第10話 氷室教授はたまに優しい
『髪絡みの森』にいたあやかしは老女ではなく、孤独な
彼は群の仲間が戻ってきてくれることを期待していたが、
もう森から髪が伸びてきて、誰かを絡み取るようなことはない。噂も程なくして消えるだろう。
しかしふいに理緒は根本的な問題にぶつかった。陽だまりのなか、腕のなかの綿毛羊を見つめて考える。
……この子、連れて帰ってもいいんでしょうか。
一緒にきますか、とは言ったものの、理緒が今住んでいるのは学生用アパートである。
もちろんペットは禁止だし、そもそも綿毛羊の生態がよくわからないので、アパートに連れ帰って大丈夫かどうかも判断できない。そうして困っていると、
「お前は本当に私の予想を越えたことをするのだな」
「わ……っ!?」
いきなり
もうとっくに森の外にいってしまったのかと思っていたのに、いつの間にか戻ってきていたらしい。
「きょ、教授……?」
「ふむ。羊毛という特徴を鑑みて名づけるとすれば、そうだな……ウールといったところか」
教授は綿毛羊を見て、いきなりそんなことをつぶやいた。
「え? ウ、ウール?」
「綿毛羊の名前だ。喜べ、ウール。お前は今、この私から名を授かったぞ」
「お、おれの名前……?」
理緒と綿毛羊はわけがわからず、目を瞬いている。
すると教授はスーツの内ポケットから小瓶を取り出した。なかにはきらきらした星型の砂が入っていて、それを綿毛羊に振りかける。
「ほわっ!? え、なんだよ、これ!? ふ、ふ、ふ……ふぇっくしょん!」
鼻に入ってしまったのか、綿毛羊は激しくくしゃみを繰り返す。
一方、小瓶をしまいながら教授は言う。
「スコットランドで手に入れた、妖精の粉だ。これを振りかけると、幻妖やあやかしはしばらくの間、普通の人間には気配を悟られなくなる」
その言葉通り、抱いている綿毛羊の姿がなんとなくおぼろげになり始めた。驚いていると、教授がどことなく得意げな顔になる。
「お前には半透明ぐらいに見えているだろう? ハーフヴァンパイアの血のおかげだ。普通の人間には今のウールの姿は視認できず、声も聞こえない」
「どうしてそんなものをこの子に……?」
「お前の家に連れ帰るのだろう?」
向けられたのはほのかな笑み。
「綿毛羊ならば人里を通ることにも慣れているだろうが、お前に抱かれて移動するとなると、多少勝手も変わるだろう。他の人間に姿を見られてしまうとも限らない。だがこれでもう大丈夫だ。綿毛羊は旅人ゆえに順応性も高い。馬小屋のようなお前のアパートで暮らしても問題はないだろう」
世話の焼ける眷属だ、と肩を竦めて、教授は今度こそ背を向ける。
思わずぽかんとしてしまった。
氷室教授はいつも尊大で、身勝手で、危険な役目も平然と押しつけるような人だ。なのにまるで手助けをするようにこんな親切なことをしてくれるなんて。
「何か企んでいるわけではないですよね……?」
「企む? 馬鹿を言え」
やれやれ、と言いながら振り返る。
「ウール曰く、お前は独りぼっちなのだろう?」
黄金を溶かし込んだようなブロンドが陽だまりのなかで輝いた。
こちらを見つめる青い瞳は、どこか温かい。
「しかしお前は私の眷属だ。眷属とは血に連なる存在、つまり人間で言うところの――家族のようなものだ。であれば、その友人の手助けをすることぐらい、私もやぶさかではないさ」
目の前でスーツに包まれた肩が竦められる。
「お前には私がいる。自らを孤独だなどともう思うな」
理緒は「え……」と言葉を失い、教授はそのままひとりで歩いていってしまう。
なんと言えばいいか、思いつかなかった。
たとえば、こっちは人間に戻りたいのだからヴァンパイアの氷室教授に家族なんて言われても困りますとか、そもそも僕にはちゃんと両親がいますからとか、言い返す言葉はいくらでもあったろう。しかしなぜか口が動かない。
戸惑っていると、腕のなかの綿毛羊――ウールが見上げてくる。
「りお? どうした?」
「あ、いえ、えっと……」
躊躇いつつも、誤魔化すように説明する。
「僕は今、大学の近くのアパートに住んでるんですが、そこに君を連れていっていいそうです。一緒に……きてくれますか?」
ウールは「本当かぁ! いくいくーっ!」と小さなお尻を振って喜んだ。
一方、理緒は再びスーツの背中に視線を向ける。
氷室教授。
尊大で、身勝手で、危険な役目を平然と押しつけてくるような人で……けれど命の恩人で、今は妙に優しいことを言って、ウールを連れていく手助けをしてくれた。
一瞬、ほだされそうになる。
だが慌てて首を振った。
……氷室教授はヴァンパイアです。確かに命の恩人ですけど、僕は人間に戻りたいんですから!
「早くしろ、理緒。私の鞄も路上に置きっぱなしだからな。忘れずに持って帰るんだ」
「わ、わかってますよ……!」
言い返しつつ、慌てて追いかける。
やっぱり教授はこういう人だ。
ちょっと親切にされたからって気を許してはいけない。そう思いながら理緒はスーツの背中を追いかける。
かくして『髪絡みの森』の事件は解決した。
理緒は11世紀の人間たちのように森を切り拓き、未知を既知へと変えた末、新しい友達を得た。
そして日々は続いていく。
少しだけ賑やかさを増して、新しい明日がやってくる――。
氷室教授のあやかし講義は月夜にて 古河樹/富士見L文庫 @lbunko
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