第8話 彼は広い世界に独りぼっち
「ただ、仲間が戻ってきてくれたんだと思って、嬉しくて……」
彼は同じ綿毛羊の仲間たちと群になって、土地から土地へと旅をしていた。教授が言っていた通り、それが綿毛羊というあやかしの習性らしい。
彼らはたんぽぽの綿毛が一斉に空へ向かうようにふわふわと風に乗り、様々な土地を巡っていく。普段は体を小さくして、本物の綿毛や木の葉などと一緒に飛んでいくらしい。
綿毛羊は仲間たちと一緒に色んな土地を見てきた。
深い山のなかにある、人里離れたあやかしたちの郷。
きれいな小川の流れる、田んぼとあぜ道に囲まれた、平和な田舎。
人間たちが忙しく行き交う、夜でも明るい大きな都市。
毎日が楽しかった。いつだって明日がくるのが待ち遠しくて、そんな輝かしい日々が当たり前に続くと信じていた。
でもある日、突然すべてが終わってしまった。
この霧峰の土地にやってきた時のこと。その日はとても良い風が吹いていて、森ではちょっと休憩するだけということになっていた。
しかし綿毛羊はウトウトと居眠りをしてしまって……気づいたら群のみんながいなくなっていた。大きな茂みの陰にいたから誰にも気づいてもらえなかったのだろう。
もちろんすぐに追いかけようとした。
けれど綿毛羊というあやかしは風に乗って移動する。もしも群のみんなが飛んでいった時と風の流れが変わっていたら、一生追いつくことはできない。
そうなったら広い世界に独りぼっちで放り出されることになる。
綿毛羊は空を見上げ、震え上がった。
広い世界で独りぼっち。
考えだしたら怖くて怖くて……気づいた時にはもう動けなくなってしまっていた。
震えたまま、夜がきて、朝がきて、また夜になった。もう取り返しがつかない。今さら風に乗ろうとも、絶対に追いつくことはできない。
それからというもの、ずっとこの狭い森で時を過ごした。
きっといつか仲間たちがきてくれる。自分は独りぼっちなんかじゃない。絶対、またみんなと一緒に旅ができる。
そう信じて、待ち続けた。
でも仲間たちはこなくて。
どれだけ待ってもきてくれなくて。
たまに森の外で気配がすると、急いで走っていった。
けれどもし仲間じゃなかったら思うと怖くて、森のぎりぎりのところから体の毛をぴーんっと伸ばし、外にいる誰かを引っ張って、伝えようとした。
おれはここにいるぞ、って。
でも結局、森の外を通るのは人間ばかり。
仲間がきてくれることはなくて、もう期待することさえ辛くなってしまって……。
「……なるほど、だから今日、私と理緒が森のそばにきても無反応だったわけか」
綿毛羊はどこか気まずそうにこちらを見上げた。
「……さっきはごめんな」
「え、何がですか?」
「お前を思いっきり引っ張ったこと。なんか変な匂いがして、わけがわからなくなって、気づいたらびっくりするくらい毛を伸ばしてたんだ」
「あ、ううん、それはいいんです。どっちかと言うと、あそこの悪い人のせいですから」
教授にジト目を向ける。
事情がわかってみると、綿毛羊にあのキャンドルは明らかに過剰な道具だった。
しかし教授はきっと『キャンドルがなければ、綿毛羊は出てこなかったかもしれないだろう?』とでも言うのだろう。
思った通り……というか、そもそもこっちの様子など見ることもなく、教授は何かを思案している。
「綿毛羊よ」
「な、なんだよ?」
「お前たちは土地から土地へ旅をしてきた。ならば様々なあやかしに遭遇したこともあるだろう。そのなかに――吸血鬼の類はいたか?」
いきなりな問いかけだった。
なんでそんなことを聞くのだろうと思っていると、綿毛羊が目を瞬く。
「吸血鬼……? あっ、お前ら、吸血鬼なのか!?」
また綿毛羊が飛び跳ねた。腕のなかから飛び出し、近くの茂みに身を隠す。
「ま、まさかおれを食べるんじゃなくて、おれの血を吸うつもりなのか!? やめろよ、ぜったい美味しくないぞ!?」
「やれやれ、話が堂々巡りだな。安心しろ。私は獣臭い血など好まない。ただし、質問に答えなければお前を八つ裂きにする」
「ひっ!?」
「ここにいる理緒がな」
「僕がですか!?」
一人と一匹を戦慄させ、教授は問う。
「もう一度聞く。お前は吸血鬼に会ったことはあるか? もしくは純粋な鬼でもいい」
「ね、ねえよ! 鬼とか吸血鬼なんておっかないもんがそうそういるわけねえだろ!? おれはどっちも見たことねえよ!」
「そうか」
パタンッ、と手帳が閉じられた。
いきなりすべての興味を失くした顔になり、教授はあまりにあっさりと踵を返す。
「帰るぞ、理緒」
「え?」
そのまま教授は本当に歩きだしてしまう。
突然のことに驚き、理緒は綿毛羊の方を気にしつつ、追いかけた。
「帰るぞって……調査はいいんですか? せっかく本物のあやかしに会えたのに」
「ああ、お前にはまだ私の研究テーマの根幹を教えていなかったな」
ため息でもつきそうな顔で、教授は言う。去っていく足を止めないまま。
「私は現在、この国のあやかしについて研究しているが……紐解けば、それはさらに大きな研究のための末端でしかない」
「さらに大きな研究……ですか?」
「私はヴァンパイアという種のルーツを探っている」
「種のルーツ……?」
人間はヴァンパイアに噛まれると死んでしまう。しかし命が尽きる前にヴァンパイアの血を与えらえれると、その眷属として新たなヴァンパイアになる。理緒もそうしてハーフヴァンパイアになった。
「つまり今、世界に現存するヴァンパイアたちは皆、もとは人間なのだ」
「あ……っ」
確かにそういう理屈になるのかもしれない。
教授の他にどれくらいの数のヴァンパイアがいるのかは知らないが、自分と同じように血を与えられてヴァンパイアになったのだとしたら、皆、もともとは人間ということになる。
じゃあ、氷室教授も……?
疑問が脳裏に浮かんだが尋ねる隙はなく、教授が言葉を続けた。
「ヴァンパイアがもとは人間だとしても、その大本を辿っていけば、やがては『最初のヴァンパイア』に行き着くはずだ。その原初の存在を俗に真祖という。私という最高峰のヴァンパイアからしても真祖は伝説上の存在だ。しかしだからこそ、真祖が如何なる存在だったか、私は興味が尽きない」
しかし世界中を巡ってみても、真祖の足跡は見つけれなかったらしい。
だが教授はある時、ふと思いついた。
「極東の島国、日本には人間が鬼になるという逸話が多くある。ただの人間が『人ならざるモノ』に平然と成り替わってしまうのだ。たとえば能の『紅葉狩』では嫉妬のあまり鬼になった女の話が描かれ、平安の歌集『
「だから教授はあやかしの研究を?」
「そういうことだ」
頷き、そして落胆したように教授は首を振る。
「しかし『髪絡みの森』のあやかしは吸血鬼や鬼ではなかった。綿毛羊ならば旅のなかでそれらに遭遇したこともあり得ただろうと期待もしたが、結果はお前も聞いた通りだ。であれば調査はこれまでだ」
「いや、でも……」
背後を気にしつつ、尋ねる。
「いいんですか? あの綿毛羊をこのままにして……」
するとぽつんと残された綿毛羊がか細い声でつぶやいた。
「お前たち、いっちゃうのか……?」
迷子になった少年のような声だった。
正直、あやかしなんて氷室教授と出会うまでは実在するとは思わなかった。
あの綿毛羊にしたって、今会ったばかりでなんの縁もゆかりもない。それでもあんなふうに泣きそうな声で言われると、どうしても後ろ髪を引かれてしまう。
もやもやした気持ちが整理しきれず、教授に重ねて問う。
「教授、あの綿毛羊はどうなっちゃうんでしょうか?」
完全に興味を失っている表情だが、青い瞳がちらりとこちらを見る。
「風に乗って旅をする以上、綿毛羊の群の道行きは文字通り風任せだ。霧峰の風土記には複数の目撃記録があるが、一つ一つには数十年単位の開きがある。たまたま風の巡り合わせで群がこの森を通ることがあるとしても、十年年後か二十年後か、ともすれば百年後になっても不思議ではないな」
「百年!? そんなにですか……っ」
ぎょっとしたのは理緒だけでなく、後方で話を聞いていた綿毛羊もだった。
「う、嘘だろ!? おれ、もう本当にみんなに会えないのか!? ずっとこの森で独りぼっちで暮らさなきゃいけないのか!?」
教授は答えない。もう綿毛羊と話すつもりもないようだ。
「な、なあ、待ってくれよ!」
綿毛羊が茂みから飛び出した。
「おれ、こんなふうに誰かと喋ったの、久しぶりなんだ……っ」
小さな脚で必死に追いかけてくる。
「生意気なこと言ったのは謝るよ! 匂いでわけわからなくなって引っ張り込んだのもごめん……っ! 謝るっ、いくらでも謝るから! ……あっ!?」
地面を擦る音が響いた。綿毛羊が躓いて顔から転んだのだ。「い、痛えよぉ……っ」と泣き声が響く。
理緒は反射的に止まろうとした。しかし構わず離れていく教授の背中も視界に入り、どうすればいいかわからない。
曲がりなりにもあやかしを研究している教授が群を見つけるのは無理だと言った。ならば自分にできることなど何もない。
でも、だけど……。
迷っていると、綿毛羊が涙声で叫んだ。
「本当にいっちゃうのか!? やだ、やだよ……っ! なあ、こっち向いてくれよ! お願いだ……っ」
そして。
必死に縋る子供のような泣き声が響いた。
「おれを助けてくれよぉ……!」
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