第3話 毛玉と男
男はカップ麺を啜ってから言う。
「で、何だ貴様は。そのあたりから聞いておこう」
毛の塊は携帯電話のボタンを操作する。
『髪の毛だと思います。』
「髪の毛か……。大体予想通りだな。――ああ、丁寧なのはいいが時間がかかりそうだからもっと簡単でいいし句点もいらない。それなら『髪かも』くらいでいい」
『りょ』
「急に本気を出すな。それ最近の若者言葉だろ。知ってるぞ」
『みなつかう、なんさい』
「自分ではそんなに若くないと思っているが、自分でおじさんだと言えば年上から文句を言われるくらいの年だ。さて私のことはいい。貴様は何歳だ」
『はずかし』
「毛玉に恥ずかしいも何もないだろう。そういえば自分のことを『だと思う』のように曖昧に言っていたが、それはなぜだ」
『あなたはなに』
「貴様なかなかやるようだな。自分が何であるのか、という漠然とした聞き方をした私に対する反抗というわけか。いいだろう、教えてやる。私は早すぎた小説家、または死後に評価されるタイプの小説家だ」
『ふにんき』
「没後五十年くらいには大人気だ。そういえばお前は言葉が理解できるようだが、やはり野良の動物ではないのか」
『にんげん』
「ほう、闇の研究機関で極秘裏に生み出された悲しき生命体か」
『ちがう』
「ではホムンクルスか妖怪でどうだ」
『わからない』
「親は人間か」
『そう』
「いつからそうなった」
『ひる』
「ずいぶん最近だな。――それで腹が減ったと困っていたのか。空腹でずっといれば通常死に至るはずだが、昼からであればまだ生きててもおかしくない」
『かなし』
「悪いな。家には帰らないのか」
『なかった』
「そうか。まあ、貴様の今の姿を見れば親がどう思うか知らんがな」
『かなし』
「ジョークだ。ちょっとこっちに来てみろ。お前に食い物が入るところがないか見てやろう」
男は毛の塊に手招きした。
もぞもぞと毛の塊がやってきたので、それを持ち上げ机に乗せる。
上から手のひらや指で触ったり、顔を近づけて見る。
「普通の髪と頭皮に見える。念のため匂いを――何だ」
伸びた毛先に顔を押し返される。
「まったく、毛玉のくせにおかしなことを気にする。では次は裏側だ――」
男が毛の塊の手前に手をかけようとすると、毛先が伸びて手首に巻き付きギリギリと締め付ける。
「何だ。やめろ」
毛の塊はスルスルと毛を携帯電話に伸ばして持ってくると、何かを入力して画面を見せた。
『はずかし』
「わかった。貴様にはよくわからん羞恥心があるということがな。だがお前は食い物がないと死ぬ運命にあるかもしれんのだ。ひっくり返しはしないが手の感触で口か何かがないかを確認させてもらう」
『なぜそんな』
「人の命を救うのに理由はいらん」
『ほんとは』
「好奇心だ。たとえこの手が食いちぎられようとも後悔はしない」
『ちぎらん』
手首の締め付けが緩まり手が自由になる。
「では失礼する――」
男は毛の塊の下にそっと手を入れて感触を確認する。
「……ほう、やはり下はツルツルと――」
言いかけた男の首に毛が伸びて巻き付き、やはりギリギリと締め付けられる。
「わかったから首はやめろ。没するのはまだ早い」
男が手を引くと巻かれた毛が緩み、他の毛先が文字を打ち始める。
『こそばい』
「頭皮を裏から触られる経験は誰にでもあるものではないからな」
*
「名前はあるのか」
机に載った毛の塊に男は言った。
『木谷』
「キタニ?」
『きや、そちは』
「姓がタイラで名はナゴム。平和と書いてタイラナゴムだ。ヘイワでいい」
『ペンネーム』
「どうだろうな。さて、今日はもう遅いから空腹を満たす方法は明日探すことにするがそれでもいいか」
『りょ』
「――が、最後にまだある。ここまでずっと這ってきたからだと思うが、ところどころに埃だか土だかよくわからないものが付いている。洗うぞ」
その後、浴室にて。
「目に入ったりして痛かったらサインを出せ。方法は任せる。そもそもお前のどこに目があるのかはわからんが。空腹感があるなら痛覚もあるかも知れない」
風呂場に携帯電話は持ってきていないので、木谷は言葉を返せない。
「それと下は自分で洗ってもらう。私はまだ没するわけにはいかないからな」
平には見えないが、木谷の反発がないため従っているものと思われる。
次に平は桶に湯を張り、木谷をそっと入れた。
「本当のところは洗濯みたいに済ませてしまいたいがそうもいかんからな。毛先はシャワーで流してやるが根本や下は自分で湯に潜るなりして何とかするがいい」
湯に浮かんだり潜ったりする木谷を見ながら平は思い出したように、
「何か出すものがあるならついでにここで――」
毛が伸びてきて平の首を絞めた。
*
平はタオルとドライヤーで木谷を乾かした後、本の積まれた部屋に戻ってきた。机の上に木谷を載せる。
「おい毛玉、さっきはまた没するかと思ったぞ」
木谷は床に置かれた携帯電話を操作する。
『うるさい』
「まあいい。今日のところはもう寝る。貴様は好きなところで休むといい」
そう言って平は部屋の照明をスタンド付き照明のみにし、机から押し入れまでの間にできた本の道を進む。
「何かあったら起こしに来い。押し入れの戸は開いておく」
押し入れの戸を開け、上の布団が敷いてある段に上って寝た。
机の上に残った木谷はまだ眠たくなかったので、自分の傍に置かれている紙の束を見た。原稿用紙で、平がさっきまで何か書いていたことを木谷は思い出した。
木谷は原稿用紙に書かれているものを読む。
*
ある日、少女を見かけました。
幾多の木漏れ日が揺らめく森の、木陰の切り株。その上にちょこんと座って、青々とした枝葉が流動体のごとく風にたなびくのを眺めています。
髪は目が隠れるほど長く、服はゆったりした布を身にまとっていますので、少女というのはそこから感じたものの推察に過ぎません。
彼女がどこから来たのか、わたしにはわかりません。いつの間にか彼女がそこにいて、それにわたしが気づいたのです。不思議な少女でした。この日、初めてここにやって来たにしては、何の不思議もない様子で、ただ景色を眺めているのです。もしかすると、青葉や土の香りが鼻を撫でるのを楽しんでいるのかもしれませんが、それはわたしにはわかりません。
そよそよと、時が流れます。
わたしは気まぐれに、興味を持ちました。彼女の傍の木漏れ日を螺旋のごとくねじ曲げて、柔らかな光で照らしてみます。
そうしてみますと、彼女の髪の毛の先がきらりと風に揺れているのがよくわかりました。前髪の間から覗く二つの瞳だったのかもしれません。笑ってはいませんでしたが、怒ってもいないようです。わたしのこの試みは、成果を残さないようです。
その時、彼女はくしゃみをしました。小さな、小さなくしゃみです。木の実が木から落ちた時の音かと思われる程に微かでしたが、後に残るものはありません。
日光との関係はわかりませんが、寒いといけませんから、わたしは光を集めました。彼女の四方の光を回転させて、真ん中に集めます。暑くなってもいけないので、花びらの形をした蝶がやってきて、悠々とたゆたうような具合にします。
彼女は蝶を眺めました。顔をほんの少しだけ上げて、頭上に揺れる花びら形の蝶をぼんやりと眺めます。わたしは彼女の頭に、小さな蝶が静かに影を落とすのを見ていました。
こっくり、こっくり、影が揺れます。時折、彼女の頭が頷くように動くのです。この時、彼女が蝶を見ていたのかはわかりませんが、だんだんとその意識が遠のいていくのは確かでした。蝶は話していない様です。こっくり、こっくり、彼女が頷くたびに、集まった光の雨粒が緩やかな毛先から落ちていきます。
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