2 ゆるぎなきもの

2-1

 三月の京都は少し寒くて、まだまだコートが手放せない。僕は四条通に並ぶ摩天楼を背に、学ランの制服の上にダッフルコートを着て、学校への道を急ぐ。


 道中の様子はすっかり変わっていて、タヌキでも出てきそうな自然豊かな道だったのも一変、ただの住宅地とも商業地ともつかないところになっている。ただ不思議なことに、何となく道はわかっていて、「確かここは右」といった感じで登校できている。『酔っ払いは記憶がなくても自分の家に帰ることができる』なんて聞いたことがあるけど、まさにそれみたいな感じだ。


 なんとなく見覚えはある緩い坂を登り切ったところには、ちゃんと僕の知っている校舎が建っていて、門標にも「洛桜らくおう高等学校」 の文字がかかっていた。

 校門に立つ生徒指導部の先生もそのまま。校門の右には池があって、そして池の向こうには部活棟、本館には大きな時計台。全く見知った学校そのままだった。

 もっとも、背を向くと『あっち』では高い建物なんて市役所の前のホテルくらいだったけど、こっちだと京都タワー――そもそもそれが存在するのかも知らないけど――すら望めないくらいにビルが乱立しているんだけども。


 しかし、こんなに自分の学校に対して実家のような安心感を感じることになるとはこれまで思ってもいなかった。むしろ郷里の北足摺町もどうなっているか分からないし、下手すると実家より安心できるかもしれないな、なんて思いながら門をくぐり、そういえば、と二年生の教室へ向かう。


  ○


「先輩、入院中は何から何までお世話になりました」

 高千穂さんも今来たところのようで、コートを脱いで居る最中だった。

「あら、『三日遅れの月曜日のご挨拶』ってところかしら」

 先輩がコートを椅子にかけると、隣の席の人が先輩に話しかけた。

「あ、この子が例のバス事故で活躍した後輩君?」

「うん、そうそう。私の自慢の『シスター』だよ」

「いいなー、私の『シスター』なんてちょっちゅう忘れ物をしてきてすごく頼りげないんだよ。前なんて『先輩、印鑑持ってませんか』って聞かれて笑っちゃったよ」

「こらこら、シスターの悪口なんていけないよ、森田さん。その子にも絶対いいところがあると思うな」

「うーん、まあ『妹』と思えばかわいい……かな?」


 さて、この『シスター』、僕も洛桜に入ったときは何のことか分からなかった。


 単純に言うと、『一級上の先輩が後輩の面倒を見る』という制度で、洛桜一二〇年の歴史の中で連綿と続いてきた制度だ。

 その確固たる『シスター』の関係性は『シスターの絆は墓場まで』――と言ったら過言かもしれないが、本当に仲のよいシスター同士だと、卒業して結婚した後でも家族ぐるみのお付き合いをする人も少なくないらしい。


「まあ、僕……『たち』も最初は煙たがられたほうですから」

「あー……」 先輩の隣の森田さんが固まる。

「そうだったよね。うちは母が『男の一人くらい自由にできなくて何が洛桜生だ』なんて言ってくれてこの子の『シスター』になったけども、反対するご家庭も多かったもんね」

「正直、うちも『何のために女子校に入れたんだ』、なんて言ってたなあ」


 この洛桜は高等女学校に祖を持ち、創立以来一二〇年名門女子校として知られていた。しかし、少子化の波には逆らえず昨年度からついに共学化。僕たちは共学一期生として「男子禁制の桜の門」を初めてくぐった代なのだ。


 僕は高知の田舎から出てきたから、『シスター』なんていう制度があるような伝統校であることをろくに理解せず、『そこそこ難しくて、受かりそうな学校』として受け、なんとなく入学してしまった。ところが、地元では『洛桜の共学化は相当揉めていて、男子生徒がまともな扱いを受けられるは分からない』という噂が割と出回っていたようで、釜を開けてみると男子は一クラスに三人、みたいな有様だった。


 その揉めた原因の一つが、伝統の『シスター』を受けてくれる生徒がいないかもしれない、と言う問題だ。


 やはり父母の中には「男の面倒を見させるのか」「婿捜しに来たんじゃないんだぞ」という意見が少なからず存在し、一時は『一期生男子に限りシスターは教職員が担当する』なんていう案も出たらしい。


 しかし、「それはいかがなものか」という意見を言う人たちがいた。

 桜隣会――この学校のOG会だ。


 「洛桜に通う子が男に負けるとは思わない」「多様性の社会の中でその考え方は前時代的ではないか」などと多種様々な意見が集まりながらも、結局一致していたのは


「一級上の『シスター』の居ない洛桜生は洛桜生ではない」


 という一点だった。あまりにも揃っていたその意見に学校側も応え、父母会の理解を求め、希望した生徒に限り男子の「シスター」を担当させることにしたのだ。


「あれ、先輩はご自身で手を挙げたんですっけ?」

「うん、あと私の所は母も洛桜だから理解があったしね。ほら、私って女っ気がないから、かわいい女の子なんか持っても、私の方がついて行けないんじゃないかなって。横に並ぶのが私じゃかわいそうだしね」

「そんなことないよー、瑞穂ちゃんみたいなスタイルのいい子、なかなかいないよ、ね?」


 森田さんが僕に同意を求める。「ま、まあ……」と曖昧な回答をしておくと、高千穂先輩から「あらあら、『シスター』にはお綺麗ですね、と褒めておくのが礼儀よ?」と煽られた、仕方なくタジタジと、


「お、オキレイデスネ……」


 なんて二週間前から日本語を習い始めたインド人みたいな調子で返すと、二人に笑われた。 ……まったく、男が女性の容姿をそう易々と褒めていいものではないと思うんだけども。


「面白い、面白い――あ、そうだ、入院中に預かっていた傘をベランダに置いているから、取って帰ってよ」


 傘? そんなものを先輩に預けた記憶はないのだが、ひょっとすると叔父さんから預かっているのかもしれない。先輩の教室のベランダに出ると、先輩はあいていたガラス戸を閉めた。


 先輩は付近を伺って、特に誰も居ないことを確認してこう切り出した。


「えーっと…… 朝のラッシュ、大丈夫だった?」


「もう散々でしたよ。あんなに混んだ電車は初めて乗りました」

「でしょうねえ。近江鉄道大津本線って日本で一番混むんだもん……」

 なるほど、この話は回りに聞かれるとまずい。だから架空の『傘』を出してベランダに自然に出したのか。


 昨日は石山に帰ろうとしたら手原に着いていた。


 何を言っているのか分からないかもしれないけど、僕は無意識のうちに石山駅を乗り越し、なんとなく草津駅で電車を降り、八両編成の草津線に乗って手原駅からバスに乗り換え、叔父さんの家にどういう訳か帰ることが出来た。朝東山の駅から学校にたどり着けたのと同じ理屈だろう、ということにしておく。


 学校が変わらず岡崎とも東山ともつかないところにあることは先輩から聞いていたから、朝からまた草津線に乗って……はおっくうだなあ、と思って机の上にあった自分の通学定期を見ると


 「手原――東山三条 経由 大津本・五条[五条坂]東山」


 と謎の文字が躍っていた。文明の利器スマホはどうも事故で壊れてしまったようでしばらく使えず、仕方なく先輩にもらった時刻表で調べた。

 路線図と民鉄線のページを見る限り、八日市から竜王、手原を経て石山や大津に至る『近江鉄道大津本線』なる路線と、それと直通運転をしている『帝都高速度交通公団五条線』、そして五条坂からは『帝都高速度交通公団東山線』という地下鉄を乗り継ぐ定期らしい。


 一体何時に起きれば学校に間に合うのかすら分からなかったので、今朝は六時に起床、叔母さんに「今日は早いわねえ」なんて言われながら家を出たのだ。


 流石首都圏、手原駅までのバスもギリギリ座れないくらい混んでいたのだが、問題はそこからだった。


 まず、手原駅のホームがやばい。

「はい急行松尾橋行ドア閉めさせていただきますー! 後のご乗車できません!」

「今度の準急は長い一〇両編成で参りますので併せてご利用ください」


 まず、目の前に止まっている急行電車は恐らく八日市あたりから乗っているのであろう通勤客で満員、乗れる様子ではない。じゃあ次の「長い一〇両」なら空いているのかと思いきや、あんまり様子は変わらない。


 仕方がないので来た準急電車に詰め込まれると、危うくコートの袖をドアに挟まれかけた。向こうに止まっている普通はまだ空いているけど、あんまり遅い電車に乗って学校に遅刻するのもまずい。入学当初にも石山から新快速に乗らずに普通に乗って遅刻したことがあるのだ。


「準急、松尾橋行きです。近江鉄道線内は、月輪大池、石山、県庁前、藤尾からの地下鉄線内は各駅に止まります」


 どうも地名からして、名神高速に沿って出来た路線らしい――実際、後で先輩も『名神高速が出来た位の時に出来たんだよ』と仰っていたから、現実の東急田園都市線みたいな路線なんだろう。


 そこからは超満員で大して早くない準急電車で遅刻しないかハラハラ、五条坂では遡上を試みる鮭の如く階段を上り、なんとか東山線のホームに到着。恐らく京阪電車から乗り入れてきたような緑色の電車に乗って、東山、もとい、この世界では『東山三条』最寄りの学校にたどり着いた。


 朝一番は「知らない路線に乗れて楽しみだなあ」と半分くらいは思っていたのだけども、学校に着く頃にはそんな気は半分くらいに減り、「これが毎日続くのか……」と上京三日目の新卒サラリーマンみたいな気分になってしまった。


「山陰線の快速も相当に混むけど、大津本線は桁違いだからねえ」


 先輩が労をねぎらう。


「何で滋賀の田舎の方に行く路線があんなに混むんですか」

「えっ、滋賀が田舎? 八日市には空港があるし、豊郷あたりは近江商人が居て昔から栄えているし、竜王あたりなんかは堤康次朗が相当熱心に沿線開発をしたからところだから、割と栄えているんだけども……」


 なるほど。両親が去り際に「八日市」といっていたのは伊丹をダイナミックに聞き間違えたのではなく、本当に空港があるのか。


「そうそう、八日市には国際空港があって、市内からは特急「はるか」とか近江鉄道の「ウィングエクスプレス」なんかが走っているねえ…… 逆に『向こう』では近畿地方の国際空港はどこにあったの?」

「日根野とか、泉佐野あたりの泉州沖です」

「沖…… ?えっ、もしかして水上艇しか実用化されてないとか?」

「まさか。埋め立て地の人工島に空港があるんですよ」

「へー、それはびっくりだ。一度行ってみたいものだね」


 そんな話をしていると、予鈴のアマリリスが鳴りはじめる。先輩は耳元で「じゃ、困ったらいつでもここにおいでよ」と囁いて教室へと戻った。

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