第2話 出会い

 森の深く、1人の少女がうずくまっている。


 青い肌、褐色の髪、そして頭上から伸びた2本の角。

 ここら一帯を支配する人間の姿とは違う、異形の者。


 ——魔獣。


 人間はそう呼び、私たちをみ嫌った。

 姿形が異なるという点だけで、差別し、迫害し、暗い森のさらに奥へと追いやった。


 その魔獣の子である私が、敵である人間の森の真っただ中で苦悶くもんの表情を浮かべてかがみこんでいる。

 視線の先にある足首は赤く腫れあがり、皮下出血により変色している。さすって労わろうにも、痛みが妨害してうまくいかない。


 まさか足をくじくとは……。


 背丈よりもすこし上くらいの、ほんの小高い崖を飛び降りただけだった。

 それだけなのに着地に失敗したこの右足は、立てないくらいの悲鳴を上げている。


 魔獣が聞いてあきれる。


 元来、魔獣とはその名が示すとおり獣に近い存在で、知識や器具を駆使するというよりは本能や感情で動くことが多い。主軸である狩りも自身の足を使うことがほとんどで、結果として運動神経や体力はそうじて高い。

 まあ、それだけでは生き残れないと、兄貴に幼少の頃から他言語や文化を叩きこまれたが、通常はそういうものだ。

 それがこのありさまである。


 こんな姿を兄貴に見られたらなんと揶揄やゆされることか。


 そう自嘲気味に口元を緩ませたが、すぐに激痛が顔を引きつらせた。どうやら些細な笑みを作ることさえ許してもらえないらしい。


 とにかく、一刻も早くここから離れないと……


 この森は人間たちのテリトリーだ。

 万が一こんな場面を目の当たりにでもされたら、どうなるか想像に難くない。攻撃され捕獲され、最悪殺されるかもしれない。ろくに抵抗できない現状ならなおさらだ。


 私は覚悟を決め、地面に手をついた。

 ケガした足になるべく負担がかからないよう、体重をもう一方の足に預け、ゆっくりと上体を起こす。全神経を研ぎ澄まし、すこしずつ慎重に動作する。途中よろめきそうになったが、なんとかバランスを保つことに成功した。


 ぐんっと空が近づいた気がした。

 夜の静けさをともなった風が、火照る頬を優しく撫でる。問題なく立ち上がれた安堵からか、長いため息が漏れた。

 とはいえ、もうすでに満身で運動したかのように汗が止まらない。この先、無事に帰路に着くことができるのか。重い不安にさいなまれながらも、私は元来た道を進み始めた。


 もっとも、ふつうに歩くというのは困難だ。できるだけ足を庇いつつ、引きずりながら前進する。

 それでも鈍痛は鳴り止まない。脂汗が頬を伝った。


 くじいただけにしては痛みがきつい。

 もしかしたら骨にヒビが入っているかもしれない。


 だとしたら、なんと軟弱だろう。

 最近勉強ばかりで、訓練をさぼっていたのがここにきて露骨に表れたのか?


 自分のひ弱な体質に嫌気がさしながらも、身体を前へと傾ける。


 まずはこの森を抜けよう。


 人間の領域から外れれば、すこしは安心だ。

 先に川があったはずだから、そこで足を冷やそう。その後、適当なところで休み、苦痛が和らいだらあらためて家に帰ればいい。


 そう考えを巡らせていたときだった、カサッとあきらかに自分のではない物音が背後から聞こえた。


 はっとなり、振り向く。

 ブラウンのトップスに白いスカートの少女が、その大きな瞳をこちらに向けて様子を伺っていた。


 人間だ!


 冷や汗が絞ったように噴き出る。頭に暗幕がかかり、一切の思考が遮断しゃだんされる。

 わずかな間だったが、言葉を発することや動くことはもちろん、息をすることさえ忘れた。


 幸い大人ではなかった。

 外見から判断して同い年くらいか? 容姿からあどけなさが抜け切れていない。


 だが、あなどることはできなかった。

 逆に子供であるが故に大声を出されたり、大人たちを呼びにでも行かれたりしたら、それこそたまったものではない。負傷した足では追いつかれ、毒牙にかかるのは避けられないだろう。


 必死で後ずさる。

 そのたびにズキッ、ズキッと激痛が響いた。

 苦痛から声を上げそうになるのをぎゅっと押し殺す。


 逃げなきゃ……、逃げなきゃ……。


 念仏のごとく唱え続けるが、下半身は鉛のように重い。


 いっそ足を犠牲に駆け出すか?

 だが、いまやお荷物でしかないこの脚力ではまともに走ることすら難しい。転倒する可能性だって高い。

 そうなったら最後だ。もう起き上がることはできない。


「あなた……、ケガしてるの?」


 こちらの内情をすべて見透かしているのか、少女は心配げに覗き込んでくる。


 隙を見せたらダメだ。


 眼光を鋭く相手を睨みつけ、こぶしを握る。苦渋くじゅうの素顔を隠し、精一杯の威嚇いかくをして牽制けんせいする。


「怖がらないで」


 そんな私の虚勢もむなしく、少女はすこしも怯えることなくこちらに向かってきた。警戒心は見られない。無防備のまま、私のそばへと近づいてくる。


 どういうことだ!?

 お前は人間で、私は魔獣なんだぞ。

 逆に襲われる不安がないのか?

 それとも油断させておいて、一気に仕留めるつもりか?


 感情が錯乱さくらんする。

 どうすればいい?

 そう右往左往しているうちに、少女はもう目と鼻の先まで来ていた。


 大きな瞳が私の傷んだ足首を捉える。無理に動かしたせいか、患部はますます腫れあがっていた。色も赤というよりは紫に変わっており、より一層痛々しさが増している。

 思わず少女が顔をそむけた。たが、すぐに彼女は敵対心がないことを示すよう笑顔を見せると、物怖じせずにかがみこんだ。


「足をくじいたのね。だいじょうぶ。これくらいなら、私の知ってる簡単な魔法でも治せる」


 白い手のひらがそっと足首に添えられる。銀色の髪の隙間から、透き通るようなうなじが垣間見えた。


 抵抗はできなかった。


 実を言うと、人間と対峙したのは初めてだった。

 兄貴から人間に出くわしたときはこうしろだの、ああしろだの、散々注意されたはずなのに、いざ実際に対面すると恐怖心のほうが勝り、冷静に対処するなど不可能だった。


 諦めとも絶望とも言えない感情が一気に押し寄せてくる。

 視界を閉じると、心臓の鼓動が激しく脈打っているのがわかった。自暴自棄になり、なすがまま体を少女へ預ける。


 いままでたくさんの仲間がひどい目に合わされた。

 私もそうなるのだろうか。

 もっといろんなことをしたかった。

 果てない草原を駆け回って、いくつもの山々を飛び越えて……。

 せめて最後に、手にしたキノコウメをたらふく食べたかった。


 目を固く結ぶ。歯がカチカチと鳴る音が響いた。死を覚悟し、身を縮こまらせる。が、感じたのは激痛ではなく、ほのかな暖かさだった。


 意外な展開に、恐る恐る目を開く。

 淡い緑色の光が足首を包み、緩やかに伸縮している。それは一定のリズムで上下していて、まるで生物の鼓動みたいで幻想的だった。柔らかい、それでいて心温まる輝きに目を奪われる。


 私は不安におびえ、恐れおののいていたことも忘れて、ただその光を凝視していた。

 暗い森に複数存在する発光植物とはまた違う、2人だけを照らす1つの街灯となって、優しく私たちを見守っていた。


 やがて光がかげり、波際の砂のように引いていく。

 刃物で突き刺し続けられた痛みは、もうどこにもなかった。


「痛くない……」


 素直な感想がこぼれる。

 と、同時に唇を噛みしめた。

 人間に助けられたこと、それを恥じて強く歯を立てる。


「それじゃあ……」


 悔しがる私とは対照的に、少女は満足げに微笑むとその場を立ち去ろうとした。背中がどんどん遠ざかり、後ろ髪が風に揺られなびいていく。


「待って」


「えっ?」


 まさか声をかけられるとは思っていなかったのだろう、びっくりした感じで少女が振り向いた。


 ——ありがとう。


 言いかけたその言葉を、喉の奥へと飲み込んだ。

 人間にそんなことを言うのははばかられた。

 あいつらは敵であり、憎むべき存在なのだ。

 でも、助けられたのに何もしないのは、どこか嫌だった。


 どうしよう……、どうすれば?


 迷っていると、ふとポケットにいま採ったばかりのキノコウメがあることを思い出した。手を入れ、少女の目の前にそれを突き出す。


「くれるの……?」


 少女は大きな目をさらに丸くすると、首を傾げそう言った。


「ええ」


 粗暴に言い放つ。


 本当はあげたくなかった。

 わざわざ人間の森に入ったのも、このキノコウメが欲しかったからだ。

 苦労して手にしたものを、みすみす手放すことほどしゃくなことはない。

 けれども他に良い案もない。

 私はしぶしぶキノコウメを渡すことにした。


「もしかして、好きなのキノコウメ?」


「とっても」


 今度は素直にそう答えた。


 子供心にも、こんなにおいしいものはないと思っている。

 厚みのある半球型の傘はステーキのようで、キノコとは思えない弾力がある。噛みしめるとにじみ出るウメのほのかな酸味は、果肉の甘みとちょうどよいバランスをもたらしている。

 毎日キノコウメでもいい。それくらい大好物だった。


 その言葉を聞いて、少女は笑った。

 お腹を抱えて、心底楽しそうに。無邪気でまじりっけのない、人懐っこい笑顔で。


 何がおもしろかったのか、私にはわからなかった。

 でも、その微笑みを見ていたら、なぜか自分も幸せな気持ちになった。


「あたしは、アルテナ!」


 気づいたら名前を名乗っていた。

 人間に出会い、名前を告げる。

 魔獣としてはあるまじき行為だった。でも、その子には伝えてもいい、そんな気がした。


「フィーネよ」


 少女もしっかりと答えてくれた。


 それが嬉しかった。

 たまらなく嬉しかった。


 相手は人間なのに。

 魔獣じゃないのに。


「よろしく、フィーネ」


「こちらこそ、よろしくね。アルカナ」


 小さな手が差し出される。触れたら壊れてしまいそうな繊細なそれを、照れながらそっと握った。

 指が絡まり合い、固く結ばれる。

 誰かと握手すること自体、初めてだったかもしれない。

 フィーネの手は夜の風にさらされたためかすこし冷たかったが、さきほどまで痛みで熱を持っていた私には逆に心地よかった。


「アルテナもキノコウメを採りに来たの?」


「うん」


「私もお爺ちゃんのために、キノコウメを採りに来たんだ」


「そうなの?」


「よかったら、2人で一緒に探さない? 1人より2人のほうがいっぱい採れそう!」


「うん!」


 私は勢いよく頷いた。


 もうフィーネが人間だとか、私が魔獣だとか、そんなことはどうでもよくなっていた。

 私たちは夢中でキノコウメを探した。どっちが多く採れるか、くだらない競争をして。


 数十分後、私たちの胸には両手では持ちきれないほどのキノコウメが溢れていた。


「いっぱい採れたね」


「うん」


 大量のキノコウメを前に優越感に浸る。


「でも、もうだいぶ遅い時間。お兄ちゃんが心配してるかも……」


「お兄ちゃんがいるの?」


「そうだよ」


「あたしもアニキがいるよ!」


「えっ、ホント!? 一緒だね!」


 兄がいること自体、べつに珍しくもなんともないのに、同じということが親しみを湧かせた。


「ねぇ、いっぱい採れたし、すこし食べちゃおっか……?」


 フィーネがいたずらっぽく微笑む。


 たしかに持ち帰るにしては量が多すぎる。私はすぐに賛同した。

 一口、かぶりつく。すぐに口の中で柔らかい果肉が弾ける。美味しさが舌の上で踊り、幸せが充満する。いままで食べたキノコウメのなかでも最上の味がした。


 あたりはもうすっかり暗くなっていた。

 夜の森は薄気味悪くて、正直あまり好きではなかった。

 でも、2人で見上げた空には無数の星が輝いていて、ここが闇だとは微塵みじんも感じなかった。


 ふと、真横を振り向く。

 フィーネもこちらを見ていたみたいで、視線がぶつかる。

 お互いに頬がほころび、笑顔になった。


「美味しいね!」


 そう笑った少女の髪には、白い花が咲いていた。

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