3-11
僕は差し出されたようかんを受け取って、おばさんは前の席に着いた。その瞬間――いたっ。
高千穂先輩は僕の左靴をギュッ、っとローファーで踏みつけて、小声でこんな事を言い出した。
「君、やっぱり覚えているの?」
「えっ、なんの事ですか?」
「事故に遭った日にさ、私の家で……」
「先輩のお宅にはお伺いしましたけど、なんのことですか?」
「ふーん、『なんのことですか』、ねえ」
ムスッと不機嫌な顔をした先輩は、昼の京阪特急の時と同じように、カバンから出したスマホとにらめっこし始めた。
まあ、『彼女』は確実に怒られるな、とは思っていたけども、『事故に遭った日』とは一体先輩は何に怒っているんだろうか。
手持ち無沙汰になった僕は、窓の外に目をやる。しばらくすると、停まっていた電車も動き始めて、おそらく、新幹線の高架下と思しきところを走っていく。
「さきほどはホームの安全装置が動作したため……」
僕は一定のリズムで流れ去る橋脚を眺めながら、何故横の先輩が機嫌を崩したのかをボーっと考える。先輩の「覚えているの?」が何の事か、さっぱり分からないのだ。
あの日は、太秦の先輩の家に行って、文化祭以来部室に置きっぱなしになっていた高千穂先輩の私物の模型やらを返し、その後はダラダラと三人でお茶を飲んだだけのはずなのだ―― ってあれ。
ダラダラとお茶を飲んだのは確かだが、先輩の家からどうやって帰ったのかを覚えていない。
僕が事故に遭ったのはバスの中だから、たしかに嵯峨の先輩のお家から、バス停までは歩いているはずだ。白井先輩が『私は嵐電で帰ります』と言って、先輩の家の前で別れたのも覚えている。
でも、そこから、事故に遭う瞬間までの記憶が、スパッと落ちている。
ひょっとして、僕はその間になにか、とんでもない事をしでかしたんじゃないだろうか。
僕はあるはずなのであろう物が見付からない気持ち悪さを抱えながら、列車は瑞光、新摂津と知らない駅へ停っていく。
茨木からは東海道線とまた併走して、東海道線の鶴見あたりみたいだな、と思ったら高槻に着いて、例の舟和のようかんのおばさんはそこで降りていった。
高槻を出ると、高千穂先輩が突然ぼそっと話かけてきた。
「……ようかん、頂こうか?」
僕は「そうしましょう」と同意すると、先輩は包みを開いて、ようかんを取り出した。一瞬、一本のようかんをここでどうやって切るんだろう、と思ったけど、そういえば舟和のようかんは一口大に予め切られているんだった、と思い出す。
「これ、トーストするともっとおいしいんだよね」
そういえば、先輩はスイートポテトみたいなものも好きだったっけ。
僕は先輩から手渡されたようかんを一口頬張る―― うん。お芋の味がしっかりして、おいしい。
「おばさんから頂いて、正解でしたね」
「でしょ。京都の三越とかにも売ってはいるけど、お値段も張るからねえ」
「そうなんですね」
いつもの様に会話しているように見えるけど、やっぱり、さっきの事があるからか、どことないぎこちない空気が漂う。
僕が島本あたりで電車が東海道線の線路から離れていくのを認めると、先輩が話を切り出し始めた。
「君、舟和のようかんは知っているの?」
「はい、僕の知っている『東京』だと、お土産は東京バナナの方が有名ですけど、舟和のようかんも根強い人気がありますね」
「バナナ……? それはチョコバナナみたいなものなの?」
「バナナの餡をスポンジで包んだお菓子ですよ。こっちにはないんですか?」
「うーん、東京土産と言えば舟和のようかんか、人形焼と、佃煮くらいかなあ」
「えらいジジくさいライナップのような……」
「まあ、東京駅のお土産売り場にはもっと他の物も売っているけど…… ほら、京都土産っていっても、八つ橋とか、西京漬とか、定番ってどうしてもジジくさくならない?」
「まあそうですけど…… じゃあ、抹茶スイーツとかはないんですか?」
僕がそう聞くと、高千穂先輩は「京都で抹茶……?」と目をしかめる。
「確かに昔からあるお茶屋さんはあるけど、むしろそれって静岡とか、三重のお土産じゃないかな」
「えっ、京都にも宇治茶ってもんがあるじゃないですか」
「そういえば戦前までは宇治ってお茶の産地だったんだっけ。中学の社会の授業で聞いたことがあるね」
「今は違うんですか?」
「ほとんど宅地開発されて、お家が建っているんじゃないのかな」
そういえば、高槻を出て、しばらくは田んぼだった気がする所にもマンションのようなものが建っていたのを思い出す。
今走っているところはちょっとどこだか分からないけど、線路沿いにはマンションや一戸建てが並んでいる。関西は関東平野ほど広い平地はないはずだから、人が住むところを確保するのも大変なのかもしれない。
高千穂先輩は「残りは花音と一緒に食べよう」とカバンの中にようかんの箱をしまう。
「うーん、それにしてもお土産ひとつ取っても、ここまで噛み合わないのも面白いね」
「当人にとっては面白いなんてもんじゃないですよ……」
電車は東土川という駅を出て、「次は西大路」という放送が流れる。先輩いわく、僕はここで東海道線に乗り換えて、大津か石山で近江鉄道に乗り換えたら帰れるらしい。高槻を出てもしばらく経っているし、あと5分もしないままに着くんだろう。
しかし、『噛み合わない』といっても、お土産の話はまだ納得出来るけども、その前の先輩の家の話がまったく理解出来ない。
それこそ、僕って『揃ったパズル』になっているのか、すごく疑問だし、このままウダウダと一人で考えるのも、あまりよくない気がする。走り去る街並みもどんどん高くなってきて、そろそろ京都市内が近いことも伺える。
もうあまり時間はない。
僕は一呼吸おいて、羊羹を箱にしまう先輩に話しかける。
「先輩、僕って、事故に遭う前と何か変わりましたか?」
「突然どうしたの?」
先輩が驚いたような顔をして僕の方を向く。僕は一回咳払いををして、「実はですね」と切り出す。
「正直に話すと、さっきの話、僕、先輩のご自宅を出てからの出来事を何も覚えていないんですよ」
しばらく、フランジ音だけが車内を包む。
高千穂先輩は「マジで?」といった顔で、「えーっと……」と固まる。
何だこの反応は。僕は本当に先輩に何をしたのだろう、と冷や汗が出ているのが分かる。なんだ、胸に触れるどころじゃないことでもしたんだろうか。
電車はガゴンガゴン、と橋梁を渡り始めた。もう暗くなっていてよく見えないけど、多分桂川を渡っているんだと思う。放送も「まもなく、西大路、西大路、東海道線の向日町、京都、大津、米原方面と、地下鉄西大路線、洛西高速鉄道線は、乗り換えです。次は、二条に停まります」と流れていて、そろそろ降りる駅が近づいていることが分かる。
先輩も流石にこのまま別れるのはマズい、と思っているようで、腕を組んで考え込んでいる。なんだ、本当に電車じゃ言えないような事なんだろうか。
桂川の川幅が五キロくらいあるんじゃないか、ってくらいの長考を経て、先輩は口を開いた。
「ねえ、さっきの『彼女』って、そういうつもりあるの?」
当然、そんなつもりはない。ただからかっただけだ。先輩とは仲の良い『シスター』で、そういう気持ちは、ない。それにこんなに綺麗な人は、僕にはもったいないだろうし。
「すみません、まったく冗談のつもりで……」
僕がそう謝ると、先輩は「そっか」と顎に指を置く。
「うん、なら、大した事じゃないよ。」
先輩が小さく笑いながらそう言うと、窓には西大路駅のホームの明かりが流れ込んできた。ホームにはこれまた人が溢れていて、降りるのにも一苦労しそうだ。
僕が「それではごきげんようです」と電車を降りて、ホームに立って振り返ると先輩がグリーン車の二階から僕に向かって「バイバイ」と笑って手を振ってくれていた。僕も振り返すと、ジリリリ、とホームのすべての音をかき消すような発車ベルが鳴って、乗ってきた電車が出発してゆく。
知らない街の、知らないホームから出る、知らない電車。
電車が出ていくとき、なぜだか高千穂先輩は窓から顔を外して、通路の方を向いていた。
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