2-5

「しかし、花音って『宿題をやりたい』からよく帰るけど、あの子くらい賢くて手際がよければ帰りの京阪電車で宿題終わっちゃうんじゃないのかな」


 先輩はそう言いながら、日の落ちかけた部室に電気をつける。

 薄暗くてぼんやりとしていた部室の物品がはっきりとする。KATOやトミックスの模型ケース、鉄道雑誌や会誌「さくら」がずらっと並んだ書棚。ドアの横には畳一畳分ほどの鉄道模型のレイアウトが置いてある机があって、窓庭には僕たちが座っている応接セットが置かれている。僕が座っているソファーの目の前では先輩も同じくソファーに腰掛けて、スマホをいじっている。大方、SNSでも見ているんだろう。


「あっ、見て見て旭君。東急の甲種回送が昨日あったんだって」


 先輩が出したスマホの画面には、国鉄型の電気機関車EF65に引かれた、ステンレス製の赤い帯を巻いた六両編成の電車が写る。

 一見、故障した電車を車庫に持って帰るような様子だが、これは『甲種回送』、新品の電車を使う鉄道会社までJR――失礼、ここでは『国鉄』の線路を使って、車両工場から納品先の鉄道会社まで運ぶ列車だ。鉄道会社というのは毎月のように新車を導入するわけではないから、たまにしか走らない、珍しい列車の一つだ。


「へ、へえ…… あれ、これどこからどこへ運んでいるんですか?」

「東急だからえーっと、堺の帝国車両からじゃないかな。ステンレスカーといえば帝国車両の専売特許だからね」


 帝国車両とは聞いたことのないメーカだ――と思ったけど、確か総合車両製作所――昔の東急車輌――の合併前の会社名だったっけ。これは東急何系なんだろう。


「東急6500系だよ。新玉川線の8500系の置き換えに使うんだったかな」

「東急8500系ってあのうるさいことで有名なヤツですか?」

「あー、それそれ。『新玉川線は開業から四〇年間置き換えが発生していない』なんていうよね」


 恐らく、置き換えのペースが現実の東急よりずっとゆっくりなんだろう。ところで、さっきから出ている『新玉川線』はどこを走っているんだろう。


「渋谷を出て、二子玉川園までの路線だよ。路面電車だった玉川線の置き換えの」

「それって、僕が知っている路線だと『田園都市線』ですね」

「『田園都市線』? 首都近郊なのに田んぼでも広がっている沿線なの?」


 僕は昨日から散々見飽きた時刻表の路線図を見る。し、し渋谷……から出ているのは先輩が仰るとおり「東急新玉川線」が出ている。

 そこから二子玉川園までたどると、そこから先は「東急大井町線」と書かれていて、長津田まで伸びている。田園都市線は中央林間まで伸びていたはずだけども、そこまでは延伸していないのかな。


「なるほど、新玉川線と大井町線の二子玉川園より先を足して『田園都市線』か」

「そうです、戦後に東急が何にもないところを開発するために作った路線ですね。田園都市、っていうのは名ばかりで、日本で一番混む路線で有名なんですよ」

「それこそ近江鉄道の大津本線みたいだね。戦後に近江鉄道が何百億円もお金を出して、八日市から大津市内の何にもなかったところに線路を延ばしたんだよね」


 なるほど、朝の混雑も頷ける理由だ。竜王の田んぼや近江富士のたもとがすべて住宅地に変わっているのだろう。


「僕の知っている近江鉄道は利用客が少なくて、廃線が噂されているんで、考えられないですね」

「……ちょっとあの混雑から廃線寸前のローカル線は考えられないね」

「僕も『田園都市線が六両』っていうのは信じられないですね……」


 まったくだ。『鉄道が大好き』という気持ちは全く変わっていないつもりだけども、ここまで僕の知っている路線や車両と違いすぎると興味を持ち続けられるか、正直不安になってきた。


 一方、先輩はキラキラとした目で話を続ける。


「しかし、君の話す『向こう』の話はすっごく面白いね。先週の金曜ロードショウよりずっと面白いよ―― もしかして、入院中にネタでも練ってた?」

「……先輩、本当に僕の話を信じているんですか?」

「もちろん可愛い『シスター』のお困りごと、信じてあげるに決まっているよ」


 まったく、本当だろうか。僕がジトっと先輩を見つめると、先輩は椅子から立ち上がって、部室に置いてある模型レイアウトの周りをくるりと回り、ケースに入ったNゲージを取り出した。


 「EF58ですね」


 国鉄近代化の祖。戦後の電気機関車の傑作で、一五〇両以上も作られた車両だ。独特なフォルムが特徴で、レトロでありながら「シュッとした」機関車だ。

 ちなみに「シュっとした」というのは

「ゴハチはシュッとしているところが可愛い機関車だよね」

 と、高千穂先輩がそう言っていて、いいなと思って使うようになったのだ。


 次に高千穂さんはその下にある、ヨーロッパ製っぽい機関車を取り出す。濃紺色に塗られていて、どことなくEF510っぽさもある。


「これは外国の機関車ですか?」


 先輩はケラケラと笑う。「これはEF100だよ。EF58が分かるのにこれは分からないんだね」


 先輩曰く、EF58の置き換え用に作られた機関車で、なんと旅客用は時速一二〇キロで走れるハイパワー機関車らしい。全国の急行列車や高速貨物列車の牽引用として活躍しているそうだ――ってあれ?


「ちょっと待って下さい、客車の急行列車があるんですか?」


 この場合の『客車』というのは、さっき見たEF58やEF100のような機関車が先頭に牽かれることが前提の、モータやエンジンを持たないお客さんが乗るための車両を指す。外国ではいまでもよく見られるらしいけど、日本では観光用のトロッコ列車とか、そういうの以外ではほとんど残っていない。


 先輩はまた笑う。


「逆に、君たちの世界では未だに165系のやかましいモーターの中寝ないといけない『急行ちくま三号』とかが現存しているのかな。中々しんどそうだね」

「何言ってるんですか、『ちくま』なんて僕たち世代だと古い鉄道雑誌の中の列車ですよ。夜行はおろか、定期急行列車ごと全廃してますよ」


 ちくまは大阪発長野行きの夜行列車だったはずだけど、少なくとも僕の小さいときにはすでにない列車だったはずだ。


 先輩は少し驚いた顔をする。

「急行列車がない、ってそっちの世界では深刻な石炭不足でも発生しているの?」

「まさか。戦後直後じゃないんですから。特急と快速に二極化して、急行という種別が消えたんです」

「えっと、周遊券で旅行する人は――」

「その周遊券ってやつは多分一〇年くらい前になくなりました。逆に、夜行バスの世になっても夜行急行が走っているのは国鉄らしいというか」


 先輩は目を細める。『周遊券がないならどうやって旅行するんだ』と言いたげだ。


 夜行急行が残っているのは、国鉄のことだから「ガラガラなんだけども、『長年の慣習』とやらで廃止できない列車」がわんさかあるのだろう。営利企業ではないから、その辺もガバガバな可能性がある。


「夜行バスは必ず座れるしリクライニングも倒れるから便利だけど、そもそも本数が少ないのよね」


 なんだそれ。東京大阪間には星の数ほど走っているじゃないか、と思ったのだが、先輩はこう返す。


「バスって運行免許がめんどくさいんだよ。燃料統制の規制もあるし、高速路線バス規格車ってめちゃくちゃ高いし。急行『銀河』なら一日三往復あるし、夜行超特急も含めると一日八往復くらいあるのかな? そっちの方が早いし断然便利だよ」


 言っていることがよく分からないけど、バスの運行に相当の規制があるらしく、その関係で夜行急行の方が『便利』になっているらしい。


「『大山』に『ちくま』、『立山』、『土佐』『伊予』……ぱっと思いつくだけでもこれだけかな。おっ、なんかうれしそうな顔してるじゃん」

「いや、話してらっしゃる先輩が楽しそうでしたので」

「その顔は『そんな列車あるなら乗ってみたい』でしょ。私も一〇両の東急――田園都市線だっけ、それに乗って大都会の多摩丘陵を散策してみたいなあって思うよ。叶わない夢だろうけど」


 先輩は『EF100』の模型をケースにしまう。


「正直、乗ってみたいのは本音なんですが……」

「『――が』……って?」


 先輩の、模型ケースを棚に入れる手が止まる。


「例えば、僕たちの世界にはN700系って言う新幹線車両があって、新幹線だと僕は一番好きなんです。けど、そんなんありませんよね」

「そうだね、700系はあるけども『N』なんてつく形式、在来線も含めて国鉄にはないね」

「でしょう。で、入院中、先輩に『首都は京都に決まっているじゃないか』なんて言われてから、僕がずっと考えていた事があるんですよ」

「ふむ、なんだい? 聞いてあげようじゃないか」

 先輩は僕が座っている向かいのソファーに座って、ずい、と僕の方に身を乗り出した。


 僕は少し間をおいて、話し始める。

 多分、先輩なら何かの「答え」を持っていそうな気がするのだ。


「先輩、僕は本当に『好き』なのか、よくわからなくなっちゃったんです」


 それを聞いた先輩は少し驚いたような顔をして、目を右にそらした。

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