもの外灯となって私たちを包み込んでいる。


「ねぇ、ホンモノの雪、見たことある?」


 涙が落ち着き始めたとき、そうフィーネに問いかけた。


「ないよ!」


 すぐにフィーネの元気のある返事が返ってきた。


「本で見たんだけどね、北の国では建物も木々も覆いつくすくらい雪が降るの。それでね、そういう雪の世界をギンセカイって言うみたい! フィーネの髪色みたいに、すっごくキレイなところなんだよ!」


「そうなの!?」


「そうだよ!」


 一度も実物を見たこともないのに、そう断言できた。


 お日様に照らされて、フィーネの髪がキラキラと輝いていた。

 そよ風が空に向かって吹き抜ける。名もない花や植物が一斉に揺れて、ハーモニーを奏でた。


「いつか2人で一緒に見てみたいなぁ……」


「行こう!」


 なにげなくつぶやいた一言を約束にしようと、フィーネは小指を差し出した。


 ほんのすこし、戸惑とまどう。

 これを結んだらもうあとに戻ることはできない、それが正しいのか、わずかな不安が胸をよぎった。


 だが、フィーネはそんな私の心配をよそに、私の手を無理やり引き寄せた。私もそれに答えるように、はにかみながら指を絡める。


 そうだ。魔獣だとか人間だとか、私たちには関係ない。

 私はフィーネが大好きだ。

 そしてフィーネも、きっと同じ気持ちなはずだ。


 いつまでも離れようとしない指先が、それを証明していた。


 見上げた目一杯のスカイブルーは無限に続く海原のようで、浮かぶ白い雲はちいさな船を思わせた。その雲の上に私たちは乗っている。七色に輝く日の光を背に、ほがらかな風に揺られて、2人の心をどこまでも運んでいく。

 花が舞うように、星が輝くように。


 私は絡ませた指をそのままに、笑顔でフィーネに誓った。


「いっぱいキノコウメ持っていこうね!」


「うん!!」


 そう笑った少女の髪には、白い花が咲いていた。


<了>

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アネモネ 藤野ハレタカ @fujino_harutaka

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