3-10
「私も阪和線のグリーン車は久しぶりだね」
グリーン車は東京の東海道線や高崎線で走っているE231系の中にそっくりだけど、席が赤色のモケット、そして座席の枕カバーが布でできている。乗っているお客さんは八割サラリーマン、といった感じで、日経新聞の夕刊を読んでいる人や、ノートパソコンで仕事をしている人、あとはビールなんかを飲んでいる人が目立つ。ほとんど満席なのに、すごく静かだ。
僕は小声で高千穂先輩に話しかける。
「座れてよかったですね」
「そうだね、グリーン車はデッキに立っていても料金取られちゃうからね」
湊町を出た電車は西本町、中之島と順番に停っていく。二つとも相対式のホームの駅で、和歌山方面のホームにはこれもまた電車を待つ背広姿の人達で溢れている。僕の知っている大阪も随分と人の多いところだったけれども、明らかに電車の本数が違うし、人口も倍くらいいるんじゃないだろうか。
電車が大阪駅の地下ホームに着くと、半分くらいの人が降りて、降りた人より少し多いくらいの人が乗り込んできた。ここまで、電車はずっと地下を走ってきている。
「ここって、どこの地下になるんですか?」
「どこって…… そうか、もともとは梅田貨物駅になるのかな。貨物駅だった頃って五〇年近く前だと思うけど」
「貨物線はなくなったんですか?」
「うん、昔は新大阪から西九条まで貨物線があったらしいんだけど、淀川を渡る貨物線の線路を阪和快速線にしちゃったのと、踏切があったとかで廃止になったとか聞いたことがあるね」
「それこそ『あっち』では今その工事をしていますね」
「ほう、だいたい五〇年くらい工事が遅れているのね」
大阪駅を出ると電車はすぐに地上へと出て、淀川を渡る。橋が三つ並んでいて、真ん中の橋を、湘南色――いわゆる、カボチャ色――の東海道線の電車が並んで走っていく。ここは僕も知っている光景で、「東海道線の快速は湘南色」というのも、病院から伯父さんの家へ帰る時に乗ったから知っている。
「先輩、この電車と、あっちの東海道線、どっちの方が速いんですか?」
「えっ、うーんと…… 東海道線は京都駅に着くし、こっちは二条駅に着くから一概には比較出来ないけども、梅田から西大路の間では阪和快速線の方がグネグネ曲っているから、五分くらい遅い、とか聞いたことはあるね」
「じゃあ、新大阪で乗り換えて使う人も居るんですか?」
「それを気にして乗る人はほとんど居ないんじゃないのかな。高槻とか茨木に行く人は多分昔からある東海道線を使うだろうけど、あとは京都駅に向かうか、二条駅に行くかとかで決めると思うな」
なるほど、僕が知っている東京でも、横浜駅を普段使っている人が、丸の内に行くなら上野東京ラインを使うだろうし、新宿で遊ぶなら湘南新宿ラインを使い、千葉の親戚の家に行く時は横須賀線に乗るだろう。言われてみれば、これだけ目的地に直行できる路線があれば、一分でも速いことより、乗り換えのないことの方が楽な事は間違いない。
「僕が知っている京阪間の国鉄って、私鉄との競争で一分一秒を争っていたんで、五分の差を許容するのは意外というか、のんびりしているなあなんて思っちゃいますね」
「あー、京浜間の京浜急行と東海道線みたいなものか」
あ、やっぱりそうなんだ。
「圧倒的に東京駅直通の国鉄が有利といえば有利なんだけど、京浜急行も日比谷に乗り入れたり、転換式クロスシートの特急列車を走らせたりしてて、結構面白いよ」
「それこそ、僕の知っている京阪電車なんかがそんな感じですね。テレビが付いた電車を走らせたり、二階建て車両を連結したりして、サービス満点な電車を走らせているんですよ」
「それはすごいね。二階建ての京阪電車、一回乗ってみたいなあ」
「是非、お越しくださいよ」
「うーん、その為にバス事故には遭いたくないかなあ」
列車は淀川の橋梁を渡り切って、新大阪の駅に停まる。
駅の作りは僕の知っている新大阪とさして変わりない。今度は大きなスーツケースを抱えた背広姿の人や、紙袋を持った初老のおじさんなんかが乗り込んでくる。多分、出張や旅行の帰りなんだろう。
その一人である舟和のようかんの紙袋を持ったおばさんは、僕達の前の席に座るようで、荷棚にその紙袋を押し込もうとしている。小柄なおばさんなので、ちょっと大変そうだ。
「お手伝いしましょうか?」
「ああ、高槻までなんでええ……」
僕が立って手伝おうとした瞬間、ドシン、と列車に急な衝撃がかかる。僕は体勢を崩して、よろめいた。
ちょっと、前の事故を思いだしてしまって、嫌な汗が出ているのが分かる。
車内に自動放送が響く。
「急ブレーキがかかります。ご注意下さい」
どうも、ホーム上の異常があり、電車が急ブレーキを掛けたようだ。
一方、この衝撃でよろめいた僕の顔には紙袋から飛び出した舟和のようかんがクリティカルヒット。ようかんって結構重量感、あるんだな、と身を持って体験した後、何やらやわらかいものが背中に当たった感触を得た。
『あ、これはまずい』
僕は直感的にそう思いながら、高千穂先輩の膝に着地した。
「大丈夫?」 高千穂先輩が僕の顔を覗き込む。
先輩に膝枕される格好になった僕は、ほぼゼロ距離で先輩と見つめ合う羽目になる。先輩の顔が視野いっぱいに広がり、たぶん、触れたらほんとうにスベスベなんだろうな、とかちょっと思ったりしてしまう。普段、こう言うのは避けているんだけども。
――やっぱり、きちんと先輩の顔を拝見すると美人、だよな。
そんな事を考えていると、急に無事だったことに対する安心感と、先輩に膝枕されているという恥かしさが一緒に湧いてきた。
僕はこの状況から脱するべく、「すみません」と分が悪そうに体を起し、席に姿勢を直して座る。
「えっと、先輩こそ、ぶつかって大丈夫でしたか?」
「うーん、君に胸を触られたという心理的外傷なら……」
「手では触っていないですよ!」
「冗談、冗談。――ほら、いつも花音には言ってるけど、私着痩せするタイプだから、思ったよりあったでしょ」
「――先輩、制服姿でその手の発言、お外ではやめましょうよ……」
「おっと失礼」
まあ、素直な話、仰る通りに井村屋の肉まんを連想させるくらいはあったかな―― っていけないいけない。
一方、舟和のようかんのおばさんは、「えらいすみません」と謝ってくれて、
「箱が潰れちゃっていますけど、一箱どうぞ」
とようかんを勧めてくれた。
「そんな、ただ箱がぶつかっただけですし、結構ですよ」
「いや、どうせ一つ余計に買ってしまったんで、食べてください」
「でも……」
「いやいや、お詫びに……」
おばさんと押し問答をしていると、高千穂先輩が横から入る。
「あのー、外野の私が言うのもおこがましいと思うんですけど、ありがたくいただいてもいいですか? 私、好物なんです」
「ほらほら、彼女さんもそう仰ってらっしゃるし……」
ここで高千穂先輩はさっきの白井先輩とのやりとりと同じように、「この子、ただの後輩です」と猛否定するんだろうな…… と思ったのだけど、先輩は「ほらほら、頂いちゃいなよ」と言ってるだけで、昼の凄みはどこへやら、といった佇まいだ。
僕は昼に理不尽に怒られた不満のせいだろうか。先輩にいたずらをしてみたい気が湧いてきて、ついついこんな事を言ってしまった。
「なら…… 彼女もそう言っていることですし、頂きますね」
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