第2話 氷室教授の講義風景
春の麗らかな日差しが窓から差し込んでいた。
新入生の眠気を誘うには十分な温かさだったが、今日の講義は人気の教授が教鞭を執っていて、大教室のなかには睡魔に襲われているような不届きな学生はいない。
ただひとり、
「眠くない、眠くない、眠くなんてありません……っ」
せっかく始まった大学生活だ。奨学金とはいえ、高い授業料も払っているから講義はちゃんと受けていたい。
しかしどうしても頭がグラついてしまい、理緒は自分の太ももを抓って耐えていた。
座っているのは大教室の窓際の席。朝は曇っていたのに、まさか講義が始まると同時に晴れてくるなんて。完全に油断していた。麗らかな日差しが残酷なまでに眠気を誘ってくる。
理緒は日光に弱かった。気を張っている時ならばなんでもないが、ぼんやりしている時に長時間当たっていると、どんどん体の力が抜けていき、意識が微睡んできてしまう。つまりはやたらと眠くなってしまうのだ。
もちろん人間、誰しもそうではあるのだが、理緒の場合、眠らないためには人の数倍の忍耐力が必要になる。午後の講義の日当たりのいい席など、端的に言って地獄だった。
こんなことなら思い切って最前列にでも座ってしまえばよかった。
己の失態を嘆きつつ、教壇の方を睨んで必死にノートを取る。
扇状に広がった階段式の座席はほぼ満員。どんなに人気の講義でも空席はいくつかあるものだが、この講義に限っては満員御礼が恒例だった。
理由は講義を行っている教授。
彼が学生たちから絶大な人気を誇っているためだ。
「さて、私の講義も今日で二回目だ。ここで今一度、『海外民俗学』というものについて触れておこう。何事も考え方の基礎というものは重要だからな」
自信に満ち溢れ、聞く者の心を震わせるような美声だった。マイク越しでも声の美しさはまったく変わらず、百人近い学生たちを魅了している。
壇上に立っているのはヨーロッパからの客員講師、
本名はレオーネ=L=メイフェア=氷室。
外国人だが言葉は流暢で、黄金を溶かし込んだようなブロンドは陽光に輝き、高級なスーツに包まれた手足はすらりと長い。
日本にきたのはほんの数年前ということだが、なぜか『氷室』という日本的な苗字を名乗っていって、教授本人もそちらの名で呼ばれることを好んでいる。
青い瞳は知性の光を称え、彼が立って動いているだけで大教室の講義がまるで映画のワンシーンに見えてくる。
……というのが学生たちからの評価だったが、理緒としてはなんとも異論を挟みたくなる評価だった。あの人はそんな素敵な人物ではないんですよ、と声を大にして言いたい。皆、氷室教授の本性を知らないのだ。
そんな教授の声がマイクによって大教室に響く。
「『民俗学』といえばやはり皆、真っ先に柳田國男や『遠野物語』を連想することだろう。おそらくは語呂も相まってなのだろうが、民俗学を日本固有の学問だと思っている学生は非常に多い。しかしこれは大いなる誤解というものだ」
口調こそ尊大だが、外国人であるというワンクッションと恵まれた容姿が相まって、氷室教授は『まるで貴族か王様みたい』と学生たちにはウケがいい。
「民俗学――英語圏で『
青い瞳が大教室を見渡すと、学生たちは各々頷きを持って応えた。
「結構。海外の民俗学と比較して、日本の民俗学は今、大きな問題を抱えている。それは携帯電話の開発と同じく、民俗学のガラパゴス化だ。この国の民俗学は国内の専門性に特化している一方、海外との比較性が低いことが度々指摘されている。学生である諸君に海外民俗学の認知がまだまだ進んでいないことがいい例だな。現在、欧州圏では各国の民俗学を『ヨーロッパ民俗学』として統合する動きが進んでいる。客員教授としてこの国にやってきた私としては、日本の民俗学にはぜひアジアや世界圏での比較発展を望みたい。もちろん私自身も力を尽くすつもりだ。そのためにこうして教鞭を執っている」
そこでだ、と氷室教授は一拍置く。
「この講義では諸君に海外民俗学の概要を伝え、同時に日本民俗学との比較研究を行っていく。今日の内容は前回に引き続き、民俗学における『森』についてだ」
理緒は眠気を堪えながらノートに『民俗学における森について』と書き、アンダーバーを引く。
「古来より『森』は人間にとって神秘と深淵、そして未知への畏敬に彩られてきた。これは日本でも海外でも変わらない。『遠野物語』では『⼈の往来無き、⼭奥』を進んだ先にマヨイガがあると語られ、シェイクスピアの戯曲においては⼩⼈の王オーベロンが『深き森』の通過を許さない。人間にとって『森』とは人ならざるモノたちが住まう、最も身近な別世界の一つと言えるだろう。さて、ではここでヨーロッパにおける『森』の神格化の変遷を見てみよう」
教授がリモコンを操作し、あらかじめ配られていたレジュメがプロジェクターに映される。
「中世において、人々は城壁に囲まれた都市に住んでおり、壁の向こう――森のなかには悪魔が住んでいると信じていた。ところが11世紀に入って大開墾時代が始まると、森は切り拓かれ、未知の闇に光が当たり始める。この開墾運動は『自然を征服せよ』という理念によって推し進められたものだった。妖精や悪魔といったものを非現実とする、近代化思想の産声というわけだ」
教授の講義は流れる水のように進んでいく。
理緒は太ももだけでなく、ペンを持つ指に爪を立てて眠気を堪えていたが、ついに限界がきてカクンッと頭が下がった。
その瞬間、名指しをされた。
「では学生番号22N7689番、神崎理緒」
「――っ!? は、はい!」
驚いて立ち上がった。
氷室教授の視線はこちらを向いている。口元は微笑の形だが、目が笑っていない。
「開墾運動の生みの親は西欧修道制の祖ヌルシア・ベネディクトゥスだ。彼が『自然を征服する』という理念を打ち立てた経緯を簡潔に説明せよ。まあ、サービス問題というやつだ。今、私が口頭で説明したばかりだからな。ちゃんと講義を聞いていれば答えられる」
「……っ」
思わず顔が引きつった。
「え、えーと……」
聞いていませんでした、とは口が裂けても言えない雰囲気だった。
まわりを見れば、他の生徒たちが信じられないという顔でこっちを見ている。
実際、氷室教授の講義に出ていて、話を聞いていない生徒なんてまずいない。なぜなら講義が人気なことはもとより、不真面目な生徒への罰則が大変厳しいことでも教授は有名だから。
「どうした? 緊張でもしているのか?」
「い、いえ……」
まったく崩れない微笑みが逆に怖かった。
「安心するがいい。私は常に学生たちに対してわかりやすい講義を心掛けている。学籍番号22N7689番、神崎理緒。もしも君が答えられないとしたらそれは私の責任だ。案ずることはない。今、講義で聞き、理解したと思った内容をそのまま口にすればいい」
……うわぁ。
これは逃げられない、と理緒は悟った。
「すみません、聞いてませんでした……」
死刑台に上がっていくような気持ちで白状する。
教授の微笑みは崩れなかった。トン、トン、トンとリズムを取るように教壇を叩き、笑顔で告げる。
「明日までにヌルシア・ベネディクトゥスについてのレポートを提出。枚数はそうだな、三十枚程度に負けておいてやろう」
「三十枚ですか!? それも明日までに!?」
「私は慈悲深いだろう?」
慈悲深くない。慈悲なんて欠片もない。でもここで異論を唱えてもどうにもならないことは経験上わかっていた。氷室教授の決定は絶対なのだ。
「……わかりました。明日までに書いて教授の研究室に持っていきます……」
大変なことになりました……、と理緒は肩を落としてうな垂れた。
しかし教授の言葉はここで終わらなかった。
「神崎理緒、あとで私の研究室にくるように。ペナルティの一環として、私の研究の手伝いをさせてやろう」
「えっ。いやそれはちょっと断固としてお断りしま――」
「ちなみに拒否権はない」
言葉の途中でばっさりと会話を打ち切られた。教授はこっちのことなんてお構いなしに講義を再開してしまう。
レポート三十枚の上、教授の手伝いなんて……。
途方に暮れていると、男女の学生が両側から小声で話しかけてきた。知り合いというわけではないが、同じ講義に出ているのでお互いに顔はわかる。
「えーと、お前、神崎……だっけ? やったじゃん。氷室教授の研究室に呼んでもらえるなんて、ゼミ生でもなけりゃ滅多にないらしいぜ?」
「いいなぁ、神崎君。わたしと変わってほしいよ」
両側から話しかけられてちょっと気後れしつつ、どうにか言葉を返す。
「……いえ、ぜんぜん良いことじゃないです。出来たら変わってほしいくらいです……」
学生たちは顔を見合わせた。
「以前からなんとなく思ってたけど、神崎ってちょっと変わってるよな? 氷室教授の講義に出てるのに教授のこと好きじゃなさそうだし?」
「同じ一年生のわたしたちにも敬語だしね?」
「や、それは……」
何か言い訳をしようとして、しかし言葉が出なかった。
誰に対しても敬語なのは子供の頃からの癖だ。そして氷室教授のことを好きじゃなさそうという点については……とてもじゃないが上手く説明できる気がしない。
好きか嫌いかと聞かれれば、すごく苦手という言葉が飛び出してくるが、さりとて無下にできないような恩もあって……と状況は複雑極まりなかった。
「んー、神崎、大丈夫か? なんか顔色悪いぞ?」
「そ、そうですか?」
顔色が悪いのはおそらく日光のせいだ。けれどまさかそんなこと言えない。
「うん。なんか青白いっていうか……ほら?」
「あ……っ」
見てみたら、という顔で、女子学生が折り畳みの小さな鏡を向けてきた。
今はマズいです。日光で弱ってる状態で鏡を向けられたら……っ。
「だ、大丈夫ですから!」
思わず大声で言って、鏡を手で遮った。しかしあまりに焦り過ぎた。理緒の声は教室中に響き渡り、講義が中断して、しん……と静まり返る。
しまった、と思うがもう遅い。
「神崎理緒」
氷室教授はもう笑っていなかった。
「レポートを五十枚に追加する」
「そんなぁ……!?」
慈悲の欠片もないお言葉だった。理緒は肩を落としてうな垂れる。
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