第7話 森で待つモノ


「人間に戻りたいのなら、私の研究の役に立たなければな?」


 銀色の懐中時計を掲げ、氷室ひむろ教授は微笑む。


「星降る春の夜、お前は私とそういう契約を交わしたのだから」


 返す言葉がなくて、理緒りおはむすっと押し黙った。

 視線は銀色の懐中時計に。

 三週間前の夜、命が助かった代わりにハーフヴァンパイアになってしまったことと教えられ、狼狽する理緒に対して、教授は言った。


 自分はこの国のあやかしの研究をしている。お前は私の助手となれ。いずれ満足のいく研究成果を得られたならば、この銀時計をお前に与え、人間に戻してやろう、と。


 教授の掲げた時計がどういうふうに作用して、人間に戻れるのかはわからない。でも戻りたい。是が非でも人間に戻りたい。ハーフヴァンパイアとしてビクビクしながら送る大学生活なんて絶対に嫌だ。

 他に方法がない以上、あの時計をちらつかされると、理緒は教授に逆らえなかった。結果、毎回こうしてあやかし調査にも付き合わされている。


「確認しておきますけど、本当に僕を人間に戻してくれるんですよね?」

「当然だ。古来より貴族は契約主義だからな。交わした約束は必ず守る」

「約束を守るはずの人がどうしてこんなナイフを持たせて、ヴァンパイアの力なんて使わせるんですか?」


 ジト目で睨む。

 理緒は体のなかの血を目覚めさせると、生粋のヴァンパイアに近い力を使えるようになる。今、ペーパーナイフを使って獣の毛を退け、何メートルもの落下から難なく着地できたのもそのおかげだ。


 しかし人間からどんどん遠のいていく気がして、どうにも理緒はこの力が好きになれない。だいたい、そんなに調査がしたいのなら、教授自身が矢面に立ってくれればいいと思う。なんといっても教授こそ生粋のヴァンパイアなのだから。


「わかっていないな、理緒」

「何がですか?」

「汗をかくのは召使いの仕事だ。その後ろで働きぶりを見届けるのが主人の仕事というものだろう?」

「……っ」


 眷属どころか召使いになってしまった。


「なんていうか、心から教授は人でなしだと思います」

「ああ。まったくもって、人ではないからな」


 楽しげに笑い、教授はジャケットを翻す。


「さあ、調査の続行だ。準備をしろ。相手はすぐそこにいるぞ?」

「えっ!?」


 さすがに驚いて身構えた。

 さっきの白い動物は森の奥へと駆けていった。だからてっきりもう遠くへいったものと思っていたのに、すぐそばなんて言われて戸惑った。


「ほ、本当ですか? 適当なことを言って、僕をおどかそうとしてるとかじゃありませんよね?」


 教授は答えない。しかし言われてみれば、この森のなかは高い木々に囲まれていてひどく薄暗い。ほんの目と鼻の先の木立ちの陰に何者かがいても不思議じゃなかった。


 生粋のヴァンパイアである教授は何かを感じ取っているのかもしれない。

 すっと目を細めて、教授は指を差す。


「そこだ。理緒の右斜め前方、二メートル」


 途端、目の前の茂みから「――ッ!?」と誰かが息をのむような音がした。

 理緒もぎょっとして体が強張る。絡まった毛を切っただけの先ほどとは違う。明確に相手がいるとなると、緊張が全身を駆け巡る。


「怯えるな、理緒」

「お、怯えますってさすがに……!」


 動揺が場に広がるなか、氷室教授だけが平然としていた。


「仕掛けてはこないようだな。よし、理緒。あの木立ちをナイフで一刀両断にしろ」

「えっ!? い、いきなり切りつけるんですか!?」

「相手が出てこないのならな」


 立てこもり犯に通告するような物言いだった。その意図はきちんと伝わったらしく、茂みのなかから大慌ての声が響く。


「ま、待て待て待て! 待ってくれーっ!」


 改めて聞いてみると、やはり老女とはまったく違う声だった。まるで幼い少年のような声だ。


「おれはなんにもしねえよ! だからバッサリ切ったりなんてしないでくれーっ!」


 そう叫んで、白い体が勢いよく茂みから飛び出した。

 その姿はぬいぐるみのように丸っこく、四本脚で歩き、体中の毛がもこもこしている。『宝石光のランタン』が示した通り、見た目はまるっきり動物だった。


「……ひ、羊?」

「そうだよ! 羊だよ! でもおれを食っても美味くねえぞ!? だから切るなよぉ!」


 出てきたのはもこもこした羊だった。

 しかし喋っているので、間違いなくあやかしではあるのだろう。勢いよく飛び出し過ぎたのだろうか、羊は着地に失敗して、ベチャッと地面に落ちた。


「い、痛てえよーっ!」


 なんだか……森に引きずり込まれた時のような脅威をぜんぜん感じない。いや考えてみれば、あの時は教授のキャンドルで無理やり活性化させられていたはずだ。となると、今の状態が素なのかもしれない。

 思わずしゃがみ込んで尋ねる。


「えっと……大丈夫ですか?」

「大丈夫に見えるかよぉ!? 顔からベチャッていったんだぞ、ベチャッて! うう、ちくしょう、変な匂いがしてわけわからなくなるし、今日はさんざんだ……っ」


 やっぱりさっきはキャンドルの影響を受けていたらしい。

 羊は地面にべたぁーっと突っ伏し、めそめそと泣き始める。

 どうにも戸惑い、教授の顔色を伺うと、「羊のあやかしか」と何やら頷いている。


「あの、教授?」

「少し待て」


 早口でそう言い、スーツの内ポケットから革の手帳が取り出された。すごい速さでページをめくっていく。

 教授は普段から様々な文献で研究をしているが、とくにこの土地に関するあやかしについては手帳にまとめて情報を持ち歩いている。その指先がやがて手帳の中ほどでぴたりと止まった。


「これだ! 名は『綿毛羊わたげひつじ』。体の大きさを自由に変え、たんぽぽの綿毛のように空を飛んで、土地から土地へ旅をするあやかしだ」

「わたげひつじ?」


 なんとなく反芻し、教授を見つめる。


「危険なあやかしなんですか……?」

「いいや、彼らはふわふわと風に揺られて土地を巡る旅人だ。霧峰の風土記にも記述がある。春の到来や夏祭りの際に現れるという、縁起物のあやかしらしいな」


 しかし、と教授はさらに綿毛羊を注視する。


「旅人だからこそ、綿毛羊は一か所に留まることはない。噂として人間たちの口に上がるほど、この森に居座っているのは例外的なことだと言えるだろう」


 無遠慮にまるで虫を観察するような視線だった。

 先ほどの一刀両断発言が尾を引いているのか、綿毛羊が怯えて飛び上がる。


「こ、こっちくんなよ! くるなってば!」

「……え、わわ!?」


 飛び上がった綿毛羊が下りてきた先は、理緒の腕のなかだった。思わずキャッチしてしまうと、もこもこの体を震わせながら縋りついてくる。


「おい、お前、このおっかない奴の仲間だろ!? 言ってやってくれよ! おれは食べても美味くないって!」

「い、いや僕は……」


 教授の仲間とかではない。召使いでもなければ、眷属でもない。

 ただ、綿毛羊のもこもこした手触りがすごく心地良くて、ちょっと味方をしてあげたくなってしまった。


「えっと……この人は君を食べたりはしないと思いますよ?」

「でもおれのこと切れって言った!」


「確かにそれは僕もどうかと思いますけど……この人は森の調査にきたんです」

「調査……?」

「ええ。噂があるんです。この森から突然、髪……白い毛が伸びてきて、人間を引きずり込もうとするって」


 腕のなかで綿毛羊が驚いたように目を丸くする。


「引きずり込む!? 違うぞっ。おれ、そんなつもりじゃなかったんだ……っ。確かに間違って人間に絡みついちゃったこともあるけど、すぐ離してやったし、おれ、おれは……」


 つぶらな瞳を潤ませ、綿毛羊はつぶやいた。

 まるで迷子になった子供のように、泣きそうな声で。


「ただ、仲間が戻ってきてくれたんだと思って、嬉しくて……」

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