氷室教授のあやかし講義は月夜にて
古河樹/富士見L文庫
第1話 その出逢いは星の夜に
大学に入ったら新しい日々が始まると思っていた。
何も華かなものじゃなくていい。親しい友人が何人かいて、サークルやアルバイトに励んで、試験前にはちょっと慌てながら勉強して、そんなよくある穏やかな日常を送れたらと思っていた。
なのに、まさかこんなことになるなんて……っ。
激しくせき込み、
やや線が細く、色素の薄い少年だった。
今の格好はお気に入りのシャツにジーンズ。新生活のためにわざわざ買ったのに、今やどちらも赤く汚れてしまっている。
ここは
昼間は学生や教員が行き交っている場所だが、時刻は深夜。常夜灯が頼りなげに点いているだけで薄暗く、誰かが通りかかってくれる気配はない。
指先が次第に冷たくなり、意識も朦朧とし始めた。死が刻一刻と迫っている。
どうしてこんなことになったのか、自分を襲ってきたアレは一体なんだったのか、何一つわからない。そして何より、
「僕の人生は、もう……終わり……?」
死を前にして、虚しさと哀しさが溢れてきた。
まだ何一つできてない。
友達もサークルもアルバイトも勉強も、やっと叶った一人暮らしでさえ、まだほとんどできていない。
このまま死んでしまったら、自分がなんのために生まれてきたのかすら分からない。
「いやです……」
床を這いずるようにして、震える手を伸ばす。
「まだ死にたくありません……」
無人のエントランスに切実な声が響く。
しかし、少年のか細い祈りは誰にも届かない――はずだった。
「救いの手が必要か?」
ふいに聞こえたのは、氷のように冷たい声。
中央棟には『ガラスの階段』と呼ばれる、キャンパス内の名所がある。著名な建築デザイナーによって設計された階段は文字通りのガラス製で、オープンキャンバスや学園祭の際には華麗にライトアップされ、七色の輝きを見せてくれる。
今はかすかな常夜灯しか光源がなく、その美しさは鳴りを潜めていた。
だが天窓の向こうで雲が流れ、ふいに星灯かりが差し込んだ。
折り重なったガラスが星の光を幾重にも反射し、まるで天の川のような光景を作り出す。
その『ガラスの階段』にひとりの男性が座っていた。
ほんの一瞬前までは誰もいなかったはずなのに。
「ああ、ひどく驚いているな。声に出さずとも表情でわかる。なに、恥じることはない。そういうものだ。初めて
男性は非現実的なほど整った容姿をしていた。
まず目を奪われたのは、黄金を溶かし込んだような鮮やかなブロンド。青い瞳はどこまでも澄んでいて、見ているだけで吸い込まれそうなほど深く、美しい。
着ているスーツは一目でわかるほどの高級品で、包まれた手足はすらりと長く、階段で優雅に足を組んでいる。
男性は自分の膝で頬杖をつき、倒れた理緒を見下ろしていた。
「見たところ、邪悪なモノに遭遇し、興味本位で近づいて襲われたといったところか。まったく、なんという愚かさだ。人間とは本当に度し難い。しかし喜べ、この私はとても寛容で慈悲深い。お前の命の火は消えかけているが、助かる道を与えてやろう。なに、気にするな。
青い瞳がすっと細められる。
「選べ。人のまま死ぬか、人をやめて生き延びるかだ」
向けられたのは、温度のない冷笑。
多量の出血によってすでに頭が朦朧としていて、告げられた言葉の意味はほとんどわからなかった。それでもかすかな意識が疑問を投げかける。
「……人間を……やめる……?」
それはどういう意味なのだろう。
理緒は胸の傷を押さえて呻く。自分を襲ってきた何者かといい、目の前の男性といい、わからないことばかりだ。
「迷っている時間はないぞ?」
目の前の笑みに愉悦の色が混じる。
スーツの下、ベストのポケットから銀色の懐中時計が取り出された。リューズを押して蓋を開き、青い瞳が文字盤を見つめる。
「出血量からすると、お前の命は保ってあと五分というところだ。その間に決めるがいい。人間として不運な一生を終えるか、それとも私の眷属として新たな生を得るかをな」
やはり言葉の意味はわからない。もう考える力が残っていなくて、切実な願いだけがただこぼれた。
「僕は……」
震えながら言葉を紡ぐ。
「ちゃんと生きたいです……。誰にも迷惑を掛けず、自分の力でちゃんと……穏やかな日常を……」
大学に入ったら新しい日々が始まると思っていた。でもそんな希望は儚く崩れ、唐突にすべてが終わろうとしている。受け入れ難い理不尽に抗いたくて、理緒は必死に手を伸ばす。
「まだ終わりたくないです……」
目の前にいるのが何者なのかもわからないまま、縋った。
「なんでも……します。だから僕を助けて下さい……っ」
「はっ」
吐息のような笑いがこぼれ、直後、『ガラスの階段』に確かな哄笑が響き渡った。
「この私に願いを乞うて、求めるものが『穏やかな日常』とは! 死の淵に瀕してなんという矮小さか。しかし面白い。人間というものはこうでなくては。――気に入った!」
タンッ、と革靴の音が高らかに響いた。
男性が立ち上がった途端、コウモリのようなものが無数に現れ、一斉に空へと舞い上がる。
天窓からは今も星灯かりが降り注ぎ、『ガラスの階段』の反射によって無数の光が瞬いていた。天と地で星が輝き、黒き羽が空をゆく、まるで夢のような光景。
目の前でジャケットの裾が舞い、白く美しい手のひらが差し伸べられた。
「来るがいい」
彼は言った。
冷たい口調のなかにわずかな温かさを垣間見せて。
「――お前を新しい世界へ連れていってやろう」
星の瞬く、春の夜。
こうして神崎理緒は『人ならざるモノ』の手を取った。
その果てにどんな後悔が待つのかも知る由もなく、少年はまだ見ぬ世界の扉を開く。
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