アネモネ

藤野ハレタカ

第1話 プロローグ

「フィーネ、まだかー?」


「ちょっと待って、お兄ちゃん!」


 銀色の髪をとかしながら、慌ててそう答える。


 時刻は昼前。

 すっかり顔を出したお日様は、堂々たるその姿を得意満面に、まもなく頂点へとたどり着こうとしている。分厚いカーテンから解き放たれた窓は、降り注ぐ日差しを全面に受け止め、その燦々さんさんたる光を部屋全体に屈折させている。室内は十分すぎる光量に満たされており、春の温かさも相まって快適な空間となっていた。


 今日がもし予定のない休日だったのなら、さぞ心地の良い、何かステキな出来事が起こりそうな雰囲気に胸躍らせたことだっただろう。

 だが、いまはそんな悠長に構えている場合ではない。私は脱ぎ捨ててあったパジャマをせわしなくたたむと、タンスの奥へとしまい込んだ。


 お兄ちゃんならまだしも、まさか私が寝坊するなんて。


 焦りから湧きあがった汗をハンカチで拭き、前髪を指で整えながら心のなかでつぶやく。


 生まれて16年、真面目さだけが取り柄だった。

 約束を破ったことなんて1回もない。

 いつも待ち合わせ時間より早く着くようにしたし、どんなときも余裕を持って行動するよう心掛けてきた。


 反面、兄はぐうたらで、2度寝3度寝当たり前。

 そんな兄を起こすのが私の役目で日常だった。いくら注意してもダメなときは、ご飯抜きだよと叱責しっせきすることもあった。

 2人きりの兄弟。責任感の薄い兄に代わり、しっかりしなきゃなという意識は自然と私の中で芽生え、それが良い意味で緊張をもたらしてくれていた。


 それが今日に限って、私のほうが長寝するとは。


 目覚めたときは現実が理解できず、おもわず変な声を上げてしまったほどだ。跳ね起きるようにベッドから飛び出し、慌てて着替えを済ませた。もうみんなは下の階に集まっていて、私の登場をいまかいまかと待ちわびている。


「これじゃ、お兄ちゃんを叱る資格なんてないよ……」


 情けなさから、つい泣き言がこぼれる。


 そもそもなぜこんな時間まで寝てしまったのか。

 手を休めることなく身支度に勤しながらも、私はその理由を模索し始めていた。


 思えば、たくさんのことがあった。悲しいことも嬉しいことも。

 あまりに目まぐるしい物事の連続に、感傷に浸る余裕すらなかった。

 もしかしたら、それらの疲れがここに来て一気に押し寄せたのかもしれない。それともかけられていた魔法の残滓ざんしが肉体に悪影響を及ぼしたのか。


 いずれにしろ、お兄ちゃんたちをこれ以上待たせるわけにはいかない。


「うん、これで良し!」


 私は答えのでない考えを早々に打ち切ると、鏡の前でくるりと一回転した。服がよれたり、リボンが曲がったりしていないか、見た目に問題がないことを確認する。


「あとは、と……」


 ドレッサーの上に置いてある髪飾りに触れようとしたところで手が止まる。

 白い花を結晶化させて作られた可愛らしいアクセサリー。

 そのキュートな見た目とは裏腹に、頑丈で精巧なそれは、ちょっとした衝撃程度ではとても壊れそうにない。


 あの日からずいぶん時間が経ったにもかかわらず、プリズマの力によって守られた生花は、まるで時間が止められたかのように最盛期の美しさを保っている。

 けして枯れることのない、永遠に咲き誇る悠久の花だ。


 ——散らないんだよ!


 そう言った彼女の言葉が反芻される。


 指先の先端で、優しく撫でるように花びらの部分に触れる。光に照らされてか、無数の粒子がほのかに色めき、虹色の閃光となって私の瞳に宿った。


 殺された未来を救うように、殺された敵も救えるはずだ。


 それをこの髪飾りは教えてくれる。思い起こさせてくれる。


 銀髪に白い星が彩る。

 それは雪原に咲く一輪の花のようで、控えめながらも爛々らんらんと存在感を放っている。


 スノードロップアネモネ。

 それがこの花の別名。


 私は生涯、この花の名前を忘れることはないだろう。

 そしてそれを教えてくれた彼女との出会いも。

 すべてが大切で、かけがえのない思い出。

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