殴ったら、野いちご

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

太陽が山奥へ逃げ隠れるころ、吉野の左手はじんと傷んだ。眼下には頬を抑えて横たわる吉野の母親。台所は光が差しにくいから、顔色は浮かべない。

 吉野が初めて殴った翌日。左手は野イチゴみたいに腫れた。


「ますます酷くなってるね」


 通行途中、吉野の横にいる世良が指摘した。

 吉野の左手は赤く膨れあがり、白い斑点が指の間や手首に点々とできていた。吉野の口内で野イチゴの味が再現される。

 あれから皮膚科を受診して塗り薬を処方された。一度も開封せずに学校指定の鞄の奥で煤けていく。


「もういいんだ。そのうち治るから」

「でも、気になるなあ」

「おいよそ見するなよ」


 前方のカチは携帯を確認しながら吉野らのやり取りを把握していた。目の横で通行人と当たりそうなところを目撃したのかもしれない。

 吉野は腕をパーカーのポケットに入れ込む。


「田舎とは違うんだから気をつけろ」

「カチ、お前。自分が都会のところに通ってるからって生意気だ」

「いいから騒ぐな。唾が飛ぶだろ」


 前列に一人、隣は世良。この三人は幼馴染だ。吉野と世良は同じ高校に通っているが、カチは都心に引っ越したから別の高校に通っている。彼らはラインでやり取りを欠かさず、年に一回は集合して遊ぶようになっていた。たとえ、世間がコロナウイルスで騒がれていても。


「マスクしてるだろ!」

「ああもう、うるさい」


 吉野はマスクの鼻を上げながら、世良から離れる。彼の振り回す腕が肩のコートに接触し、菌が繁殖してるようだった。吉野は腫れていない手で払う。


「世良は帰ればいいだろ」

「嫌だよ。カチみたいな高学歴とは仲良くしたい」


 有利の目に侮蔑が篭っていた。鷹のような鋭さが、前よりも強調されている。左手がまた痛みだすから、身体の背に隠す。

 カチが携帯の画面と街並みを交互に確認し、ある方向を指さす。


「ああ、ここ寄っていいか」


 そこはデパートだった。出入りするのは髪の毛を整えた大人たち。吉野はすれ違う女性の匂いが鼻につき、臆病になった。


「何の用事があるの」

「母さんが誕生日近いんだよ」

「ああ、カチって父いなかったな」

「おい言い方があるだろ」


 店内は装飾の明るい人間が高そうな品を並べている。やはり人通りは少なくて、レジに並ぶ客たちは間隔をあけていた。道の下はソーシャルディスタンスを守ってくださいの赤文字。


「いつも育ててもらってるからな。何か贈ってあげようと思ってな」


 エスカレーターに乗り込んで、手すりを触ったり離したりしてる。カチは前をずっと歩く。だから、吉野は顔が見えなくて不服だった。


「良い奴だ。何を上げたいんだ」

「うーん。肌荒れしてるからクリームと、あとは……」


 それから雑貨屋を3人でまわった。店員が女性向けのショップに男子3人の姿を訝しんだ。乗り気じゃない吉野は、ピンク柄の手ぬぐいをおすすめして嫌がらせした。自分よりも前に行く友達を見てられなくて、店近くの座席に座りたいと見回す。しかし、コロナで撤廃されて、ついていくしかない。


「あの、すみません」ある店でカチが店員を呼ぶ。「これの違う柄ありますか」


 目的のものを指さすけど、触らないから店員が困惑していた。触らない距離で察して、在庫の確認に行く。


「カチはいいやつだ」

「な、どうしたんだよ」

「親の手を焼いているのに感謝の品さえ贈ったことない」

「そうか? 吉野は大人しいし、親に感謝されてるんじゃないか」


 右手に目配せした。痛みが拡がって、吉野は慣れてきた。右手は赤く膨らんでおり、生まれてきた時からそうだったと錯覚させるような。


「外面がいいんだ俺は」

「俺はその外面が欲しいよ」


 その語尾から力が無くなっている。問いただしたくても、店員が接近し接客した。


「こういうものもございます」

「これは変わった色ですね」

「はい。これは今限定の〜」


 世良は鼻をすすり背筋を伸ばす。手が他の客に当たって、嫌な顔をされる。彼はその人へ謝りもせずに、カチから離れた。


「吉野、場違い感ないか」

「俺たちのいるような場所じゃない」

「贈り物なんて柄じゃねえしな」


 吉野の目は泳ぎ、フロアの隅にホコリが溜まっていたり、誰かの音した食べかすだったり、そういう不注意にかち合い溜飲を下ろす。


「親に愛されてるからあんなこと出来んだろうな。俺とか父親もいるし好きになれねえよ。どうしようもない俺みたいなやつを育てようって気の触れたことよくできる」


 友の家族は、過激だ。

 吉野と彼は家が近いから、家庭の環境が嫌でも入ってきた。昔は彼の家から、世良自体が大人の力で捨てられたところを、目撃したことがある。その時にできた額の傷のせいで、未だに吉野は世良と目を合わせることが出来ない。せめて出来ることは、常識的な指摘で逃げることだけだ。


「だから、お前は少しでも言葉を包めよ」

「やだ。嫌いだもんアイツ」


 とても屈託のない笑みを浮かべた。吉野に向けられることはなく、カチが帰ってきたことにより引っ込める。


「悪い。待たせたな」


 買い物が終わり、3人は足を休めることにした。しかし、喫茶店のほとんどは入場制限しており、椅子も撤去されている。ただ飲み物を購入し、壁にもたれかかる。


「ふたりとも。〇〇覚えてるか。おれ最近会ったんだけど」


 カチは吉野たちと昔の話を繰り返す。昔は弄られていた人の現在や、昔の面白かったエピソードを引用する。2人もそれに乗っかって話す。彼らはお互いを繋ぐ共通点が過去にしかない。誰かの愚痴や、今の不満。努力すればいいって結論から逃げるために並べていく。

 その中で吉野は頭が冷えていた。家族とは、なんだろう。彼だけが自分と同一のような望みをかけてしまう。

 まるで懐かしむフリをしながら、右手の原因を探る。母を殴ったのはひとつが原因ではなかった。


 吉野の母は人を優先する。休みの日だけど仕事を代わってあげたり、子供に美味しいものを譲ったりする。人にあげることばかり考えて、自分のことは顧みない。


『だから、皿洗いぐらい俺がするよ』


 その日、母は目のクマを濃くしていた。お手洗いに行く間に、彼の母が皿洗いを始めていたわけだ。


『いいよ。これは、私の仕事だから』

『でも疲れてるじゃん』

『いいの。これしかないから』


 吉野は湧き上がる殺意に抑えが聞かなくなった。手に力が入り、そのまま頬にぶつけた。そこに、彼の罪悪感は混ざっておらず、ただ一つ。こんな大人になりたくない。吉野は、なりたくないと誓ってしまった。


「最低」

「え?」


 彼は自分の居場所を忘れてしまっていた。今は母を殴った家ではなく、友達と買い物に来ていたこともだ。でも、どうでもよくなってくる。誰に何思っても、吉野の思ったこと全て自分に返ってくると居直る。


「俺たち、ずっとこのままなのかな」

「このまま?」

「昔の話を永遠と続けて、なにかなりたいと思いながら、家族に後ろ髪を引かれていくのかな」

「突然どうしたんだよ、吉野」


 吉野は左手に拳を握る。肌色の手をの壁に当てる。コンクリート作りの壁は冷たくザラザラしていた。拳を振り上げ、同じ速度で殴る。


「俺さ。母親を殴ったんだよ」


 コンクリートに顔が浮かぶ。母にプレゼントして喜ぶ顔。吉野の頭を撫でる金臭い父の慈しむ顔。テレビを眺めてるようで現実から虚脱する母の目。それらをすべて殴る。左手のひじが痛むけれど動かした。動かさないといけない。彼は使命感に駆られて殴った。何かから逃げるように、殴る。

 どうして人にあたることしか出来ない。粗を探して自分は大丈夫だと深呼吸して、なにか俺にはあるはずだと過信する。でも、そこに残ってるのは傲慢さだけ。吉野は心を解体していくだけで自分に呆れていく。どうしようもなく救われなかった。


「母は驚いてた。ダメだ。それを見るとなにか腹が立つんだよ。ダメだな。ダメだよ。もうダメだ。誰か殺してくれ。頭おかしいんだよ俺」


 2人は俺を止めなかった。正確には、俺の奇行に静止していた。止める選択肢さえ浮かばなかったようだ。その間に俺は自分の体を引き裂くように左手を酷使した。


「母はなんでオレを叱らないんだよ」


感覚が無くなるまで殴ったら、両手を見比べる。

 右手は赤く腫れて今にも潰れそう。左手は青くなって小刻みに震えている。

 吉野は匂いを嗅いでみたが、野いちごの匂いはしなかった。

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