第6話 やっぱりロクな目に遭わない!


「お前の出番だ、理緒りお


 氷室ひむろ教授にそう言われ、背中を押された次の瞬間、無数の白い毛が木々の間から躍り出た。

 まるで獲物を見つけた食虫植物のように理緒の両手両足に絡みついてくる。


「うわぁ!?」


 すごい力で引き倒された。

 そのまま瞬く間に森へと引きずられていく。


「やっぱりロクな目に遭わない! しかもこれ噂通りじゃないですかーっ!?」


 慌ててそばの茂みを掴んだが、逆に草が根元から抜けそうになる。すごい力だ。

 一方、教授は後ろにいたおかげで襲われていない。興味深そうにしげしげとこちらを見ている。


「ほう、なかなかの勢いで引っ張っているな。キャンドルの香りがきちんと作用しているようで何よりだ。理緒、手触りはどうだ? やはり髪より動物の毛に近くはないか?」


「いやなに平然とした顔で意見を求めてきてるんです!? そんなことより助けてもらえませんか!? 僕、今大ピンチですよね!? 誰がどう見ても助けが必要な状況ですよねー!?」


「ん? 助けてほしいのか?」

「逆に聞きますけど、それ以外を希望してるように見えますか!?」


「しかし、せっかくあやかしに遭遇できたんだぞ? もっとこの幸運な状況を観察して今後の研究に生かすべきだとは思わないか?」

「あ、決めました。僕、死んだら教授のところに化けて出ます。毎晩毎晩、ニンニクたっぷりのペペロンチーノを作って、教授の枕元に置いてやりますからね!?」

「なるほど、そうきたか」


 軽く噴き出す、教授。


「私も大概の弱点は克服したが、ニンニクの匂いというのは何百年生きようと、どうも優雅とは思えなくてな。ソースの隠し味程度ならまだしも、メインに据えられると多少の我慢を強いられる。それを毎晩というのは確かに問題だ」


 スーツに包まれた腕が置きっぱなしの鞄に伸びる。取り出されたのは、上質な布に包まれた細長い棒状のもの。


「これは私が長年愛用しているペーパーナイフだ。名づけるならばそう、『メイフェア家のペーパーナイフ』といったところか」

「あのっ、説明とかはもう省いていいですから! 早く……っ!」


 掴んだ草がぶちぶちと千切れ始めていた。もう悠長に説明を聞いている暇なんてない。

 しかし教授はどこまでもマイペースだ。


「もちろん本来の用途はただのペーパーナイフに他ならない。私もずっと手紙の封を切ることに使ってきた。しかしこのナイフにはちょっとした特徴がある。ヴァンパイアの力を流し込むと、幻妖やあやかしの力を断ちきれるほど切れ味が増す」

「じゃあ、力とやらを流し込んでとっとと助けて下さい!」

「さあ、理緒」


 もはやこっちの言葉なんてお構いなし。わざとらしい猫撫で声でナイフを差し出す。


「これを貸し与えてやろう。私は観察に専念するから、自力で対処しろ」

「自力……っ!?」


 一瞬、言葉を失った。

 ぶちぶちと千切れていく草の音を聞きながら、首を振る。


「……い、嫌です」

「なぜだ?」

「そういうの無理です。僕は人間ですから」

「大丈夫、できるさ」


 上質な布に包まれたペーパーナイフをこちらにかざし、氷室教授は言った。大変ひどいことをやたらと優しい声で。


「お前は私の眷属なのだから」

「け――」


 眷属はやめて下さいってば!

 と叫ぶより一瞬早く、ついにすべての草が千切れてしまった。青々とした草が舞い、何も掴めなくなった手を思わず伸ばす。


「教授……っ!」


 とっさに手を掴んでくれることを期待した。

 しかし、手のひらにぽんっとペーパーナイフが置かれる。


「期待しているぞ、理緒」

「それは酷過ぎませんかーっ!?」


 絶叫しながら飛ぶような勢いで森へ引きずり込まれた。

 実際に体が浮いている。ずっと草を掴んでいたから引っ張られる力が解き放たれ、山なりに体が浮き上がっていた。


 視界の端を木々がすごい速さで通り過ぎていく。地面までの高さは数メートルに達していた。

 このまま落ちたら間違いなく怪我じゃ済まない。


「さて、ここで海外民俗学の講義の続きだ」


 絶体絶命の状況のなか、どこからともなく氷室教授の涼しげな声が響く。


「西欧修道制の祖ヌルシア・ベネディクトゥスはなぜ『自然を征服する』という理念を打ち立てたのか? 彼の時代、森とは人ならざるモノたちが跋扈する異界だった。そこには白髪を振るう老女がいるかもしれないし、もしくは白い毛を放つ獣がいるかもしれない。つまりはまったく未知の場所だったというわけだ。わかるか、理緒? ヌルシア・ベネディクトゥスは力で自然を征することで、未知を既知へと変えようとしたのだ。であれば、今この『髪絡みの森』で未知なるあやかしに遭遇したお前は何をすべきか? 答えはすでに出ているはずだ」


 まるで謡うように、教授は高らかに告げた。


「自然を征服せよ! 己が力によって未知を既知へと変えるのだ!」

「ああ、もう……っ」


 真っ逆さまに落下しながら、毒づき、同時に理緒は観念した。

 氷室教授の思い通りになるのはとてつもなく不本意だ。しかしこのままむざむざ大怪我なんてしたくない。気持ちを集中し、大きく目を見開く。


「――っ」


 小さく息をはくと同時、体中の血が目覚めるのを感じた。感覚が加速度的に鋭敏になっていき、瞳が深紅に輝いていく。

 上質な布が風に遊ばれるように飛んでいった。現れるのは丁寧な彫細工が施された、ペーパーナイフ。


 そこに力を込めていく・・・・・・・

 呼応するように刃に赤い光が灯った。


「これでいいんでしょう! これで!」


 宙を薙ぐ。

 その一振りで手に絡まっていた白い毛が吹き飛ぶように霧散した。空中でバランスを取り、さらに一振り。両足の白い毛も吹き飛んだ。

 三メートルほどの高さがあったが、理緒はしなやかに着地。数秒遅れで千切れた白い毛がはらはらと降ってきた。


 するとそばの木陰が揺れ、動物のようなものが飛び出した。白い毛に覆われていて、大きさはちょうどサッカーボールぐらい。

 何やら「ひえええ、なんなんだ、あいつーっ!」と泣きながら駆けていく。

 理緒は赤い目を瞬く。


 ……もしかして、今のがこの森のあやかしでしょうか?


 追いかけようかと思ったが、生い茂る雑草にまぎれてすぐに姿が見えなくなってしまった。ただ、あの様子ならもう襲ってくる心配はなさそうだ。


「……とりあえず一安心ですね」


 肩の力を抜いて、集中を解いた。すると目の色がもとに戻り、湧き上がっていた力も抜けていく。

 教授も歩いてやってきて、こちらに拍手をする。どうやら観察しながら追いかけてきたらしい。


「良い手際だ。A評価をやろう」


 心底ご機嫌な感じで言われて、思いっきり頬が引きつった。


「な、に、が、A評価ですか! 危うく頭から真っ逆さまになるところでしたよ!?」

「しかしそうはならなかったろう?」


 何が不満なんだ? という顔をされて、さらに頬が引きつる。


「学生をあやかしの前に押し出す教授がどこにいるんですか、もう! 今日という今日は僕も頭にきました! 氷室教授は最低です、最悪です! 学生課に訴えますよ!?」

「ほう? あやかしのエサにされたと訴えるのか?」


「むしろエサにするつもりだったんですか!?」

「物の例えだ。それにお前なら難なく対処できるだろうと私はわかっていた」


 まったく悪びれず、背後に花でも咲きそうな優雅さで微笑む。


「お前は、神崎理緒は――私の眷属だからな」


 顔立ちの良さというのはある種の反則だと思う。まったく理屈になってないのに、笑顔一つで謎の説得力を生み出してしまうのだから。

 思わず言いくるめられそうになりつつ、それでもどうにか理緒は言い返す。


「だから眷属はやめて下さいってば……っ。僕は人間なんですから!」

「半分はヴァンパイアだろう?」

「半分はちゃんと人間です!」


 心の底から言い返した。

 何を隠そう、神崎理緒は半人半妖のハーフヴァンパイアである。


 三週間前、瀕死の重傷を負った理緒はヴァンパイアの氷室教授に命を救われた。その方法は教授が理緒の血を吸い、さらに自分の血を理緒に飲ませること。これはヴァンパイアが仲間を増やす時のやり方らしい。


 しかしである。助けを求めた時、理緒は『ちゃんと生きたい』と教授に願った。もちろんヴァンパイアなどではなく、人間としてだ。これがツボに入ったらしく、教授はあえて自分の血を極限まで薄めて理緒に与えたらしい。


 おかげで現在、理緒は半分は人間で半分はヴァンパイアという極めて中途半端な存在になっていた。

 日光に当たっても灰になることはないが、長く光を浴びていると異様に眠くなる。ニンニクは食べられないことはないが、一欠けらでも食べると半日以上、涙が止まらなくなってしまう。


 他にはヴァンパイアは鏡に映らないという特性がある。理緒の場合、一応映りはするが、日光と同じで気を抜いていると半透明で映ってしまう。大教室で鏡を向けられ、大慌てしたのはこのためだ。


 現状、騙し騙しやれば日常生活は送れるものの、地味に色んなところに支障が出てくるような日々である。

 そんな様子が面白いらしく、教授は事あるごとに理緒を連れまわし、こうしてあやかし調査にも付き合わせている。


「それで、満足のいく観察はできたんですか?」

「そうだな、A評価だから及第点といったところか。しかしこれで満足するな。私ならば初手であやかし本人を追いつめるところまでできる。次はS評価を目指すことだ」


 一瞬、何を言われているのかわからなかった。

 数秒考え、ようやく思い至る。


「観察って……あやかしの観察じゃなくて、僕の観察だったんですか!?」

「眷属の成長を見守るのは主人として当然の責務だからな」


「だから眷属っていうのはやめて下さい……ってああもういいです。もう僕、帰っていいですか? あやかしに襲われるくらいなら、百枚だって二百枚だってレポートを書きますよ!」

「ほう? 主人を置いて帰ると? 困った眷属もいたものだな」


 教授はわざとらしく驚いた顔をする。

 半分だけだが、理緒は教授の血によってヴァンパイアになった。よって教授からすれば自分の子――眷属ということになるらしい。


「帰り支度にはまだ早い。あやかしの調査はまだ途中だ。理緒、お前は人間に戻りたいのだろう?」

「……当たり前じゃないですか」

「では私の研究の役に立たなければな?」


 ベストのポケットに手が向かい、銀色の懐中時計が取り出された。

 これ見よがしにそれを掲げ、教授は微笑む。


「星降る春の夜、お前は私とそういう契約を交わしたのだから」

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