第2話 おかしな男入り
黒い毛の塊が、暗く狭い廊下をもぞもぞと這う。その毛は長いが背は低く、這う音は静かで聞こえない。進行方向の先には少しだけ開いたフスマと部屋から漏れるオレンジの光。毛の塊はそこを目指している。人が歩くより少しだけ遅いくらいの速さではあったが、ついに黒い毛の塊は部屋の入り口までくると、そっと顔(?)を覗かせるようにして部屋の中を見た。
男が一人いる。毛の塊からは和服姿で髪の短い男の背中が見えた。男は低い机に向かって肘をつき、何かを書いているようだった。オレンジ色の光は、机に載ったスタンド付き電灯のもので、それが室内を照らしている。部屋中の床に雑然と積まれた本の山を毛の塊は見上げた。毛の塊から男が見えているのは、部屋の入り口から机までの本がよけられて道になっているためだ。
毛の塊は部屋に入り、狭い畳の道を進む。時折、背を少し高く伸ばして左右の本の向こう側を覗くようにするが、見えるのは壁際まで続く本の山。それでも毛の塊は、音を立てずに少し進んでは背を高くして左右を見る。
そしてまた進んで背を高くした時だった。
「幸せは敵だ!」
男が急に叫んだのである。
黒い毛の塊はその声に驚き、本の山に倒れた。
ドサドサ、と山が崩れる音が鳴って男が振り向く。
「何だ。どっかの穴から猫でも入って来たのか」
男は立ち上がり、部屋の天井にある電灯の紐を引っ張った。パッと白い光が部屋中を照らす。見ると、本の山が一部崩れて道を塞いでいる。
そして、その下敷きになっているものを男は見た。
「何だ?……毛か?」
本の下では、毛の塊がもぞもぞと動いている。男は首を傾げてそれを見ていたが、その傍でしゃがみ込んで、
「猫にしてはちょっと毛が長いな。では犬……違う、それも同じだ。――いやしかしちょっと待て、犬や猫の中には体毛がとても長くなる種類のものがいると聞いたことがある。それが迷い込んだということか。だがそれにしては本を押しのけて出てこないし、ワンともニャンとも言わん。不思議だ」
男は毛の塊をじっと見る。
毛の塊はもぞもぞ動く。
男は手を叩いて頷いた。
「鼠か。そうであれば本は重かろうし、ワンともニャンとも言うはずがない。せめてチューと鳴くところではあるが、体が圧迫されて声も出せんのかも知れん。ちょっと待っていろ、今本をどけてやる」
男は毛の塊の上から本をどけた。
「さあ、チューと鳴け。思う存分泣き叫ぶがいい。貴様は今、自分より何倍も大きい相手の目の前にいるのだからな。私はお前を取って食うかもしれんぞ」
男が言うと、毛の塊は少しだけ体を左右に捻った。
「何? 人間はそんなことをしないと? なるほど、鼠は昔から知恵者という言い伝えもあるが、所詮はこの程度か。……では最後に教えてやろう。人間がどんなに愚かな生き物かということをな」
男は立ち上がって毛の塊を見下ろした。
毛の塊は元来た方向とは反対に移動し、奥に置かれていた本を乗り越える。
「逃げるか。それもよかろう。だか逃げ切れはせん。この館のことは私の方がよく知っている。もし貴様がこの部屋から出られたとしても、その先の廊下に隠れられる所はどこにもないのだからな」
だが毛の塊はそこで立ち止まり、乗り越えた本を開いてページをペラペラとめくり始めた。
「ついに正気ではいられなくなったようだな。ページの間に隠れられると思っているのか。貴様の大きさではそれは無理だ」
しかしすぐに顎に手を当て、
「――いや、最後は本の世界で終わりを迎えようとしているのではないか? ほう、貴様、少しは見所があるじゃないか。鼠にしては粋なことをする。私はお前を食べてしまうのが少し惜しいと思い始めている。だからそれならそうと言ってくれれば、それより面白い私が書いたものを見せてやろう。貴様もそちらの方がいいだろう」
毛の塊はページをめくり続ける。
「残念だ。やはり貴様は食う。悪く思うな、貴様が選んだ運命だ。……しかしどうやって食うのがいいだろう。鼠の調理法がわからん。というか私は料理をしない」
男が唸っていると毛の塊はページをめくるのを止めて、毛の一部でパシパシとそこを叩き始めた。
「なんだ、やはり面白くないか。そうならそうと早く……違うのか?」
男が見ていると、毛の塊は叩くのを止め、次に毛の一部でページを指すようにつつき始めた。男はしゃがんでそこを見る。するとページを指していた毛先が円のようになり、ある文字を囲んだ。
『田』
「田? 田がどうした」
男が尋ねると毛の塊はページを戻してまた文字を囲んだ。
『辺』
「ヘン、か。なるほど。わかってきた。貴様は何か伝えたいことがあるんだな」
『茂』
「シゲル」
『野』
「ノ、だな」
そこで毛の塊は本を閉じた。
「終わりか。つまり――田、辺、茂、野で、
毛の塊は体を左右に捻る。
「違うのか。と、すると読み方が違うと考えるのがいいだろうな」
男が言うと、毛の塊は前に体を曲げて戻すのを何度か繰り返した。
「肯定か。貴様、私のことを舐めるなよ。こんなものは私にとってどうということもない。さて、では何の捻りもないが終わりにしよう。答えは簡単だ、『田』は“タ”、『辺』は“ベ”、『茂』は“モ”、『野』は“ノ”で“タベモノ”だな」
毛の塊はまた頷くように体を曲げた。
「ふむ、腹が減っているということか。……それよりお前、私で遊んだだろう。すべて漢字にしなくても、さっきのページには平仮名で代用できた文字もあった。苗字みたいなものを選んだのもわざとらしい。恵みを乞う態度に見えんな」
男が言ってそっぽを向くと、毛の塊はぺったりと潰れてしまったが、また本を開いてページをペシペシ叩き始めた。
「何だ。文句でもあるのか」
毛の塊はまた文字を囲む。
『後』
『め』
ページをめくる。文字を囲む。
『ん』
『な』
『祭』
「ゴメンナサイ、か」
男はため息をついて――
「違う!」
毛の塊は驚いたようにのけ反る。
「こういう時は『オマエヲクッテヤル』だ! なっていない。私は貴様が鼠なんぞでないことはとっくに気づいていんだ。見くびるな。人間が謎の存在を前にのん気なやり取りをしているところでさらに偉そうな態度をとる、そうしたらここで謎の存在が私のことを襲わないでどうする! 起承転結の“起”だ。それが謎の存在らしからぬ丁寧な謝罪までするなんて。――というかあれはテンポが悪い。ゴメンナサイでは冗長だ。もっと短くゴメンでいい。そしたらさっきは“ゴメ”で注意を惹いてからページをめくった後に“ン”で意味が通って多少はマシになったものを。まったく」
毛の塊は時折体を左右に傾けながら聞いていたが、男が話し終えると開いていたページの文字を囲んだ。
『?』
*
「ちょっとだけ待っていろ」
男はそう言って部屋から出て行った。
そして五分経たないうちに戻って来て机に向かった。入り口と机の中間位置では毛の塊が待っていたのでそれをまたいで机の傍に座る。
「とりあえず食べ物だ」
男の傍まで移動してきた毛の塊の前にフタの閉まったカップを置く。
「遠慮するな。カップ麺だ」
毛の塊は上から横からそれを見るように動く。
「箸ならちゃんと持ってきてあるぞ」
男はカップの上に割りばしを置いた。
「さて、まだ三分くらいかかる。それまでこれの使い方でも練習するといい」
そう言って机の上から携帯電話を取り出し、カップ麺の横に置く。
「本から文字を探すのは不便だろ。その毛ではスマホが操作できたかわからんが、偶然にも私はガラケー派でそれはガラホだ。ボタンが付いているから開いて操作するといい。文章はメール編集でできる」
毛の塊はガラホを開いて毛先でボタンを押し始めた。
「言葉や文字がわかるから難しいことはないと思うが、何かあれば言え」
男は机の方へ向いて筆を手に取った。
――三分後――
「そろそろいいはずだ。遠慮せず食べるといい」
机の方へ向かったまま男は言った。
男の後ろからゴソゴソと音がする。
「それを食い終えたらいろいろ聞きたいことがある。だがまずは食え」
言い終えた男の腰に、後ろから指で突くのに似た感触があった。
「どうした。水か」
振り向くとすぐ後ろに毛の塊がいる。
その隣には携帯電話。
「何だ。使い方か」
毛の塊は毛先で携帯電話の画面を指した。
『口がない』
「それを早く言え」
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